行く者と送る者の約束




  【2】



 アッテラ神官になるとき、大神官――大師――と呼ばれる神殿最高位の神官に、神官になる者としていくつかの誓約をすることになる。
 その中の一つが強化術の制限である。
 肉体を強化する術は適正で決められた段階までにとどめておくこと、と。それ以上を望むなら自らを鍛えればいい、そうすれば術の効果は自然と上がる。だがもしも、命を懸けてもそれ以上の力が必要な時があるならそれを禁じはしない。ただしそのあともし生き残れたとしても、自分が積み上げて来たすべてを失う覚悟が必要だと。
 正直、この段階で全部を失う覚悟があるかと言われれば『ない』とエルは答える。しかも今が『命を懸けても』なその時かといわれればそれも違うんだろうな、とも思う。

――けどまぁ、これが俺の出来る最大限の事だからな。

『俺と一勝負してくれないか、マスター。勿論ただの手合わせじゃねぇ、アッテラ神官として最大限の強化を掛けての真剣勝負だ』

 エルのその申し出をセイネリアは受けた。ただもし勝ったら……なんてへたな約束はしていない。勝てる自信がないというのが大きいが、それでもあの男は分ってくれると思うからだ。
 弟のため、主のために出来る最大限のこと。考えることが苦手な頭で考えて――思いついたことがこれしかなかった。我ながら酷い脳筋ぶりだと思うが、これは自分にしかできない事となれば迷う事はなかった。

「全力で、となれば当然一本勝負しかできねぇ。ただしここまでだとストップを掛けるのはあんたに任す」

 自分の得物である長棒をくるりと回してエルは構えを取る。それからごくりと唾を飲んで術を掛けていく、最初に痛覚を切って、それから強化の術を重ねがける。段階を追って漲ってくる体と速くなっていく鼓動、心臓にかかる負荷が増しているのが感覚で分かってそれに恐怖と高揚を感じる。
 正面にいるのは、最強の男。
 正直、黒の剣を手に入れてからのあの男に勝とうと思ってこうして対峙したことはない。真っ黒な装備に身を包む長身は、見ただけで『勝てない』と思わせるだけの圧迫感がある。その金茶色の瞳を真っすぐ睨み返せば足が竦む。

 けれど、今日はこの男に勝つのだ、勝つつもりで戦わねばならない……最後まで。

 どくり、どくりと心臓がすでに危険を知らせてくる中、開始の声が上がる。駆け出せば笑えるほど体が軽く、足は一瞬で黒い男までの距離を詰める。想定外のスピードに、あの男でさえ最初の反応が僅かに遅れたのがエルには分かった。
 足を止め、瞬時に突く。
 それはさすがに避けられたものの、代わりに突いた黒いマントを長棒に引っ掛けて引っ張る。勿論それでセイネリアが体勢を崩すことなどないが、ほんの一瞬、その動きが止まったその隙に一歩前に出、長棒をくるりと返して布の絡まりを取ると同時に横に払う。剣で受けられないと悟った相手は鎧でそれを受け、その体を叩いた手ごたえが手に返った。

――なんだよ、当たるじゃねぇか。

 勿論刃物ではないこちらの獲物では、それで相手にダメージなんて与えられないことは分かってる。だが今まで武器をその体に触れさせた事もない男に当てたのだからその意味は大きい。しかもエルは当てる事を目的とするより『押す』つもりで叩いたのだ。相手の腹に当たったまま力一杯押せば、あのセイネリア・クロッセスでさえ足を曲げて体勢を崩した。
 とはいえそれで追撃を掛けようとしたエルは直後に自分が空を見ている事に気づいた。痛覚を切っているから仕方がないが、何が起こったのか分かったのは地面にたたきつけられてからで、それでも即座に起き上がって構える。

「これで終わり、とは言わねぇよな」

 ただの勝負なら確実に勝負ありだろう。だが今は勝ち負けを決めるために戦っている訳ではない。

「あぁ、お前はまだやれるだろう?」

 その声がどこか楽しそうな響きを持っているのに気づいて、エルも口元の血を拭ぐって笑う。

「当然だ」






 シーグルだっていきなりイエスと言って貰えるとは思っていなかった。お前のもとを離れたいと言ったシーグルに、セイネリアは驚愕を顔に張り付かせてまず反射的に『だめだ』と答えた。だがそれから、だんだんと彼の顔が苦し気に変わって彼はこう、言い直したのだ。

『いや待て……少し、考えさせろ。そしてお前も、もう少し言った言葉の意味をよく考えてくれ』

 そうしてシーグルは実質また謹慎状態になってしまった。それでも西館内なら出歩けるから、鍛錬が出来る分だけ時間を持て余す事はないが。

 ただ……今日の西館は妙に静かで、人の姿をあまり見ない。

 そのおかげで庭での鍛錬では集中出来たが、妙な違和感も感じる。謹慎中であってもいつもなら朝のシグネットへの謁見だけは付いていっていたのも今日はなくて、日課の庭の手入れをしているロスクァールの姿も今朝は見なかった。ドクターもいないようだし、他の情報屋連中もまず見ない、いるのといえば――自分の傍で剣を振っている男を見て、シーグルは聞いてみた。

「アウド、今日は何かこっちにやたら人がいない気がするんだが、お前は何か知っているか?」

 そうすれば彼は一度手を止めて、それからちょっと顔を顰める。

「さぁ、俺は知らないですが」

 それでシーグルも顔を顰める事になる。……実は、アウドに聞く前にソフィアにも既に聞いていて、彼女もあっさり『知らない』と答えたのだ。彼らが揃って嘘を言っているとはシーグルも思いたくないが、そこまで即答されるのもおかしいとも思う。なにせ彼らはいつもおせっかいという程こちらに気をつかっていろいろしてくれる為、こちらの疑問を『知らない』の一言で終わりにしてしまうのは違和感があった。普段なら知らなければ知らないで『聞いてきましょうか』と言い出す筈だと思うのだ。

「ドクターは今日は出かけたんだろ?」

 言えば彼は、そうみたいですね、となんだかあやふやな返事で、やはりおかしい気がシーグルはしてしまう。やっと足の治療と再施術が終わったアウドはまだリハビリ段階で、毎日朝と夜には必ずドクターに診てもらう必要があった。その彼がドクターがいるかいないかハッキリわかっていない段階でどこか変だ。

 とはいえ、彼ら二人が自分に嘘を付く筈がない。いや、もし嘘をついていたとすればそれは絶対に自分の為だからへたに追及するべきではない。シーグルとしてはそう結論づける事しか出来なくて、もやもやとしたものを抱えながらもそれ以上は黙っている事しか出来なかった。
 どうせ昼食の時間になればセイネリアがくる筈で、ならばその時に聞けばいいと結局はそう思ったというのが大きいが、なんとも微妙な気持ちを抱えてシーグルその日の午前中を過ごす事になった。


 だがシーグルの抱えていた疑問は、昼食まで待たずに解消する。
 昼にはまだ早い時間、部屋に姿を現したセイネリアにシーグルは驚いた。

「どうしたんだ? 何か仕事か?」
「いや……」

 謹慎処分みたいなもの……とはいっても一人で行っていい場所に制限がついているだけで、セイネリアが出掛ける時について行くのは変わらないし、彼はちゃんと食事は変わらずこちらにきて一緒に食べる。ただ今朝だけはどうしても用事があると聞いていたから、朝食はアウドとソフィアが来て賑やかに取ったのだが……まぁ、それがあったからこそ『今日は何かがある』という事が確信出来てしまったというのはあった。

「今朝は、悪かったな」

 暫く黙った後、急に僅かな笑みまで浮かべて彼がそう言ってきたから、シーグルもそれには笑って返した。

「いいさ、どうしてもの用事だったんだろ?」
「あぁ……そうだ」

 そこで浮かべた彼の笑みは自嘲を含んでいて、シーグルとしては妙な違和感を感じる。だが何かを聞き返す間もなく彼の手が頬に伸びて顔が近づいてきたから、シーグルは大人しく目を閉じて彼のキスを受け入れた。

「ンゥ……」

 いきなり深く口腔内をまさぐられると、流石にシーグルも顔を顰める。けれどもその後、優しく宥めるように彼は舌を擦りあわせてくるから、シーグルもいつも通り彼に合わせてその感触を辿った。
 彼の腕はいつの間にか頬から離れて体を抱きしめていて、服の上からとはいえ体がぴったりとくっつくその感覚が心地よい。彼の体温と匂いに包まれるとやはり安心出来てしまって、今なら正直にこうしている事が嬉しいのだと自覚出来る。
 何度か唇を合わせ直し、それから最後に唇を触れ合わせるだけの浅いキスをしてから唇を離す。けれどもそれで彼の顔は離れなくて、軽く鼻を擦り合わせ、それから彼はつぶやくように静かに言ったのだ。

「いいぞ……行ってこい」

 一瞬、何の事か分からなくて。
 けれども考えてその言葉の意味が分かると、シーグルは顔を離して彼の顔を覗き込んだ。

「いいのか?」

 セイネリアは一瞬だけ辛そうな顔をして、だが優しい笑みを浮かべるとシーグルを抱きしめて顔をこちらの肩に埋めた。

「必ず帰ってくるんだろ」
「あぁ、勿論だ」
「なら……条件は付けるが、暫く離れる事自体は許してやる」
「条件?」

 そこまで聞けばセイネリアは顔を上げて、ついでに腕も緩めるとこちらの顔を見つめてくる。

「詳しい事はエルから聞け。それと……あいつには感謝してやれ」
「エルが何かしたのか?」

 セイネリアはそこでもまた笑う。寂しそうに、けれども優しい目で。

「それも本人に聞け、今、ドクターの部屋にいる」

 そうしてセイネリアは腕を離して一歩引く。シーグルは一瞬躊躇したもののセイネリアが、行ってこい、と小さく呟いたからその場を離れた。だが、どうしても気になって部屋を出る前に振り返れば、彼はただ立っているだけだけでこちらを見ようとはしなかった。彼ならシーグルが足を止めた事を分らない筈はないのに、ピクリとも動くことなく立ち竦むその黒い背中を見て、すまない、とシーグルは呟いた。



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 次回はにーちゃんお見舞い。
 



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