小さな願い
ソフィアの過去とクーア神官のお話



  【1】



 ソフィアは思う、自分は今幸せだと。
 だから、これ以上は望んでいないのだと。

 国のトップが入れ替わってまだ数年しかたっていないのに今のこの国は前以上に平和で安定していて、ソフィアの大切な人もいろいろあったものの今は幸せそうで、だからこの時間が出来るだけ長く続けばいい……というのがソフィアの唯一の願いだった。

「おはようございます、ソフィアです」

 ドアの前で声を上げれば、少しして中から『分かった、待っていろ』と声が返ってくる。それだけでなく言われた通り待っていれば足音が近づいてきてドアが中から開かれる、それはいつもの事だった。

「おはようございます、マスター」
「……おはよう」

 少しむっとした顔でセイネリアが立っていて、彼はドアを開けた後すぐに体をひいてソフィアへ道をあけてくれた。言っておくが別に彼がむっとしているのはソフィアに対して怒っているからではない。『ソフィアがきたら必ずベッドから出て起きること』とこの部屋の本来の主であるシーグルと約束しているため、それで無理矢理起きたから不機嫌なだけである。……まぁ今日はそれにプラスアルファもあるのだが。
 ただそのせいで彼らが寝起きの恰好(裸の場合が多い)のままでは入る訳にはいかないため、こうして準備が出来たらわざわざこの国で二番目の権力者である将軍様が部下のためにドアを開けにやってくる、という事態になっていた。

「ありがとうございます」

 普通の者なら震え上がる目つきのセイネリアに笑顔で礼を言って、ソフィアは部屋の中に入る。ワゴンを引いて寝室までいけば、ベッドの上にはシーグルがいてソフィアの笑みは深くなる。

「おはようございます、シーグル様」
「あぁ、おはよう」

 シーグルはいつも通り笑顔を向けてくれる。顔を隠さなくてはならない事が多い彼だがこの時だけは必ず素顔で、それだけでソフィアは幸せになれる。しかも今日はソフィアにとっては更に幸運――それがセイネリアにとっては更に不機嫌になる理由だが――な日でもあった。

「ソフィア、俺は今日は先に出ないとならないから後は頼む」

 分かっていてもその言葉を聞けばソフィアの口元が思わず緩む。
 だから今日のセイネリアはドアを開けて出迎えてくれた時から既に鎧姿だったのだ。

「はい、おまかせ下さい」

 セイネリアがシーグルを残して先に出て行かなくてはならない場合、ソフィアが代わりに食事中のシーグルの話相手になる事になっていた。しかもその後着替えの手伝いから見送りまでずっとソフィアが一緒にいていいという事でもある。
 セイネリアを見送れば、シーグルがため息をつきつつ立ち上がって椅子に座る。ソフィアは浮かれた様子を出し過ぎないようにしながらワゴンの上の朝食をテーブルに並べていく。

「シーグル様、パンはどれくらいお切りしますか?」
「1枚でいい」
「マスターがいたら怒られますよ」
「あいつはどれだけ俺に食わせたいんだ、俺は一枚で十分なんだ」
「では、間をとって少し厚めにお切りします」

 シーグルはそれにはちょっと眉を寄せたが文句は言わない。ソフィアは丸パンを半分に切って、真ん中から一枚分、少し厚めにスライスしてシーグルの皿の上に乗せた。

「ソフィア……」
「一枚です」

 それに溜息をつきつつも、分かった、と言ってシーグルはパンに手を伸ばす。ソフィアは大好きな人のそんな子供っぽい反応を見れるのが嬉しくて笑ってしまう。
 いつでも厳しい顔で背筋を伸ばして、その容姿からしてどこからどこまでも綺麗で強いイメージの彼だが、食事関連とセイネリアとのやりとりだけはそれが崩れる。

「兄さんも、俺が一枚でいいと言ったらそうやって出来るだけ大きな一枚をくれた」

 拗ねた子供のように憮然とした顔で言うシーグルにソフィアは笑う。確かにシーグルが兄と和解した後、料理が得意な兄がいろいろな手を使ってシーグルに食べさせようとしていた、というのは聞いていた。だからその時の風景も目に見えるようで、ソフィアは楽しくなって笑ったの……だが。

「考えれば不思議だ。兄さんは怒らないし、優しい顔で言ってくるんだが……セイネリアよりも逆らえない」

 それには笑うだけでなくソフィアはぷっと噴き出した。

「それが兄弟というものなのでは?」
「そうなんだろうか。兄さんの笑顔は逆らい難いんだ」
「シーグル様が兄上を大切に思ってるから、ではないでしょうか?」
「あぁ……それはそう、かもしれない」

 といってから、はたと気づいたようにシーグルは言ってくる。

「だからといって別にセイネリアをどうでもいいと思ってる訳じゃないぞ。あいつの場合は……なんかその違うんだ、兄さんとは大切の意味が……」
「はい、分かっています」

 にこりと笑ってソフィアは返す。本当にこの青年は正直すぎて心に汚れがない。
 本人的にはそれでも自分自身に納得がいかないのか、ぶつぶつと一人問答のような呟きをして考え込んでいる。だからソフィアはそれを止めるためにも満面の笑顔でシーグルに言った。

「兄弟、という関係は羨ましいです」

 ただソフィアとしては困った事に、その言葉をシーグルはソフィアの意図とは違う意味に取ってしまったらしい。彼はそこで急に真顔になると、申し訳なさそうに言ってきた。

「すまない、君は……兄弟どころか、肉親が……」

 実のところソフィアはシーグルと兄弟という関係であるその事を羨ましいと思って言ったのだが、どうやら彼は兄弟がいることを羨ましいと思ってしまったらしい。

「あ、いえ、その……」

 更には彼は、ソフィアにとって思ってもいなかった事を言ってきた。

「そういえば、前に君は気付いた時にはあのクーア神官の男のところにいたと言っていたが……君のご両親の事、セイネリアに頼めば調べられるのではないか? 既にご両親がいなくても親戚や……身内が見つかるかもしれない」
「あの、その……別に……」

 正直ソフィアとしては肉親の事を知りたいと思った事がなかったから、それには困惑するしかない。

「そうだ、もしかしたら親御さんが君を一度クーア神殿に連れていって適正を調べた可能性もある、クーア神殿に問い合わせてみたらいいんじゃないか」

 それはあり得るかもしれない。ソフィアは親の記憶が殆どない、顔などまったく思い出せない。ただあの男に拾われた時には既にクーア信徒の印である刺青が体にはあった。だからクーアの適正があるかどうか調べて洗礼を受けたのはあの男に会う前で……ならばそれは親元にいた頃だった可能性が高い。

「あぁ……確かに、そうかもしれませんね」

 だからつい、そう言ってしまって、それからすぐソフィアは後悔した。ソフィアは別に両親の事など知りたくはないのだ、これではきっとシーグルは好意で調べようとしてしまう。

「なら俺からセイネリアに頼んでみよう」

 思った通りのシーグルの言葉をすぐ断ろうとはしたものの――それを言ってきた彼の笑みがまるで自分の事のように嬉しそうだったため……結局ソフィアはそのまま何も言えなくなってしまった。







――どうしよう。

 ソフィアは少し困っていた。
 シーグルが好意で言ってくれている事を止められはしなかったが、実を言うとソフィアにとってはそれで肉親が誰か見つかってしまうのが怖いのだ。
 おそらく、肉親が見つかればシーグルは会ってみるかと聞いてくるだろう。いや、会う会わない以前に、もし見つかった肉親が自分を覚えていて悲しんでくれているような『いい人』だった場合が困るのだ。そうしたら、シーグルの事情が分かっているからこそ『せめて生きている事だけでも伝えたほうがいい』と言われるだろう。そうしたら断れない。そのせいでここで今までと同じ生活を出来なくなるかもしれない。

 ソフィアは思い出す、あの男に会った時の事を。

 セニエティのおそらく西区のどこか、一人で細道を歩いていたら……目の前にあの男が現れた。行き場がないんだろ? おいで――恐らく最初はそんな言葉を掛けられたのだと思う。それについていって……あとは全て、あの男のいう通りにした。

『お前はいらない人間だったから捨てられた。だから、今のお前は拾ってやった俺の道具としてしか生きる価値がない』

 何度もそう言われてそう思っていた。嫌だと思う事もあったが……千里眼と転送が使えるあの男から逃げる事は無理だとしか思えなかった。少なくともあの時点では、どちらの能力もあの男の方が上だったから。
 だから諦めて何も感じないようにした。
 ただ従うだけの価値しかないなら、それだけの存在になればいいと思っていた。

 あの男に何があっても屈しなかった誰より美しい人を見るまでは。

「マスターに言わないと」

 シーグルに直接言うのは言い難くても、セイネリアに言っておけば止められるだろう。ただ問題は今日のセイネリアはカリンを連れて城に行っている事で……帰ってきたら真っ先にシーグルに会いにいくだろうから、その前に話をするのは無理だ。せめて今カリンがいれば相談出来るのだが……ただ考えた結果として、帰って来たあとにまずカリンに相談するしかないかとソフィアはそれしか思いつかなかった。




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 次回は多分シーグル視点の話になるかと。
 



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