思い出したくない男
将軍様と側近……な二人の旅立ちまで間の物語



  【5】



「開始の合図は俺がしよう」

 レガーと同時にそのセイネリアの声に返事を返し、シーグルはかつての剣の師から距離を取る。温室の中でもここは広くなっているから、相手を吹っ飛ばすような派手な戦い方さえしなければちょっと剣を合わせる程度は問題ない。
 手合わせが決まってから傍をすれ違った時でも、セイネリアは特にこちらに向けてこっそり指示を出してくる事はなかった。ならば手合わせ自体は普通にしていいという事で、シーグルはいつも通りに構えを取る。

 一応、今のシーグルの剣の腕はレガーと剣を合わせていた頃からは相当に変わってはいる。特にジクアット山で修行をした後はかなり変えていて、騎士団時代に手合わせをしていた連中でも『よく似ているが違う』と思う事が出来るくらいではある筈だった。
 ただレガーだけは……それでもやはり騙しきれるとは思えなかった。どれだけ腕を上げても、どれだけ意図して戦闘スタイルを変えても、動作の根本的な部分のクセというのは残る。子供の頃はより顕著だっただろうそのクセを、ずっと見てきた彼が気づかない筈がない。

「はじめっ」

 セイネリアの声が上がって、シーグルはゆっくりと右に回り込むようにレガーへと近づいていった。彼もこちらに合わせるように右へと回り込んできたから、互いでゆっくりと円を描きつつ近づいていく形になる。ただ僅かにレガーの方が足が遅いから、シーグルの方が先に彼を射程内に捉えて剣を伸ばす。
 当然、それはまだ本気ではないから彼に軽く受けられる。
 だから引いて、また剣を伸ばす。それを受けられてまた引き、伸ばす。繰り返しながら少しづつ剣の速さを上げていく。レガーはそれを受けてはいたが、ある一定の速さに達したところでシーグルは一度剣を引いた。

「さすが……ですね」

 レガーが息を切らしながら笑い掛けてくる。
 シーグルの瞳からは意識せず涙が落ちていた。
 彼の剣の力強さも正確さもシーグルはよく知っていた。シーグルが騎士になり、明らかに彼より強くなった後でも、思わぬふいを突かれて10本全部を取る事はついに一度もなかった。
 なのに、今の彼の剣は明らかに衰えて、シーグルはどう考えても負ける気がしなかった。剣の速度を上げるのを途中でやめたのは、これ以上は彼が追い付けないと分かってしまったからだ。

「いえ……レガー様こそ」

 感情が出ないようにそう返せば、彼の顔がくしゃりと皺を刻んで笑う。

「はは、世辞を言わずとも良いのですよ。これ以上は私が追い付けないと思われたから止めたのでしょう」

 こんなに屈託なく笑う男ではなかった筈だ、とシーグルは思う。確かに、この屋敷の中で唯一自分に笑いかけて褒めてくれた彼だったが、それでももっと抑えた感じに笑いかけてくれる顔しかシーグルは見たことがない。

「では、折角ですから、今度はこちらからいかせてもらいましょう」

 言って今度はレガーの方が剣を伸ばしてくる。それを受けるのは容易で……容易過ぎて、シーグルは歯を噛みしめて嗚咽を抑えた。3度、4度……5度目の打ち込みを受けられた時点で彼は剣を止め、引いてから晴れやかにまた、笑った。

「いや、お強い。まったく相手になりませんな」

 レガーは楽しそうだった。祖父と同じ、いつでも厳しい顔をしていた彼と同一人物とは思えないくらい彼は楽しそうに笑って――だが、空を見上げて一度大きく息を吐くと、彼はこちらを真っすぐ見つめて真剣な声で言って来た。

「ただ、このおいぼれの願いを聞いてもらえるのなら最後に一太刀だけ、本気の貴方の剣を見せてくださいませんか」

 そう言って低く構えた彼の姿が幼い記憶の中の彼と重なる。

『さぁ、シーグル様。最後の一本、全身全霊をかけた一太刀を私に見せてください』

 まだ未熟で彼から一本取るなんて夢のように思えた時代、へとへとになって手の握力も無くなった頃に最後の一本をそう告げてくるのが彼との訓練のお約束だった。

 シーグルは大きく、ゆっくりと息を吐くと同時に構えを取る。
 それから一気に彼に向かって駆けると、まったく反応できず棒立ちに近い彼の顔の横に剣を伸ばした。
 剣が届いた一瞬、目を見開いた彼は、シーグルの体が止まると同時に柔らかく笑った。

「お見事」

 そこですかさずセイネリアが、それまで、と言った事でシーグルは剣を下す。剣を腰に戻したシーグルに、老騎士は深く、深く頭を下げて告げてきた。

「ありがとうございます。とても良いものを見せていただきました。レイリース・リッパー殿」

 シーグルは振り返りそうになった。何故だ、分かった筈だと言いそうになった。後ろを向いたままのシーグルに、レガーが穏やかな声で話しかけてくる。

「厚かましいですがもう一つお願いを聞いて貰えますかな。あの方の剣を継いだ貴方に、あの方の代わりに……このおいぼれの後悔の告白を聞いていただきたいのです」
「私は……リパ神官でも信徒でもありません」

 出来るだけ動揺を隠してゆっくりと振り向けば、やはり祖父の忠実な僕だった男は晴れやかに……本当に曇りのない満面の笑みを浮かべてこちらを見て来た。

「分かっております。ただどうしてもあの方に言うべきだったのに言えなかった言葉を……誰かに聞いてもらいたいのです」

 こんな顔をするレガーをシーグルは知らない。厳しかった師の笑みに涙がまた零れて、シーグルは兜の下で唇をかみしめるしかなかった。
 シーグルが何も言わないのを了承と取ったのか、レガーはそこで少し視線を逸らすと遠くを見るように目を細めてから徐(おもむろ)に口を開いた。

「あの方が屋敷にいらした頃、旦那様は一番心を閉ざしていた時で――私に告げられました。自分はあの子を愛しはしない、あの子供にはこの家を継ぐ為だけに自分の存在はあるのだと自覚させるように育てる、と。そうして旦那様は使用人達に、言われた言葉以外をあの方にかけることを禁じました。唯一自由に言葉を掛ける事を許されていたのは私だけだったので、心配した使用人達はよく私に訴えてきたものです」
「それは……なんと?」
「そうですね、大抵の場合――『旦那様は冷たすぎます、その分レガー様がシーグル様に優しい言葉を掛けて下さい』とか、ですね。使用人達は皆、小さいのにいつでも必死にがんばっているシーグル様を心配していました。声を掛けられないのを歯がゆく思っていました」

 そんな事実は知らない。祖父が使用人達を命令で縛っていた事は察していたが、自分のような子供、面倒で疎ましがられていると当時のシーグルは思っていた。

「ずっと食べられなくて面倒な子供だと……使用人達にも嫌われていた、と……聞いています」

 だからそう言ってしまえば、老騎士は悲しそうに眉を寄せた。

「全くそんな事はありません。辞めさせられた料理人達でさえ、皆あの方のことを心配していました。けれど私はあくまで旦那様の部下としての位置を優先させ……あの方に何もできませんでした。唯一あの方に何か出来る位置にいたのに、結局あの方を失望させた。それだけが心残りで……ずっと後悔していました」

 確かに……シーグルは彼に失望した。彼だけは助けてくれると思っていたからこそ、結局祖父の命令のまま、一番助けてほしい時に見ていただけの彼になんの期待もするべきではないと諦めた。
 けれどまた……後になってから考えれば考える程、彼を責めるべきではないとも理解していた。

「……それは貴方の立場上仕方がなかった事でしょう」

 懸命に声を抑えてシーグルは返す。老騎士は首を振った。

「いえ、結局私は逃げたのです。旦那様に逆らってまであの方の為に何かすることから」

 この屋敷の中でただ一人、ずっと自分の傍にいて、たくさんの事を教えてくれた人物。訓練は厳しくとも、彼の言葉に愛情を感じていた。彼を信頼していた。今になって、それは間違いではなかったと分かる事は、嬉しくも悲しくもあった。

「……そしてもう一つ、どうしてもあの方に伝えたかったのは……旦那様も本当はあの方を愛してたという事です。愛さない、という言葉は自分に言い聞かせていただけなのです。その証拠に、まるで自分への罰のように、あの方が食べないといい張った時は旦那様ご自身も食事をとらず、あの方が熱を出したり、何かあって連絡が付かない間は一睡もせずに待ってらしたのです」

 知らない。そんな事聞いたこともない――のどまで出かかったその言葉を飲み込んで、シーグルは歯を噛みしめる。

「そう……だったのですか」
「はい。旦那様も途中からお気付きになって……そうですね、あの方に貴族位を譲った後でしょうか。その頃からはあの方がどうしているか、報告の手紙を読みながらよく嬉しそうに笑っていらっしゃいました。ただ……今更私にはあの子を愛する資格はない、とおっしゃってあの方の前では態度を変える事はありませんでしたが」
「それを……私に話して何になるのです?」

 その言葉は僅かに失敗して、語尾が震えてしまった。

「さぁ、何にもならないでしょう。ただ、聞いて頂くだけで良いのです。アルスオード様は確かにお爺様に愛されていたと。あの方をよく知る方に、それを聞いてほしかっただけです」

 嘘だ、絶対に彼は気づいている。そう思ってもその言葉を口に出す事は出来なかった。気付いていないのならやぶへび以外の何物でもないし、気付いていてこうして『レイリース・リッパー』としての自分に話しかけているのなら、それはこちらの事情を分かった上で彼が話している事になる。
 ただ、見た事がない程に晴れやかな笑みを浮かべる彼の顔は、見ているだけでどうしても涙がこぼれた。

「摂政殿下や陛下がリシェを脱出される時、旦那様は私を案内役として行かせ、一人で残って敵を食い止めて下さいました。『私はあの子に強要するばかりで、あの子の為に何もしてやった事がない。それでもあの子はいつでも私のいう通りの事をして見せてきたのだ、ならそれに返せる私が出来る事は、あの子がいない間にあの子の大切な者達を守る事だろう』それが私が聞いたあの方の最期の言葉です」

 そこまで言うと、レガーは深く頭を下げる。

「レイリース殿、このおいぼれの告白に付き合って下さってありがとうございました。……そして、どうかあの方の剣を陛下お教えください。このおいぼれにはもう無理ですので、ぜひ、貴方が」

 レガーがシーグルの剣の師である事を、誰もシグネットに教えていないとは思えない。少なくともロージェンティは知っているから、シグネットがこの男にも剣を教えてくれとせがんだ可能性は高い。けれどシグネットが何も言っていないのなら、この男は断ったが、言うのを周りに止めて貰ったと考えられる。

「はい。承知しました」

 言えば彼はやはり晴れやかな――本当に満足そうな笑みを浮かべて、セイネリアにも礼をすると温室を出て行ってしまった。





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 ちなみにこの会話中、セイネリアはシーグル(の反応)しか見てません。……とセイネリア視点で書くとギャグになるシーン。
 



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