別 世 界 通 信

THIRD TOPICS

☆ ☆ ☆

DM、PCにとってADnDの魅力とは何か?


Collum written by ぐゎるま


 DMとしての自分、PCとしての自分にとって、ADnDをプレイする際の魅力とは何か? 創造性。この一言である。極端な言い方をすればこの「創造性」という一語のために私はプレイングし続けていると言ってもよい。

 第一回にも書いたのだが、私にとってADnDとはRPGと同意義といってもよい。なにしろ、当時これしか私の嗜好を満足させるものがなかったのだ。まぁ、あの時代なら当然の事だろう。RtLもソードワールドもない時代なのだから。これら国産RPGを否定するつもりは決してない。私がスタートした時に無かったのだから致し方無いと理解して欲しい。そういった状況を踏まえた上で、以下を読んでいただきたい。

 つまりADnDの魅力とはそのままRPGの魅力と同一なのだ、私にとっては。その魅力とは創造性という言葉に尽きる。

 「創造」

 この言葉を聞いてADnDファンたる貴兄が思うことは何か。ワールド製作、町の設定、新規戦闘ルールの作成etc,etc.DMとしての創造作業であろうか。あるいは自分のキャラを個性的に見せる設定だろうか。

 私の場合、そういった「設定」「ルール」というものに創造性を感じることはあまりない。それは演劇で言うならば「舞台」だからだ。それは「場」なのである。誤解のないように言っておくが、いかなる舞いも、それにふさわしい舞台がなければ真価を発揮しえない。同様に「場」も非常に大切なものである。そのために時間を幾ら割いても無駄にはならない程、重要なものだ。だが、それ以上に私が創造性を感じるもの。それが「シーン」である。

 「シーン」

 キャンペーンなどの大きなストーリーでも、1シナリオといった区切りでもない。セッションでは次々と流れて消えて行くシーン。これこそが私の求める創造性の現れなのだ。シーン。「幕」と言い換えてもよい。短いシナリオでも大抵5、6幕にはなるだろう。長いものなら10や20はざらかもしれない、その「幕」。それ一つ一つが過去、つまりそれまでの全キャンペーンの選択肢を含み、なおかつ無限の選択肢を持つ未来、つまり新たなる幕への導きを有する。「シーン」。それは「現在」。私はその魅力に惹かれ、ずっとRPGを行なってきた。

 ちょっと見方を変えてみよう。

 PCの発した一つの言葉。それはPが思う意味を示すための道具だということは言うまでも無い。「荒涼」という意味を示すための言葉を考えてみれば十程も浮かぶであろう。特にPCへの思い入れが深く、すぐにPCの視点で物を見ることができるベテランプレイヤーにとってはなおさらだ。その無数の選択肢の中で選んだ、たった一つの言葉。PCが発している言葉はすべてそうだ。それを聞き、別のPCが言葉を返す。さりげないそのシーン。これこそが私にとって創造性そのものなのだ。

 「寒いところだな」
 「ああ」

 エルフがつぶやいた言葉に戦士が答える。それだけのシーンであっても、それまでのキャンペーンで生死を分かち合った「戦友」ならではの会話が生まれる。その連なりこそがストーリーである。

 よく私は「言葉の共有」という用語を用いている。「ロッフ」という単語。これはA.D.D.A.に古くから参加していた諸兄ならば良く聞いた単語であろう。それ以外の者にとっては音に過ぎぬが、知る者であれば、いかつい戦斧を肩にした屈強なバーバリアンが瞬時に脳裏に浮かぶ単語だ。ロッフという名のPCが個性的で強烈なキャラだったために、その名があるイメージを作り出してしまった例である。キャンペーンに参加している者だけが知る言葉。その言葉の意味を知っている仲間に通じる連帯感。これが「言葉の共有」だ。そういった共有を重ねていった結果、どんなささいな会話であっても、そこにはシーンが生まれるのだ。

 例を挙げよう。

 私の持ちキャラの一人に頑固一徹なパラディンがいる。生真面目で愚か者といっても良いほど純粋な魂の持ち主。彼には最初の冒険から一緒だった友がいる。思考も目的も全く違う二人。しかし、長年、共に戦い、共に生き抜いてきた戦友が。シナリオの中で、私は何度もこのパラディンを死地に向かわせた。私なら決してしないような選択肢を彼が選んでしまうからだ。「こりゃ九分九厘死ぬな」。そう分かっていても私の中の彼は止まらない。ここで彼が倒れてしまってはこれまでの苦労は消える。場合によっては今後の展開にも大きな影響が出るかもしれない。それが分かっていても、それでも彼は止まらない。そんな時だ。彼は必ず友を見る。止めても無駄なことを知っているその友は黙って見つめ返している。口を開くパラディン。答える友。

 「後を頼む」
 「・・・分かった。任せろ」

 この会話を何回行なったことだろうか。直面した困難を乗り切り、セッション終了後に思い返すそのシーンはいつも熱い想いと共に蘇る。この会話を成すまでに、そのシーンを生み出すまでに流れた長い時間。実時間で数年にもわたるシナリオの連なり。その間、異なった選択肢を選んでいたのなら、この会話は成り立たなかったであろう。極端な話、私のパラディンが生き延びていなければ起こりえない会話なのだから。これこそが私の求めるシーンである。

 DMとしてPCとして。ADnDの魅力とは何か。

 それは創造性だ。与えられたワールド。ルール。判定表の山。それらは全てツールである。私が魅力を感じるのはそこからいかなるシーンが生まれるかである。
 
 積み木を前にした子供がいる。床にぺたんと座って黙々と積み木を並べる子供が。親から見れば積み木は三角や四角い木の塊にすぎない。赤や青、黄色に塗られたただの木片。しかし、子供はそこから自動車や飛行機、宇宙船に親しい家族の姿までも創造してゆく。そして遊びに来た友達も一緒になってそれを積み上げている。新しい組み合わせ、懐かしい組み合わせ。子供達はいつまでも遊んでいる。

 私にとってADnDとはそういうものだ。

[Awaiting the next collum]