突入せよ!「あさま山荘」  1
 
知ってるつもり
01/11/08

1969年2月13日、僕は生まれました。
僕が3つの時、「あさま山荘」事件が起こりました。
事件から29年経った今、この作品が映画化されます。
原作は、「事件」において作戦指揮のトップに立ち、現場を仕切っていた佐々淳行氏が執筆した『連合赤軍「あさま山荘」事件』。
監督は『金融腐食列島-呪縛-』の原田眞人監督、主演は同監督作でおなじみの役所広司さん。

僕はこれまで、戦後犯罪史ダイジェストなどのテレビでチラッと映る事件映像でしか、「あさま山荘」事件を知りませんでしたし、この事件を省みることもありませんでした。
しかし、この作品の編集を担当することになり、事件の概要を紐解いていくにつれ、上野聡一いささか神妙な面持ちであります。
「あさま山荘」事件が、タフな価値観を追求されている21世紀初頭の今に映画化されることの意義は、ことさらに大きい気がします。

「あさま山荘」人質救出作戦における6か条。

(1) 人質は必ず救出せよ。
(2) 犯人は全員「生け捕り」にせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾をひく。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3) 身代わり人質交換の要求には応じない。
(4) 銃器の使用は警察庁の許可あるまで禁止。
(5) 報道関係と良好な関係を保つ。
(6) 警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。

本日、スタッフ顔合わせと、作品の無事と成功を祈っての御祓いがありました。
原作の佐々さんもお見えになりました。
氏は、あの時どんな気持ちで、そして今どんな気持ちでいるのでしょう。



「あさま山荘」事件に至るざっくばらんな近代史です。
文芸春秋社のヴィデオ『ドキュメント連合赤軍「あさま山荘」事件』より抜粋です。

1950年
(昭和25年)
朝鮮戦争。
1960年
(昭和35年)
日米安保条約反対闘争。(60年安保闘争)
1965年
(昭和40年)
米軍、ベトナム戦争に介入。
1966年
(昭和41年)
中国で文化大革命。毛沢東が再び実権を握る。若者たちは伝統的な中国を次々に破壊していった。
1967年
(昭和42年)
10月08日 第一次羽田闘争から始まる第二次反安保闘争。(70年闘争)10年間続く。
この時日本はアメリカ支持を表明する為、佐藤首相が南ベトナム訪問。学生はゲバ棒などを使いこれに反対、機動隊と衝突した。
1968年
(昭和43年)
01月19日 米原子力空母エンタープライズが佐世保に入港。学生は全国から佐世保に集合、機動隊と衝突した。
大学自治会の全国組織『全学連』(昭和23年9月結成、昭和33年6月分裂)
反主流派(代々木系)
主流派(反代々木系)
全自蓮 社青同 社学同 マル学同
代々木派 構造改革派 協会派 解放派 中革派 革マル派
06月 東大は医学部の卒業後の研修制度(無給助手などの極端な徒弟制度等)の改革を求めた紛争を発端に講堂を占拠。
大学側は機動隊を導入、これを排除。
学生はこれを大学側の自治放置とみなし、激しく反発、スト慣行。
同じく日大では、20億円にものぼる闇給与発覚。学生たちはズサンな経理改善と民主化を求め立ち上がっていた。
全学共闘会議を組織し、大学を占拠、封鎖した。
全共闘時代の幕開け。
09月04日 日大の封鎖解除警備にあたっていた第5機動隊西条秀雄巡査部長が、学生が屋上から放った大きなコンクリートを頭に受け殉職。
それまで警察当局は、学園自治を尊重していたが、度を越した破壊活動に態度を改め厳しく対応するようになる。
10月21日 「10.21国際反戦デーを70年安保闘争本格化への第一歩とする」
これにあわせて代々木系、反代々木系全学連など反体制グループが全国で集会やデモを展開。
東京では約48000人が参加。一部の過激派集団が米軍のジェット燃料の輸送経路であった新宿駅を攻撃(新宿騒擾事件)
11月01日 東大、大河内一男総長が学内混乱の責任を取って辞任。加藤一郎代行が学内の紛争解決にあたる。
その頃、東大は東大生の手から離れており、全国から集結した過激派学生の手におちていた。
権威主義、商業主義に異をとなえることに端を発した学園内の改革運動はいまや、反安保、世界同時革命を目指す政治闘争におよんでいたのである。
加藤代行は東大生との全学集会を試みるも、過激派学生の罵声でもみ消される。
この闘争の中で、大学の正常化に協力的だった代々木系と、断固解体を支持する反代々木系が激しく対立。学生内紛争がおこる。
年の瀬も迫り、文部省は授業再開のメドのたたない大学は入試を中止との意向を発表。
加藤代行に渡された猶予は翌年1月15日であった。
1969年
(昭和44年)
01月18日 加藤代行は機動隊の出動を要請(東大安田講堂事件)
学生側は投石(机、イス、大理石など)、火炎瓶、硫酸などで攻撃。警察側は放水、催涙ガスで応戦。
同日、中央大学にて、東大支援の学生1200人余りが武力化し、東大へ向かおうとしていた。(神田カルチェラタン闘争)
東大紛争に多くを充てていた機動隊は、これに対応しきれず600人を出動させるが、4人に1人が負傷するという惨事になった。
東大の封鎖解除は夜を迎え、やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。
東大、神田での検挙者768名(内、東大生はわずか38名)。負傷者は警察官710名に対し、学生側は47名。
紛争後の講堂内はすさまじく、結果、この年の入試は中止となった。
08月03日 「政府の大学介入である」とする野党の猛反発を尻目に、自民党は大学臨時措置法(紛争が長引けば解校の措置もありうる)を抜き打ちで成立させる。
これにより、それまで機動隊導入に根強い抵抗を感じていた大学側の機動隊出動要請が相次ぐ。
この頃、警視庁機動隊は1日平均8.5回も出動している。
09月04日 東京葛飾公会堂にて赤軍派発足。
11月05日 山梨県大菩薩峠「福ちゃん荘」で赤軍派53名逮捕。
同派は、総理官邸に鉄パイプ爆弾を投げながらダンプカーで突っ込む、という訓練をしていた。
1970年
(昭和45年)
03月31日 赤軍派9名が、日航機「よど号」をハイジャック。北朝鮮に亡命をはたした。
06月23日 「よど号」ハイジャックを期に、過激派のテロ活動は激しさを増していったが、反安保の大衆運動は6.23の日米安保条約自動延長を境に次第に沈静化していく。
学生、青年層の支持を失った過激派集団は追い詰められ、いっそう過激さを増していった。
12月18日 「銃から革命は生まれる」とする京浜安保共闘が、板橋区 上赤塚の交番を襲撃。
そのうちの1人、柴野春彦は巡査に射殺される。
1971年
(昭和46年)
02月17日 京浜安保共闘は、栃木県真岡市の塚田鉄砲店を襲撃。
ライフルなど11丁と銃弾2800発が盗まれた。
06月17日 明治公園で鉄パイプ爆弾が爆発。機動隊員37名が重軽傷。
08月22日 陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官が殺害される。
09月16日 成田第二次強制代執行で警察官3名が殉職。
10月18日 新橋の郵便局で後藤田警察庁長官宛の小包が爆発。
11月19日 日比谷公園にて、沖縄返還協定講義集会。松本楼炎上。
12月18日 上赤塚の交番襲撃から1年後、土田警視庁警務部長宅で小包爆弾が爆発。婦人が即死、子供も重傷を負った。
12月20日 森恒夫率いる赤軍派と永田洋子率いる京浜安保共闘が合流、連合赤軍の誕生。
02月17日 妙義山にて森恒夫、永田洋子逮捕。
02月19日 早朝、軽井沢駅にて売店員の通報により、連合赤軍4名が逮捕。
同日、「さつき山荘」にて潜伏していた連合赤軍の残り5名が警察の追跡を逃れ、「あさま山荘」にて管理人の妻を人質に篭城。


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