決断と決別の涙




  【9】



 明るさに目を開けば、見上げた天井は今度は最近見慣れてきた自分の部屋のもので、起き上がれば明るい女性の声が彼女の笑顔と共に掛けられる。

「起きられましたか? 何処かお加減は悪くありませんか?」

 何故ソフィアがここに、と思ってから、そういえば彼女が自分の世話係になったのだと思い出して、シーグルはベッドから下りて立ち上がった。

「いや、大丈夫だ、別に気分は悪く……ない」

 腕を回して首を回して、体を少し伸ばしてみて具合を確認する。別に何処も悪くはないが、やけにソフィアが心配そうにこちらを見るから笑って見せる。

「特に問題はない、心配しないでくれ。それよりセイネリアはもう起きて出ていったのだろうか?」

 ベッドに彼がいなかったから何か緊急の用事でも入ったのだろうか、今日の予定はどうなっていただろうか、とそう考えたシーグルは、ソフィアが酷く驚いた顔をして自分を見ている事に気が付いた。

「昨夜の事を覚えていないのですか?」

 そう言われて初めてシーグルは昨夜の記憶を辿ってみる。……そうして、思い出す。思い出したと同時にあの時の苦しさと吐き気がこみあげてきて、思わずその場で腰を折って口を押えた。

「待っていて下さい。今すぐドクターを呼んできます」

 止める暇もなく彼女はその場から即消えてしまったから、シーグルはふらつく足でどうにかベッドに戻りその上に座った。目を閉じて口を塞いでいれば暫くして吐き気は収まってきたものの、荒くなった息を整える為に座ったまま蹲った。

――俺はあのまま気を失ったのか。

 思い出せば、よく無事に済んだと我ながら思う。いや、恐らくは気付いたセイネリアが治療役達を総動員して自分の治療をさせたのだろうが、一体どこまで酷い状態になっていたかは想像もしたくない。

「お、ちゃんと起きてるね。さって、体の方は大丈夫なのかな」

 特徴のある声に顔を上げれば、部屋の入口には紫の髪をした医者の魔法使いが立っていて、シーグルは彼に苦笑して見せた。恐らく転送先で相当焦って彼を探しでもしたのか、彼の後ろには少し息を弾ませているソフィアの姿が見えた。

「あぁ、多分。歩いてもどこも痛まなかったから大丈夫だろう」
「まぁ三人がかりで念入りに治療したからね、これでどこかまだおかしいって言われたら困るけどね」

 肩を竦めて、皆からはドクターと呼ばれている魔法使いサーフェスは、シーグルの傍までくると座り込んで顔を覗き込んでくる。

「まぁ顔色は良さそうだね、双子君達に言って朝まで眠らせちゃったのは正解だったかな。……今はマスターの方がよっぽど酷い顔色だけど」
「セイネリアはどうしてるんだ?」
「今日はもうお城に行ったよ。あんたは今日一日お役御免だから安静にしてる事、っていうか昨日の今日でマスターにすぐ会いたくないでしょ?」

 シーグルはそれに口を閉ざす。
 おそらく酷いありさまだったろう自分の状態に気づいた時、セイネリアはどうしたのだろう。焦って、恐れて、急いで治療役の者達を呼んだのだろうか。自分に何かあるのをあれだけ恐れていた彼なら、彼自身の手で自分を傷つけた事にどれだけ後悔したのだろう。

「マスターからはあんたの体についてはそれはもう脅す勢いで頼まれてるからね、おかげでこっちは朝近くに寝たのにいつでも起きれるように仮眠しか出来なかったよ」
「……申し訳ない」

 紫の髪の魔法使いは、シーグルの腕やら首やら胸やらに手や耳を当てながら話を続ける。

「あんたが謝る必要はないよ、悪いのはマスターだしね。まぁあんたに文句いうとするなら、マスター相手にヘタな事したねって言うくらいかな。まったく、何してマスターが暴走しちゃった訳?」

 それにはまた黙ったシーグルを見て、サーフェスは手を止めて暫くシーグルの顔を見ていたが、やがて諦めたようにため息を付いた。

「まぁ無理に言わなくていいけど。終わった事をあれこれ言っても意味ないし、次からは気を付けたほうがいいよって言うくらいだね」

 いいながらまたシーグルの体を調べだした彼だが、ふいに急に声のトーンを変えて聞いてくる。

「……で、マスターはどれくらいヤバかった?」

 医者の言葉に、シーグルはごくりと喉を鳴らした。

「あんたに関してだけはあの人は感情的になる。それは分かってた事だけど、前提としてあんたの事だけはとてつもなく大切にしてる筈だからね、それがあの状態だから……あの人が文字通り暴走したとしか思えないでしょ」

 言われて思い出すだけでもぞっとする、シーグルは正直、このままだと死ぬかもしれないとさえ思った。セイネリアに抱かれているというより、獣に食われているような感覚だった。朦朧とした意識の中で、それでも彼を拒んではいけないとだけ自分に言い聞かせていたが、本当は逃げ出したくて仕方なかった。嫌だと、やめてくれと、叫びたくて仕方なかった。

「ただ、俺を強く求めて……貪っている、だけだった。正気、ではなかったと思う」
「あんたが止めてくれっていっても聞かなかったの?」

 それには首を振る。

「いや、俺は拒まなかった。拒んではいけないと思った、から」

 紫の髪の魔法使いは、それに不愉快そうに眉を寄せた。

「それで死にそうになってたら世話ないね。あのさ、そこで拒まれたマスターが落ち込もうが苦しんでのたうちまわろうがそもそもあんたが死んだら元も子もないんだけどね。あんたが死んだらマスターは暴走どころか二度と正気に戻れなくなる、嘆くあまり黒の剣に心を奪われてこの国全部潰すだろうね、それこそあんたの街も家族も部下も、跡形もなく消し炭になるよ」

 言葉で言われると改めてシーグルも実感する。リオロッツの軍勢の半数以上を一瞬で消し去った力……それが暴走したら、確かにこの周囲一帯は消えるだろう。いや、自分を狙っていた魔法使い達の計画だと、セイネリアなら剣に守られて剣の力を使い切るまで暴れ続けるということだった――あの剣を作らせた王が剣を持った後、死ぬまで暴れた結果があの樹海だというなら、あれの数倍規模の被害が出るのは確実だろう。

「それにね、もしあの男に何かあった時、あんただけは呼び戻す事が出来る筈なんだ。あの男がどんな状態になったとしても、あんたが呼べば戻って来れる筈なんだよ」

 セイネリアに何かあったら。何かあって彼が昨夜のように正気を無くしたら……考えれば考える程背筋が震えて、シーグルは両腕を押さえた。

「あいつは……そんなに危うい状態なのか?」

 それでもまだどこかでシーグルはセイネリアの強さを信じていた。彼は自分で自分を押さえて乗り越えてくれると信じていた。……だが、昨日のセイネリアを見て、初めてシーグルは本当に我を無くす彼を想像出来てしまった。

「黒の剣の中には世界全てを憎んだ魔法使いギネルセラの魂がいる。その魂とマスターは繋がってる、今まではあの人の心にギネルセラが付け入る隙がなかったから問題がなかったけど、あんたという人間があの人の心に入り込んだ後からそれがあの男の弱みになった。ギネルセラは恐らく、それを突いてあの人の意識を飲み込もうとしている筈だよ」
「だが、セイネリアが剣の主であるのは、剣の中にいる騎士が……」

 思わずそう反論してから、シーグルははたと気付いて口を閉ざす。

「騎士? それはギネルセラと共に剣に入れられて、ギネルセラに取り込まれたという騎士の事を言っているの?」

 口を押さえてあきらかに失敗したという顔をしたシーグルを見て、サーフェスは怪訝そうな顔をする。それから僅かに笑みを浮かべた。

「ふぅん、そうか、騎士はギネルセラに完全に取り込まれてる訳じゃないって事かな? うん、そう考えるとマスターが剣の主となれたのも多少は分かるかな」

 言葉からも推測できる通り、彼が笑っているのは理論的に不明だった部分の穴が埋められたという、魔法使いとしての知識欲を満たされた所為であるのだろう。勿論口が滑ったシーグルとしては、そんな彼の独り言のようなとはいえ確認の言葉にこれ以上何かを答えられるわけが無い。
 じっと彼の様子を伺うシーグルに、だが魔法使いは今度は屈託のなさそうな軽い笑みを浮かべた。

「あぁ、他の奴には言わないよ。魔法ギルドに伝わってる伝承が間違っていたっていうのは漏らしたくないんでしょ? どーせ僕はギルドからは追放されてるような身だからね、彼らに話したりはしないよ」

 それには思わず表情から緊張が抜けたシーグルだったが、医者でもある魔法使いは笑みを収めたかと思うと即座にすっと瞳を細めて、少し声のトーンも落とす。

「……で、話は戻るけどね、もし騎士がマスターとギネルセラの間に入っていたとしても完全にギネルセラの意志からマスターを守る事は出来ないだろうね。いいかい、まずマスターには魔法は効かない。魔法はより強い魔力で打ち消せるって理論の通り、マスターの体には剣の魔力が通ってるからだね。あの剣は世界から取り込んだ膨大な魔力とそれを制御するギネルセアの魔力で成り立ってるんだ、つまりね、ギネルセラは剣の魔力の出入り口みたいな役目をしてるって言えば分かるかな。だからマスター自体にに魔力が流れてるって事でギネルセアと繋がっていない訳がない」

 確かに、騎士の魂が完全にギネルセラの意識を打ち消してくれる――というのは自分でも希望的な推測だろうとシーグルも思ってはいた。セイネリアが時折見せる不安定な様子はギネルセラの影響ではないかと何度も考えた。ただ……今までは、まだ決定的に危ういと思える程のことがなかったから、彼は大丈夫だと自分に言い聞かせて安堵しようとしていただけだ。

「かつてあの剣を手にしたものは、例外なくギネルセラの狂気に飲まれて暴走してる。だからギネルセラはマスターの事も取り込もうとしている筈だよ」

 考えるだけで背筋が凍る。
 震えそうな体を押さえて歯を食いしばるシーグルを見ると、医者の魔法使いは苦笑と溜め息の混じったものを吐き出して立ち上がった。

「でもこれだけは忘れないでくれるかな。マスターがギネルセラに付け込まれそうになるのはあんたがいるからだけど、それでもマスターが自分を保ててるのもあんたがいるからなんだよ」

 そして、それを告げると彼は後ろを向いてシーグルに向けて手を振った。

「さて、僕のお仕事はこれからあんたの薬の調合。まぁ薬といっても栄養剤がメインだけどね。……ここからのあんたの治療は、呼ばれるのを今か今かと待ってるエルにバトンタッチ。もーほんとにあんたのこと心配してうっとおしいくらい煩いから覚悟しときなよ」

 言うと彼は部屋を出て行く。シーグルは未だ表情を苦しげに歪めたまま、その彼の背中を見送った。



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 ホーリーさんはお留守番して薬の調合準備中。



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