別 世 界 通 信

FOURTH TOPICS

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ADnDにおけるトラブルシューティング


Collum written by ラーパンドラ


2000年8月。
GenコンでめでたくDnD3版が出版され、同時に今後の指針が示され、我々は2者択一の中にある。すなわち、今後サポートが期待できない1st、2ndを継続していくか。もしくは、その膨大な遺産を総て投げうって3rdを主体とする今後の展開に期待するか。今の段階では、そのいずれに向かうも一長一短があり、選択こそ困難を超え至難であるが、私的には新しい潮流を歓迎しつつ、しかしその流れに流される事なく、曇りなき眼で見つめていきたいという所である。

今回のお題目の「トラブルシューティング」ではあるが、この言葉のカバーする範囲はあまりに多種多様に渡る。その中でも私がADnDのキャンペーンを行う上で、とくに留意している2点に焦点を絞り、解説していく事にしよう。私がたえずADnDのキャンペーンを行う際にきおつけている点、すなわちトラブル対策は以下の2つからなる。

1)維持する事と変化する事
2)メンタル面へのサポートとキュア

維持する事と変化する事となはなにか?
これは、ルール的な面でいえば、続々と出版される、ルールシステム、モジュール、シナリオ群によって提供される様々な追加ルールを、いかに自分が今行っているキャンペーン、及びPCとNPCに取り入れ、その一部としていくかという事になる。

手前みそであるが、私の行うキャンペーンは大抵長い。主にプレイしているA.D.D.A.で3〜4年1単位で30〜40話。通常自分の仲間内で行っているオリジナルでも10年で100話というのが、平均である事を考えると、世間の相場から見ても長いといえるだろう。その中、PC達にやる気を維持させ、ワールドを活性化する要素の1つに、追加ルールというのがあるのは、いなめない点である。これは大はクラス、小はノンウェポンプロフェンシィやスペルとなる。すでにここ数回の連載から、私がADnDの魅力の一つに、膨大なルール群がまずあり、それを自分なりに工夫して自らの一部としておくすることなく、時に大胆に、時に細心に導入していくのは、確かに私の喜びの一つである。多くの人がお気づきのように、これには絶えず重要な問題を抱えている。その最大の問題はいうまでもなく、各PC間だけでなく、世界自身の、パワーバランスが崩れてしまう事である。前者は、PCの孤立感、無力感を生み、キャンペーンからのドロップアウトを作り出し、後者はシナリオとキャンペーン自体の存在理由をなくしてしまう。これは極めて困難な問題である。逆に、最初からルールを固定し、限定的な範囲でやれば、この破局(トラブル)は避けられるものの、それではAD&Dをやる意味は半減してしまうのもまた事実である。我々は終始このアンヴィバレンツに苛まれながら、動脈硬化を防ぎつつ、キャンペーンを進めていかねばならない。

それではこれに対するトラブルシューティングにはいかなる方法があるのか?

経験則的には以下の方法が有効であると思われる。
1)キャンペーンの主題を明確に決定しておく。
これに反している、追加ルール導入であるならば、明確に実行しない事である。たとえば人間は無力だが無限の可能性を秘めるというのが主題のキャンペーンに、アシュラやハーフカンビオンのPCの存在を認めるのは、本末転倒といえよう。(もっともこれも使い方によるが)

2)プレイヤー達とよく話あい、協議と同意の上で導入する事。
その上で使用するルールは明文化する事。可能なら和訳する事がこのましい。一般的に他人の能力をPCは余り理解しない傾向にあるが、それでも目にみえ、かつ自分の属性でより上回るパワーには、嫉妬する傾向があるからである。これは後発のルールの方が洗練されているため、あるいは1版のルールの方がピーキーなためにおきる。たとえば1版のサイオニクサーの横に突然二版のサイオニクサーがあらわれ、あまつさ3Type−6、6匹と遭遇した場合や、2版のレンジャーの横に突然1版のレンジャーがあらわれ、あまつさえマウンテンジャイアント6匹と遭遇した場合の結果を想定していただければおわかりだろう。

3)変化にはなにか1つでいいから、理由をさだめる事。
1版から2版にフォーゴトンレルムが変わった時になされた、とる事件などはそのさいたるものである。とはいえ、ドラゴンランスの某裏ワールドのように、巨大ないん石がふってくる必要があるかどうかは謎だが、ようは、少しでも因果関係が成立すればいいのである。(後づけといえなくもないが)

4)導入は慎重かつ大胆に。
後悔するなら行動してから反省しろ。導入はおそれてはならないが、慎重にするに慎重すぎておくすることはない。サイオニクスを導入した場合は、ルールバランスに加え、世界観、雰囲気などに多大な影響があると考えるべきであろう。だが、一旦導入する決意が決まっのならば、大胆に実行すべきである。小から導入するよりも、総てを導入したほうが、大抵いい結果を生む(何よりルールを覚える!)。だが、たえずそのリバウンドを見極め、調整は続けるべきである。


さてルール導入にたいする、トラブルと同じ位、重要な面にメンタル的な出来事による、PCの心理的なケアである。たとえばPCを精神的においつめた結果、PCがストレスがたまり、廃人寸前にまでおいつめる事や、DMのやりかたについていけなくなって去っていこうとするという事、そして(幸いに筆者は余りないが)ルール的な導入、判定が受け入れられず不満をいいつづけた後去っていくというケースが考えられる。

RPG(特にリアルストーリ系?)は、メンタルな点に主眼がおかれるため、しばしプレイヤーとキャラクターの同化が計れすぎるあまり、至福の達成感を得る一方で、しばしば悲惨な結果を生むこともある。実際、米国で射殺事件や、自殺事件がおきた事は、けして笑いごとではない。

RPGが手段や手方として、ある意味、高次元の世界へ至る事(ちなみに私は怪しげな新興宗教にぞくしてないのであしからず)ができるというのは、認める所であるが、同時に悲しむべきことに、我々は哲人でも心理学者でもないし、万能でもない。人の心の領域に踏み込むホビーゆえ、それは無限の可能性を秘めると同時に、とても危険な(そしてタイトな)領域に踏み込む事になるのである。

かって私は自分の人生の若かりし頃、とある人物に対して行った事(正確には何もしなかった事)そしてその結果、その人がとても不幸になったという傷(トラウマ)を、ひきずっていた時期がある。それと同じ立場にとあるPCをおいこんだ時、やはりそのPCは同じ行動をとった(正確には何もしなかった)。結果NPCは不幸となり、PCは心に傷をおった。そしてDMもである。

正直この事件の後、私はかなり落ちこんでおり、一つの命題について熟考せざるをえなかった。すなわち
「これほどにして、RPGを続ける必要があるのか?」
である。

結論はすでに、このように原稿をかいている時点であきらかのように、私はいけシャアシャアとRPGもDMも続けている。

メンタルな部分へのケアは非常に難しく、私ごとき超心理学の初心者が語るべきではないとは思うが、幾つかいえる事は、
「心は心によって傷つけられる。だからそれを癒す事ができるのは心、すなわち同じ人だけである」
そして
「例え今答えがなくとも、答えをもとめる足掻くこと、続けること」
だけは、自分の中で確かなものとなっている。

先刻の例でいえば、彼も私も苦しみながらRPGをキャンペーンをやりつづけ、彼はついに偉業をやりおえ、同時に、私(DM)は救われる想いを抱く事ができた。

今も私の中には2人の天使(悪魔?)がいて、私に囁き続ける。
今を維持する事と、変化しつづける事。
心を制御する事と解放する事。
そのアンヴィバレンツの中で、私はRPGをやり続け挑戦しつつける。

それが私なりの答えなのだから。

[Awaiting the next collum]