心の壁と忘れた記憶




  【10】



 子守唄が聞こえる。
 それは寝る時に母親がよく歌ってくれたものだと、それを思い出せば目の前には赤い髪の女がいた。

『愛しているわ、母さんにはお前だけなのよ』

 暇さえあれば彼女はそう言って自分を抱きしめた。ちょっとでも彼女から離れればすぐに不安そうに探し回って、だから彼女の傍を離れられるのは彼女が仕事の時くらいしかなかった。寝ている時も自分を抱きしめていたから身動きが取れなくて、小さい頃は重いとか苦しいとかよく文句を言ったものだ。

『愛してるわ、セイネリア』
『あぁ俺も愛してる母さん。ほら、愛してるから離してよ、食べられない』
『あらごめんなさいね、ねぇ美味しい? 美味しい? セイネリア』

 食事中も頭を抱いているから食べられないと、そう文句を言ったのも数えきれない程ある。やっと離したと思えば隣に座ってじっと見つめて来て、結局食べにくくて文句を言ったのも一度や二度ではない。それでも自分はいくら怒っていても彼女が笑っているのが嬉しかった。
 赤い髪の女はいつでも笑っていた。笑っている彼女の顔は、いつでも『愛している』というその言葉と共にあった。

 ――ゆっくりと目を開いたセイネリアは、意識が覚醒すると同時に、自分が悪夢で起きたのではなく穏やかな気持ちで目覚めた事に驚いた。そうして自分の体勢を確認して、鼻に彼の匂いを感じて、口元を歪めながら再び目を閉じる。
 彼を感じればそれだけで心が温かくなる。
 大きく息を吸って彼の匂いを確認して、そうしてセイネリアは頭に浮かんだ女の姿に、自分が夢から覚めてもその顔を覚えている事に驚いた。

――顔も、思い出せなかった筈なんだがな。

 母親に『誰』と呼ばれたその時から……つまり生まれ育った娼館を出てきた時から、セイネリアの中で母親の記憶はあやふやになっていた。母親が自分を溺愛していたという覚えは確かにあるのにその時を思い出せない、母親に愛されて、母親を愛して暮らしていたと確実にその頃があった筈なのにその時の場面は何も思い出せなくなっていた。
 彼女を殺すその時を毎夜のように夢に見た時でさえ、目覚めれば彼女の顔が思い出せなかった。夢では確かに見ていた筈なのに起きれば記憶に残らない。大人になってからあの女に会って殺したというのにその顔が思い出せない……その筈、だったのに。
 今何故か、セイネリアの頭の中に笑顔の女の顔がある。愛していると囁いて、いつでも抱きしめてくる母親の記憶が思い出せる。

『愛しているわ、セイネリア』

 いつでも不安でたまらないという顔で、自分を探して、抱きしめて。その場面を思い出して、セイネリアは分ってしまった。自分は、あの女と同じ事をしていると。
 抱きしめて、頭に鼻を埋めて、その存在をいつでも感じていたくてそうでないと不安になる。あぁ本当に自分は確かにあの女の子供だったのだと、あの女と同じではないかと、そのことに気付けば自分という人間の弱さが分る。女はすぐ壊れるとはよく思ったものだ、自分もなんら弱さは変わらないではないか。
 そうして自然と自分の下にある彼の身体を抱きしめてしまえば、そこで彼が身じろぎをしたのに気付く。彼はこちらが起きているのを分かっただろうに、まずはふぅと大きくため息をついて、それからこちらの背中に手を回して、トン、トン、と母親が子をあやすように軽く叩いてきた。

「眠れたか?」
「あぁ――おかげでな」
「なら上から退いてくれ……流石に身動きが取れない」
「あぁそうだな、悪かった」

 そうしてセイネリアが身体を離して起き上がれば、シーグルは安堵したように大きく息を吐いて、彼もそこから起き上がると背伸びをした。

「鎧を着たままでこの体勢は正直きつかったぞ」
「だが着てなかったら重さで相当苦しかったろ」
「まぁそうだろな、だから寝るならこんな気を失うような寝方ではなく、ちゃんと自分からベッドに入って寝てくれ」
「そうだな……世話を掛けた」
「あぁ、掛け過ぎだ」

 未だに体のあちこちが痛むのか、彼はベッドから降りはしなかったものの座ったまま首やら肩やらを回している。外を見れば既に日が沈みかけているから、少なくとも3,4時間は寝ていた事になる。それなら確かにきつかったろう。

「……お前に、俺の母親の話をしたことがあったか?」

 ふいに口から出てしまった言葉に、聞いたシーグルと、そしてセイネリア自身も驚いた。だがシーグルはすぐに微笑んでこちらを見て返してくる。

「いや、お前からは聞いていない。前にぬいぐるみの話をした時に言いかけたようだったがそれだけだ。ただカリンから、お前は親にとっていない存在だったとは聞いた事がある。だからこそお前は自分自身の力で強さを手に入れて、自分の価値を作る事に拘ったと……」

 そうだ、確かに自分という人間の価値を掴み取りたかった、自分自身の生きる意味が欲しかった。それが今は――と考えれば、口元には苦い笑みしか湧かない。

「俺の母親は娼婦でな。よくある話だ、客の男と恋仲になったが男は戻ってこなかった。女はそれで生まれた娘を『セイネリア』と名付けて溺愛したが、その娘はすぐに死んで、その後に女は息子を生んだ、それが俺だ」
「それで、お前にも『セイネリア』とつけたのか?」
「そうだ、女は娘が死んだという事実を忘れて、息子を『セイネリア』と呼んで溺愛した。だがいつまでも息子が娘に見える訳がない、ある日男の恰好をした息子を見て、女は『誰』と言った訳だ。そこで『セイネリア』は分かったのさ、女は自分の顔さえ見ていなかった、自分は母親にとっていないも同然の存在だったという事にな」

 シーグルは黙ったまま表情を強張らせる。彼にとって幼い頃引き離されてしまった母親は、まさに無償の愛をくれる一番焦がれた存在だったに違いない。それが全て偽りだった事を、彼は想像して自らが痛みを感じているのかもしれない。

「あの女に『誰』と呼ばれた時に俺の心は死んで、それからずっとあの女の顔が思い出せなかった。あの女と過ごした日々の事がすっぽり記憶から消えていた。なのにな、何故か今になって思い出したんだ。……記憶の中のあの女は、俺を事あるごとに抱きしめていた、少しでも姿を消すと不安そうにして、いつでも抱きしめて、鼻を頭に擦り付けてきて……まったく、あの女と同じ事を俺はお前にしていたのだと思ったのさ」

 不安で、唯一縋って愛情を注ぐものがそれしかいなくて、ただ求めて、求めて、その存在をいつでも確かめていたい。そうやって母親が自分を抱きしめる姿を思い出せば、自分がシーグルにしていた行動が重なる。あの女の事など綺麗に忘れていた筈なのに、やっていた事は同じだったとはなんと皮肉な話だろう。

「セイネリア、お前……」
「あの女は、男に捨てられた時点でおかしくなってた。弱い女だと馬鹿にしていたのに、俺はあの女と同じ事をしていたんだ、まったくまぬけな話だ」

 つまり自分は、あの女を馬鹿にしていたのにあの女と同じ壊れ方をしようとしていたのか――そう考えれば笑う事しか出来ない。顔を押さえて、喉を震わせて、肩を上げて、こみ上げてくる笑いに身を任せる。あぁ本当に自分はなんと愚かだろうと最早嘲笑う事しか出来ない。

「セイネリアっ」

 そこで強い声で名を呼ばれて、セイネリアは顔を上げた。
 そこには自分をじっと睨んでいる濃い青の瞳があって、そのどこまでも澄んで深い青に胸が甘く疼いて痛みを訴える。その青に自分の顔が映っている事が、彼が自分だけを見ている事が無性に嬉しくてそれをもっと確かめたくなる。
 けれど、セイネリアは吸い込まれるように彼に向かって行きそうな体を止めて、身を引き、背を伸ばした。今、彼に触れてはだめだと自分に言い聞かせて、自嘲にならざる得ない笑みを唇に浮かべた。
 だがそれを許さないとでもいうように、シーグルの手がセイネリアの腕を掴む。

「逃げるな、セイネリア。お前は黒の剣に抗っているんだろ、なら最後まで抗え。その為に必要な事なら俺はいくらでも手伝ってやる。もし次にお前が暴走したなら今度は殴ってでも止める、何があっても呼び戻してやる」

 セイネリアはただ愛しいその瞳を見ていた。腕を引かれて、彼が抱きついてくるのが分ってもそれを拒めなかった。抱きついてきたその体を抱きしめる事を止められなかった。

「……だからお願いだ、俺の為に自分を見捨てるな、一人で全部抱え込むな、ちゃんと抗ってくれ……お前だけで辛いなら、俺にもそれを分けてくれていいんだ。俺はお前にただ守られる為にここにいるんじゃない。俺もお前を守りたいんだ、お前を助けたいんだ」

 彼の瞳はどこまでも真っ直ぐで曇りなく、強い。
 吸い込まれるように深く澄んだ青色を見つめて、本当に、自分が愛せた存在が彼だった事が一番の奇跡だったとセイネリアは思う。例えこの先に最悪の絶望が待っていたとしても、彼を愛した事だけは後悔しない。彼でなければきっと自分は留まれなかった、間違っていても引き返せなかった。
 けれどもセイネリアはだからこそ思いもする――彼だけは失くす訳にはいかない、彼の強さを、輝きを、少しでも失う姿はまだみたくない。

「そうだな……確かに俺は少し無理をしすぎた」

 抱きついてくる彼の首元に鼻を埋めて、もっと彼を感じたいと疼く心を抑えて、セイネリアは片手で彼の身体を抱いてもう片手でその銀の髪を撫でる。

「確かにあのままただ抑えていただけなら、耐えきれなくておかしくなっていた可能性の方が高い。これからは少し考えて、限界の時には大人しくお前の部屋に眠りに行く事にしよう」
「セイネリア?」

 言葉のニュアンスに微妙にひっかかりを覚えたらしいシーグルが顔を上げた。それを見てしまえば無性に口づけたくなるものの、そこは苦笑で誤魔化して彼を見つめる。

「だが、お前を抱かない、必要以上には触れない」
「おい、セイネリアっ、それでは何も解決してないだろっ」

 再び瞳に怒りを映す彼の額にキスをして、やはり笑みで今は終わりにする。

「今回のように、限界がきてから眠るならお前に手を出さなくても済むだろうからな、今はそれだけでいい、それで十分だ。……だがシーグル、さっき言った事は忘れるな、何かあったら俺を止めろ、少しでも俺がおかしかったらどうにかして俺を止めてくれ……殺すつもりでだ、忘れるな」

 シーグルはそれにも何か言おうと口を開き掛けたが、それは飲み込んでこちらの顔を覗き込んでくる。

「あぁ……分った……だがセイネリア、お前、まだ俺に隠している事があるんじゃないか?」

 セイネリアはそれにも笑みを返すと、シーグルの頭に鼻を埋めて、久しぶりの彼を感じようとした。

「あぁ、ある。いつかは教える、遠い話でもない……だが今はまだ……もう少しだけ待ってくれ」

 そうして誤魔化しはしても正直に答えれば、彼は納得してくれるだろう。
 シーグルが大きくため息をついたのが分かった。

「本当に、いつかは教えてくれるんだな」
「あぁ、もう少しすれば嫌でも分かる事だ、だからもう少し……」
「もう少し?」

 彼の髪の匂いを嗅いで、髪の感触と彼の頬の感触を手で感じて。だが抱き寄せたその腕の感触が鎧の上である事を残念に思う。本当ならちゃんと彼の体温を腕に感じて……いや、肌と肌で彼を感じたいと思っても、そこまでを自分に許すのは今は危険だろうなと寂しく笑う。

――もう少しだけ、今のままのお前でいてくれ。

 もう少しして、彼が自ら気づくまで。それまでにもう少し自分の心に覚悟を植え付けて、それから全てを打ち明けよう。臆病な自分を嘲笑いながらも、まだ彼には何も知って欲しくないと願う。そんな身勝手で愚かな自分を、知った時の彼は怒るのだろうとは思っても、まだ彼には変わって欲しくないと願う。それが所詮、ここからどれだけ続くのか分らない時の中のほんの一瞬の差だと分っていても。

「セイネリア?」

 何よりも愛しく大切な彼を抱きしめて、その存在を感じて、そうしてセイネリアは再び心の緩みのまま幸福過ぎる眠りの中に意識を沈めていく。あぁ本当に自分という人間はロクでもないとそう思えば、昔よくそう言っていた師でもあった男の顔が微かに浮かんだ。そうすれば沈みゆく意識の中に、その頃の自分が蘇る。

 母親に『誰』と言われた時に自分の中の感情は死んだ。生きる意味のない存在だと知った時から、強くなる事で生きる意味を掴み取ろうと思った。
 そうして手に入れた黒の剣の力を知った時、自分にはもう強さを掴もうとする事さえ出来なくなったのだと理解した。生きる意味など何もないのにそれでも生き続けなくてはならないのだと、なんという無様な存在だと自分で自分を嘲笑った。所詮自分は何の意味もない人間なのだと、笑って、笑って、自分の生と剣を憎んだ。

 だから、その頃の自分に言ってやる。今この手の中にあるモノこそがお前の本当に欲しかったものだと。お前の絶望はやがて、『彼』に会った時に終わる事が出来るのだと。




END.  >>>> 次のエピソードへ。

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 エピソード終了です。このエピソードのタイトルは実はセイネリアの事だったんですね。
 



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