ゆくべき道と残す想い




  【6】



「シーグル、お前にとって俺は何だ?」

 シーグルが僅かに動いたのをセイネリアは気配で感じた。

「憎いか、俺が」
「いや」
「怖いか」
「いや」
「嫌いか」
「いいや」
「なら、好きか?」
「……そんな、単純な言葉で割り切れるものじゃない、だが……」

 そこでセイネリアは顔を下に向ける。
 そうして、真っ直ぐ見上げてくるシーグルの青い瞳に尋ねる。

「だが?」

 シーグルが小さく息を付いて、それから口を開く。瞳を真っ直ぐセイネリアに向けて、彼は答える。

「嫌いか、好きかと聞かれれば、好き――だ。お前はずっと俺の憧れで理想で……だから犯された時でさえ本心から嫌いきれなかった。そのお前が俺を愛しているという事が、俺は、本当は、嬉しいんだ。……だからお前に触れられたいと思う、お前の腕の中にいられたらとも思う」

 セイネリアはそこで微笑んだ。くすりと、空気に合わない軽い笑みを浮かべると、シーグルの表情が一瞬怯むように歪んだ。

「それでもお前は、俺に触れられるのは『嫌だ』と言うんだな」

 苦しげに歪んだ表情から、シーグルは一度目を閉じる。けれどすぐに目を開いて、強い瞳でセイネリアを真っ直ぐ見つめてくる。

「そうだ。俺はシルバスピナ家の当主だ。その為の立場と義務がある。お前の腕の中にいたら、俺はその役目を果たせなくなる……俺は、弱くなる、俺でいられなくなる。だからお前には触れられたくない、もう、お前とは会わない」

 今度は口元だけの笑みを浮かべて、セイネリアは暫く、その焦がれる程愛おしい彼の瞳を見つめると、ふいに目を逸らして彼に背を向けた。
 そうして、一言、一言、はっきりと、ゆっくりと、彼に告げながらセイネリアは自分の椅子に向かって歩きだす。

「お前が、お前である為に、俺がいてはならないというなら、望み通りお前の前から消えてやる。二度と姿を現さないと約束してやってもいい。……たとえそれで俺がどれだけ苦しみ、傷ついても……お前がお前でいる為に必要だというのなら、それは耐えられない事じゃない」

 何も言わずじっとこちらを見つめているシーグルの視線を背に感じながら、セイネリアは彼から離れていく。執務室の一番奥、自分の机のところまでくると、引いたままの椅子を直してそこに座る。それから顔を上げればまた、客人の席でたっているシーグルと正面から向き合う事になる。
 彼らしく、背筋を伸ばして立ち、白い容貌の中目立つ濃い青の瞳が真っ直ぐ見つめてくる。だからセイネリアもまた、琥珀の瞳を真っ直ぐ彼に向けて言った。

「だが、それならお前も約束しろ、自分の身をちゃんと守ると。俺がお前の無事を考えて生きた心地がしない日を過ごさなくて済むようにすると。……お前の前から消えてやるという約束は、お前がその約束を守っている間だけ有効だ。お前に何かあれば……俺は何時でもお前の前に姿を現す、分かったな」

 シーグルは瞳と同じ強い声でそれに答える。

「……あぁ」

 それでも、声の中に僅かに彼の不安や迷いを感じて、セイネリアは笑みを漏らす。

「ならもう行け。これ以上ここにいると、俺が耐え切れなくなってまた無理矢理お前を犯すかもしれないぞ……なぁ、しーちゃん?」

 シーグルも口元だけで無理に微笑む。

「あぁ、そうだな」

 それから、精一杯の虚勢とはいえ背筋を正して、弱さを見せないようにして、彼はその場で礼をする。

「すまない、そしてありがとう、本当にお前には感謝している」

 言ってくるりと綺麗な回れ右で背を向けたシーグルの背を眺めながら、彼が歩きだそうとする前に、ふと思いついてセイネリアは口を開いた。

「シーグル、お前が俺だけには抱かれたくないといったのは、妻だけを愛すると誓ったから、というのもあるんじゃないのか?」

 一歩踏み出した、シーグルの足が止まる。

「……あぁ、そうだ」

 僅かの逡巡の後の彼の答えに、セイネリアの口角が大きくあがる。それは自嘲と満足が混じった、この日一番彼が嬉しそうに見える笑みだった。
 それを見てはいないシーグルは、またすぐに歩きだす。けれども彼は、ドアの前までくると、そこで唐突に振り返った。

「セイネリア、俺は、お前の事を忘れない。お前がしてくれた事も、お前に対して感じている事も決して忘れない。お前の……幸せを願っている」

 やはり背筋を真っ直ぐのばし、迷いない瞳で彼はそれだけを告げると、今度こそドアを開いて部屋から出ていく。
 ドアが閉じると同時に、セイネリアは琥珀の瞳を伏せた。

「俺の幸せ、か……無理な事をいってくれる」

 喉をふるわせながらそう呟くと、セイネリアは大きく息を吐いた。
 セイネリア以外に誰もいない部屋の中に音はなく、僅かに廊下を去っていく彼の足音が聞こえる。それもすぐに聞こえなくなって、あたりから聞こえる音はすべて消えても、セイネリアはただ目を閉じてまるで眠っているようにじっと動かずにいた。
 やがて、外に出た彼がフユと会ったらしく何かやりとりをする音が窓から聞こえて、それからまた、今度こそ本当に彼が去ってしまってその音も消える。
 そうしてからやっと目を開いたセイネリアは、今の間に部屋の外にやってきた気配に向けて声を掛けた。

「ラスト、レスト、何か言いたい事があるなら入ってきていいぞ」

 そのままドアを見ていれば、おそるおそるといった様子でそれが開いて、白い髪の少年達の目がちらと見えた。その赤い瞳がセイネリアと合うと、ドアが完全に開かれて、双子のアルワナ神官の少年達が姿を現した。
 彼らは不安そうにしながらも部屋の中へ入って来て、そうして、セイネリアの顔をじっと見つめると僅かに首を傾げた。

「どうした? 俺がもっと落ち込んでいるとでも思っていたか?」

 セイネリアが声を掛けると、兄であるラストが思い切って口を開く。

「……うん、マスターにとってあの人は特別、だから……」
「落ち込んで、頭を抱えて酒でも飲んでいるとでも思ったか? ……これでも相当に落ち込んではいるんだがな」

 軽口に聞こえるように言えば、益々双子達は困惑しているようだった。
 セイネリアはそこで、視線を下に向けて呟く。

「全てが予想していた言葉とはいえ、あいつから別れを告げられるのはやはり……きついさ」

 思い出せば、彼の言葉が胸に重く沈んでいく。彼に別れを告げるのは、いつでも心臓を掴まれるように苦しい。そう、例え彼との約束が果たされぬと分かっていても……。
 そこで再び不安げに見てくる少年達に視線を戻すと、セイネリアは苦笑した。

「そうだな、俺がそこまで辛そうに見えないのはな――あいつが、約束を守れないだろう事を知っているからだ」

 今度は苦笑を別の含みある笑みに変えて言えば、少年達は僅かに驚いた顔をする。

「あいつ自身は、きっと俺にもう一生会わないという覚悟で来たんだろう。だがな、それは無理な話だ。今のこの国の情勢では、あいつが、あいつ自身の力だけで家と自分の身を守りきるのは不可能に近い」

 唇が浮かべる笑みは、自嘲と、確信と、喜びと……そのすべての意味を彼らに教えることはしないが、この双子達にはある程度は言っておいた方がいいだろうとセイネリアは判断する。なにせ、彼らはあまりセイネリアが苦しんでいる様をみせると、その為に何かしようと考えて勝手に動く可能性があるからだ。

「勿論、あいつが平穏に暮らしている間は俺は約束を守る。そのままあいつが幸せな生活とやらを続けていられるなら、俺はあいつに会えなくてもいい……それは覚悟している。だがまた……その覚悟が出来たのは、裏を返せばあいつがその約束を守れないと確信しているからでもあるんだろう。だから、お前達が思っているような落ち込み方はまだしないで済んでいるという訳だ」

 穏やかな、子供に言い聞かせる為の声で彼らに告げながら、セイネリアは自分も随分と普通の人間のようになったものだと思う。彼らを安心させようなんて事を思うなど、前の自分ならありえなかっただろう。

「マスターは、あの人を諦めた訳ではないの?」

 二対の赤い瞳が、不思議そうに見つめてくる。そんな彼らには笑ってやるしかない。

「諦める、などという事はありえない。どれだけあいつに別れを告げられても、告げてもな。ただ、あいつが欲しいという俺の欲よりも、あいつという存在の方が大切なだけだ。だから、今はあいつの好きなようにさせてやる。あいつを壊したり、拒絶されてまでも手にいれようとは思っていない」

 口にしてみれば、酷く歪んだ考え方だとはセイネリア自身思うところだった。それでも、自分にとって一番愛しいものが彼の強さ、その生き方考え方、存在自身なのであるから、それを損なってまで自分のものにするのは本末転倒というものだろう。
 とはいえ、彼を欲しいと願う心を捨てる事も出来ない。だから、今は世界が動くのを待つしかない。彼を望むカタチで手に入れられるその時まで待つしかない。

――そう考えると矛盾している。俺は、あいつがどうしようもない状況に陥る事を望んでいるわけか。

 彼の無事を何よりも切実に望むのに、彼が追い込まれる時を待っている。考えれば考える程酷く矛盾しているとは今更ながらにセイネリアは思う。

「マスター?」

 セイネリアが軽く笑い声を上げた事で、双子達が不安そうに名前を呼んでくる。
 セイネリアは彼らに微笑んでみせた。

「だから、お前達は何もするなよ。あいつは、必ず俺の元にくる事になる」

 それは、先ほどのシーグルに会う前ならこれだけ確信を持って言えなかった言葉だった。
 欲しいと願う心と、壊したくないという思いと、失いたくないという恐れに、セイネリアの心は首都を離れてからずっと苛まれてきた。彼のことを考えるとつきまとう『不安』というそれまでの自分にはありえない感情に、セイネリアの心はずっと支配されてきた。

 けれども……シーグルは、自分を愛している、もしくは、愛しそうになっている。

 だから、自分に抱かれたくなかったのだと、セイネリアはそれを確信した。妻だけを愛するという誓いを守る為に自分にもう会いたくないのだと、それは逆に考えれば、彼がセイネリアを愛してしまうからだと言い換えられる。

 それなら、いつか。
 彼が、自分を選ぶ日がくる可能性はある。

 なら――自分は、何があっても彼を諦める必要はないのだと、セイネリアは自分の心に言い聞かせた。


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こんな感じで二人の別れシーンなのですが……セイネリアとシーグルの決意の違いが面白い(?)ところです。



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