揺れる心と喧騒の街




  【1】



 アッシセグの街の外れ、港町であるこの街の中では海から遠くなる場所に、黒の剣傭兵団の建物はある。朝が早いこの街では首都に比べてかなり早い時間に家々の灯は消え、深夜の静寂がやってくる。それでもこの建物の灯だけは、いつも遅くまでついてた。
 首都でさえ恐れられていた、強い者達が集う花と剣の印の傭兵団。高台にある為、街からよく見えるだろうこの館の灯は、深夜でもあそこの人間は起きている者がいるのだと、周囲の盗賊達に対するけん制にもなっていた。実際その所為か、ここに彼らが移ってきた時からこの港を襲撃にくる者はなく、周辺の盗賊も相当に減った。

 そんな建物の中、明かりがついている窓の一つに、セイネリアの執務室があった。

「レストとラストは落ち込んでいますよ。彼らはまだ子供ですから、貴方の役に立ちたくて仕方ないんです」
「俺は別に怒っていないぞ」

 窓の外、月を眺めながらセイネリアが言えば、カリンは僅かに笑う。

「そうですね、とても機嫌がいいみたいですし」

 それでセイネリアは、視線を月から誰よりも忠実な部下の女に移した。振り向いたその彼の顔が苦笑に歪んでいたのを見たカリンは、そこまでまた少し笑った。

「あいつらを見つけた時、もし、あのままシーグルの部下がこなかったら――俺は、あいつを返してやれたかと、さっきから考えていたんだがな」
「それで、結論は?」

 セイネリアはそこでそのまま黙る。
 手の中に持ったグラスの中、彼の瞳のような琥珀色の液体を眺めて、口元の苦笑だけはそのままで彼はただ黙る。
 カリンはその静寂に心地よく身を委ね、主が話し出すのをただ待った。
 やがて。

「――分からなかった」

 結論がその一言でも、彼女は静かな笑みを返した。

「今回は、会って話が出来れば十分だと思っていた。それが……あいつが一時だけでも俺を求めて、身を委ねてくれて……正直……あれは幸福というんだろうな……それが、過ぎた。手放す気でいた筈なのに、触れていればやはり放したくなくて――」

 そこまで言って彼は一度黙ると、ため息のように言葉をつづけた。

「あいつを抱いている間、どうすればあいつをこのまま放さなくていいかとそれだけを考えていた。このまま連れ去って、閉じ込めて……いっそあいつの帰れる場所を無くしてしまえば、あいつも諦めるだろうとさえ考えた」

 瞳は琥珀の酒を見たまま動かないのに、口元の苦笑は更に歪んで自嘲になる。

「だから、あそこで誰もこなければ、あいつを手放せなかったかもしれない。あいつを返してやれたとはっきり言える自信がない」

 琥珀の瞳はそうして閉じられる。
 眉間に皺を刻み、唇を引き結ぶセイネリアの姿を、カリンもまた目を細めて見つめていた。
 この男が、こんな弱みを見せるのは、最愛のあの青年に関する事だけだった。最強と呼ばれる事を誰も否定しない男が、これだけ苦しむのはあの銀髪の真っ直ぐな青年の事を想う時だけだった。誰よりも強すぎるからこそ、その心を向ける相手があの青年だけしかいないからこそ、深すぎるこの男の情はこの男自身を苦しめる。
 誰にも負けない男の、唯一自由にならないモノ。そして、人間らしい、たった一つの弱い部分に、ここまでこの男が苦しんでいるのを知っているのは、おそらくカリンだけだろう。

「ボス。私は貴方の判断でしたら何もいいません。ですが、シーグル様の事に関してだけは後悔しないでください。貴方が一番欲しいものが何かを忘れなければ、きっと貴方は後悔をせずに済む筈です」

 本当は、こうして彼が弱みを見せる度に、彼を抱きしめてしまいたくなる。自分こそが、彼の逃げ場になれるのではと思いそうになる。
 けれどもカリンは、正しく自覚し、理解している。
 どれだけ弱く見えたとしても、自分は彼の部下以上ではないという事を。それをわきまえているからこそ、彼は自分に弱さを見せてくれるのだと。

「あぁそうだな。俺が一番欲しいのは――」

 月を見る為、わざと明かりを暗めにしている部屋の中、琥珀の瞳がはっきりと開かれる。
 再び月を見上げた彼の顔には、弱さを伝えるものはなかった。








 平和な騎士団の朝の風景、まだ人が殆どおらず清浄な空気に包まれた訓練場に、そのすがすがしさをぶち壊す声が響いた。

「えー、当分シーグルは来ないってぇ?」

 その声に反応する面々の表情は、声に顔を顰める者、明らかに馬鹿にして笑う者……少なくとも、彼に好意的な者はここにはいなかった。

「あぁ、隊長は忙しいからな、暫く実家の方の用事でこっち出れないって事になってる」
「なんでだよぉ、折角、あいつがいると思ってきたのに……」

 がっくりと項垂れるロウに、グスは顔を顰めたまま大きくため息をついた。
 グス以外に早朝の自主訓練に出ているほかの面子はほぼ全員、ロウに向かって意地の悪い笑みで、ご苦労さん、や、残念だったな、と嬉しそうに声を掛けている。

 まぁ、彼がここまでシーグルの隊の連中に嫌われるのには、それ相応の理由があった。

 ロウはシーグルが子供の頃住んでいた村にいた知り合いで、いわゆる幼馴染という仲らしい。その所為で、シーグルは自分の身分も気にせずロウを友達として扱う為、『我々の隊長』を崇拝にも近い目で見ている連中からすれば、気に入らないのは当然だった。
 しかも『俺はシーグルにとって特別なんだぜ』といかにもそういう顔で親し気に話しかけているだけでも皆の反感を買っているのに、シーグルに対して本気でアプローチを掛けているのだから、それはもう、この隊全員から彼は敵扱いを受けているのだった。
 だが、それでもまだロウが表立った制裁を受けたりまでにはならないのは、彼がシーグルに下心のある誘いの言葉を言った途端、それはそれは徹底的に、毎回シーグルから酷い拒絶を食らっているからだった。
 ロウでなければ同情するくらいにそういう時のシーグルは容赦ないのだが、逆にその所為で隊の連中の溜飲が下がって、彼は放置されているというのもあった。

「仕方ねぇだろ。隊長は即位式前にシルバスピナ卿にならなきゃなんなくなったんだからよ」
「え? どういう事だ」

 シーグルの事をあれだけ追いかけているくせに、その程度も知らないのかとグスは益々顔を顰めてみせた。

「現王陛下が退位前に、最後の仕事として新しいシルバスピナ卿の誕生に立ち合いたいって事でな、急いで即位式前に隊長が正式にシルバスピナの当主様になる事になったんだよ。そりゃこっちなんか出てる余裕があるわけねぇ」

 それにロウは目を大きく開いて、文句を言おうとしていた口を開いたまま数秒固まった。

「シーグルが……シルバスピナの当主様になる、のか?」

 表情はどうみても茫然といったところで、グスは仕方ねぇなと頭を押さえる。

「だよ。ってか二十歳過ぎた時点でいつそうなってもおかしくなかったんだ、驚く事じゃねぇ」
「でも俺聞いてないぞ。親友の俺にも話してくれなかったのかよっ」
「ンな事お前に話したってまっったく意味ねーだろーが」

 本当は、アッシセグから帰ってきてリシェの港に着いた途端、シルバスピナ家からの迎えが来て事情を説明された――ので、シーグルがロウに話すような暇が一切なかっただけではある。
 ただ実際、平民のロウに言ってもどうなる話ではないので、もしシーグルが騎士団にいたとしてもロウに話したかは怪しいところだ。
 ともかく、事の真相を知った途端、ロウはがっくりと可愛そうなくらい肩を落として頭を垂れた。
 グスは相変わらずそれにも顔を顰めていたが、いつもシーグルに迷惑を掛けている(ようにしか見えない)彼がここまで落ち込む様を見て、意地の悪い考えが湧いてくるのもまた仕方ない。そこで思わず、追い打ちを掛けてしまうくらいには、実はグスもロウには普段から腹に抱えるモノがあったりした。

「まぁ、次にこっちに顔出す時は、隊長はシルバスピナ卿様だ。しかも陛下から新しい名前を賜る筈だからな、もうお前も今までの呼び方は出来ないぞ」
「な、なんだよ、それ」

 ロウが明らかに狼狽えたように顔を上げる。
 同時に、グスの口元に笑みが浮かんだ。

「旧貴族様はな、正式に貴族位を継ぐ時、主君である王から名前を貰うんだよ。今後『シーグル』って部分は身内名になるから、身内か同格以上の者以外が呼ぶとかなーり失礼に当たる。だっからお前も次からはシルバスピナ卿か、シルバスピナ隊長って呼ばなきゃなんねぇからな」

 勿論、貴族でない者がそんな事を知らないのは当たり前である。……グスもシーグルに説明されて、つい最近知ったばかりだった。
 その言葉はロウには相当の追い打ちになったようで、彼は頭を抱えたまま足元さえもふら付かせて、一応まだ立ってはいるもののゆらゆら揺れるようによろめいた。
 隊の者が、その彼の肩を叩いていく。

「たっいへんだなーロウ、つい人前で口滑って今までの名前呼んじゃったら、聞いた誰かに貴族院にチクられっかもしれねーなっ」
「間違えないように気をつけろよー。俺達は今まで通り隊長、で済むから心配ないけどな」

 落ち込むロウを面白がって、テスタやマニクが更なる追い打ちを掛ける。
 グスも流石に少々やりすぎたかと思うくらいの状況だったが、ロウがこれで立ち直れない程落ち込む事もないかと思い直し、からかう側に入る事にする。
 なにせ、この程度で立ち直れなくなるなら、彼はとっくにシーグルにヘンなアプローチを掛ける事なんか諦めてる筈なのだから。








 首都セニエティ街の風景はどこもかしこも浮かれていて、5日後に控えた即位式に向けて、街はお祭りムード一色であった。
 大通り脇には花の咲く鉢が並べられ、大量の荷物を載せた馬車が行きかう。人通りも普段より多く、いつもごった返している露店街など、歩くのにも人を押し退けなくてはならない程だった。

――こんなに混んでいる道では、騎士団からの人たちは通らないだろうな。

 そう判断した青年は、今来た道を引き返した。
 即位式を間近に控えた今、警備の人手が足りず、騎士団では全ての隊が駆り出されて街の警戒に当たっている。普段は訓練が多い予備隊は主に街の外の警備に割り当てられている筈で、そろそろ交代時間として次の隊が外へ出ていく――という情報を、彼は偶然掴んだのであった。
 彼の目的は、その予備隊であった。
 正しく言えば、予備隊の中でも第7隊、その隊長である騎士に会う事だった。

 街がすっかり即位式前の騒ぎに包まれる中、青年にとっては、実は新王などよりもっと嬉しい事があったのだ。
 それは、彼が尊敬する誰よりも立派な騎士が、家を継いでシルバスピナ卿となり、リシェの領主になった事だった。

 青年の名はナレドという。ただのナレド、姓はない。貧民層出身の者にとってはそれは別に珍しい事でもなく、クリュース全体においても、名前に家名があるのは国民の半数にも満たない。
 かつて、西区の最下層街に母親と二人で暮らしていたナレドは、5年前、その母親を殺害された。
 だが、貧民街では殺人事件も日常茶飯事で、その中の一つでしかないナレドの母親の遺体を、警備隊はぞんざいに扱って運んでいこうとした。彼にとっては大切なたった一人の母親、その遺体にしがみつくまだ少年だった彼を引きはがして、警備隊は嫌そうにモノのように片付けようとしたのだ。
 それを、通りすがったあの騎士の青年――いや、まだ当時は少年とも言える彼が、警備隊を呼び止め、警備隊の兵と争う事になってまで死者に敬意を払うべきだと言ってくれた。しかも彼は、母親にリパの弔いの祈りまでしてくれて、おかげで母親は丁重に運ばれ弔う事が出来、ナレドも最後まで母親の傍にいる事を許された。更にいえば、警備隊はその後、ナレドの母のように殺された遺体に対して随分と扱いが良くなって、住民達と警備隊の関係も少しだけ良くなった。
 まだ少年とはいえ、誰よりも立派で騎士らしい彼の姿を見て、ナレドは絶対に将来自分も騎士になると誓ったのだ。出来れば騎士になって、あの人の役に立ちたいと。
 母親を亡くして、子供一人で生きていかなくてはならなくなっても、その目標があるからナレドはがんばってこれた。どんなにきつい仕事も、体を鍛える為だと思えば嫌だとは思わなかったし、痛い思いも、悔しい思いも、自分の中の誓いを考えれば我慢が出来た。
 そうしてやっと冒険者になって、少しづつ仕事を貰うことが出来るようになった。
 剣だって少しは使えるようになった。文字書きも少しだけ覚えた。
 そんな中、あの人が、とうとう家を継いだと聞いて――ナレドはどうしても伝えたかったのだ。おめでとうございますの一言と、出来れば今自分がどうしているかの報告を。
 あの人――シーグル・アゼル・リア・シルバスピナに。いや今は、アルスオード・シーグル・アゼル・リシェ・シルバスピナ卿に。
 ずっとずっと、感謝して目標にしてきたと伝えたかった。




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今回はナレド君とシーグルのお話。




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