初美 家守くんが帰ってきたと聞いたので、いま、いるところは家守くんの家の前。おっと、戸が開いた。
家守 誰かの声が聞こえたと思ったらあなたか。まあ、入って。
 前回はごめん。よんどころない急な用が入っちゃってさ、どうしても出かけなきゃいけなくなっちゃったんだよ。
初美 とか言いながら、どこぞのはしごとか居続けをしてきたんでしょ。会所の人が言ってた大山詣でなんてうそばっか。
家守 大山って相州のか。そこへ行くなんて言ってないし、はしごとか居続けって何のことだ。
初美 あなたがどこへ行こうが勝手ですが、それよりさあ、おだてりゃ木にも登るって、私は豚か。
家守 それも何のことだ。
初美 前回の項をあとで読み返してみたら会所の人が言ってるじゃない。怒らせると手に負えないとか、何がくわばら、くわばらだ。私は疫病神じゃない。
家守 う、会所のあいつ、どうして口走るかな。
初美 何か言った? 私は猛烈に腹が立ってるの。
家守 豚もおだてりゃ木に登るというのは、最近のことわざ辞典に出てる語でさ、辞典を見ててこんなのもあるのかと、つい、口に出しちゃったのを四郎兵衛会所のそのときの当番の人が何かと勘違いしたんじゃないのかな。
初美 お黙り。くだらない言い訳をしてはぐらかそうとするな。次は私がしたようにあなたが自分一人でしなさい。以降はそれから考えましょう。じゃあ、私は帰る。
家守 あ、出ていっちゃった。

四郎兵衛 旦那、すごい剣幕でしたね。
家守  おや、いたのかい。
四郎兵衛 いや、立ち聞きするつもりはなかったんですがね、会所へ行こうと表へ出たら、こちらから怒声が聞こえてきたもんですから、それでつい。
家守 あんなきいきい声を出されたら、誰だって何があったんだと思うさ。
四郎兵衛 でも、あっしも一枚絡んでいたようで申し訳ないことをしたです。
家守 いや、あなたが謝る必要はないよ。結果としては身から出たさびみたいなものなんだから。
四郎兵衛 そうですかい。でも、あっしが口を滑らさなきゃうまくいってたんじゃありやせんか。
家守 いいんだよ、全部、おいらのことだから。それより会所に用があったんじゃないの。
四郎兵衛 そうなんですけど、何か申し訳なくて。
家守 気にすることはまったくないよ。
四郎兵衛 そうですか。それでしたら、何かあったらいつでも声をかけてください。できるだけのことはしやすから。
家守 ありがとう。そのときはそうさせてもらうよ。
四郎兵衛 では、あっしはこれで失礼しやす。

家守 さて、どうしたものか。とりあえず、あいつがやった前回の項目を見てから善後策を考えるか。



09
 神の田艸から 聖人のへのこ女房に斗


 さて、今回はいつものようにテーマ別に句を取り上げるのではなく、趣向を変えて一つの句集に掲載されている句を扱うことにする。その句集は、文化5年(1808)刊の「誹風神の田艸(草)昌湯樽初編」。この12丁裏から16丁表までの4丁は、「四會目 破禮句一題」と題し、破礼句ばかり70句が載っているので、それの冒頭から数句を取り上げ、必要に応じて関連する句を紹介していこうという趣旨である。

 「神の田艸」は書名から神田連の句集であることがわかる。初代柄井川柳や当時の万句合興行選者は、取り次ぎを通して句を募集しており、投稿者は住所地から指定された取り次ぎを通じて句を応募する。そこで、取り次ぎの所在地の関係から、上野山下仲町の桜木連、牛込御納戸町の蓬莱連、麻布の流水連などという投稿者どうしの組連が形成された。神田連もその一つであり、このような組連は独自に句会を催し、中でも経済力のある組連はその句集を独自に出版した。初代川柳選の「さくらの実」(全一編)、「柳筥(やないばこ)」(全三編、うち第三編は所在不明)ほかが知られているが、これらは自費出版的な色彩が濃く、組連の投稿者に配るぐらいしか印刷されなかったのではないかと言われている。

 「神の田艸」もその一つと思われ、現存するのは少部数であるという。初編は44丁、719句、翌文化6年に全17丁の第二編が出版されている。ちなみに、このころの柳多留は、文化5年に41〜46編の計6編、翌年に47、48編、前年の文化4年には36〜40編の計5編というようにおびただしく出版されている。なお、「神の田艸」の書名の昌は昌平坂(昌平黌)、湯は湯島のことであり、樽は柳多留風という意味合いと思われる。

 「神の田艸初編」四会目には、550句の応募があったことがわかっていて、そのうち70句が選ばれているから採択率は7.9%。「神の田艸初編」四会目の選者は、このころの柳多留にもたびたび選者として名を出す文日堂礫川であり、以後、太字が同書掲載句である。.

   聖人のへのこ女房に斗   白山下 蔦夫   神田艸初12

 これは「神の田艸初編 四会目」最初の句。「生」は「おえ」と読み、へのこ、つまり、男根が勃起することをいう。聖人のへのこは女房にだけおえる、つまり、女房以外の女にはぴくりとも反応しないというのである。

 前回の「入り婿」の項で、聖人が誕生するとき、上空で鳳凰が舞うというような記述があったと思うが、

   ほうわうは女房斗するそらをまい 末二4   鳳凰は女房ばかする空を舞い
     前句「ふうの能こと/\」

 この句も同意である。こちらに聖人という言葉はないが、鳳凰が頭上を舞っているのは聖人しかいない。ただ、実際に鳳凰が舞っていようものなら目立ってしようがなく、どこかへ消えろとでも言いたくなろうが、そこが聖人たるゆえん、世間体や外聞などは一切気にしないのだ。

 ところで、神田艸出版から27年後の天保6年(1835)に出た破礼句集、「柳の葉末」にも「聖人のイ八女房に斗りおへ 葉末別2」という全く同じ句が載っている(注。「イ八」は人偏に八。「へのこ」または「まら」と読む)。ただ、葉末のほうは表徳が和國となっているし、神田艸から30年ほど後のことだから、こちらの句は剽窃、つまり、パクリなのであろう。上五、中七、下五のどれかの一部を変えただけとか、全部パクリという句も川柳では珍しくない。

   道鏡に扨こまつたと大やしろ   スシカイ 里遊   神田艸初12   道鏡にさて困ったと大やしろ

 「大やしろ」は「大社」、大社とつく神社は春日大社ほかいくつかがあるが、川柳で大やしろといえば杵築宮(きづきのみや)、現在の出雲大社のことである。ここには素戔嗚尊(すさのおのみこと)ほか、その子どもや数代後の大国主命(おおくにぬしのみこと)が祭られていて、大国主命は夫婦仲がよかったことから縁結びの神社として知られている。

 一方、道鏡(?―772〈宝亀2〉)は奈良時代中期の僧。762年、病に伏していた孝謙上皇(女帝。当時40歳)の病を平癒したことから信任を得、上皇が重祚し、称徳天応として即位した764年、道鏡は太政大臣禅師、そして766年には法王に任官された。「続日本紀」によれば、法王の道鏡は天皇の館に比肩し得るような西の前殿に住していたとし、二人は男女の関係、夫婦同然であったことをうかがわせる記述があるし、「日本霊異記」には二人が枕交通をしていたと、そのものずばりの記述もある。「日本霊異記」は平安時代に入ってすぐの書であるから、二人がそのような関係であったことは、当時からまことしやかに囁かれていたようだ。

 道鏡は河内国若江郡(現大阪府八尾市)に生まれ、古代の豪族、物部守屋の子孫とする説や、400年後の「七大寺年表」では天智天皇の子、志貴皇子の王子とする説もあるが、後者の天智天皇孫説は400年後に書きあらわされたことからすれば信用するに足りない。つまり、称徳天皇と出自のはっきりしない道鏡が夫婦同然であるのは、サラブレッドと野生の駄馬とが一緒になるようなものである。だから、このような不釣り合いの道鏡を称徳天皇が重用したのは別の理由がある、すなわち、持ち物がよかったに違いないということで、道鏡=巨根説が生まれてきたらしい。

 首題句は、まだ、称徳天皇に会う前の道鏡であり、その巨根に見合う相手はいなく、縁結びの出雲の神は困っただろうという想像句である。

   道鏡に評議のつかぬ大やしろ 五七25

 これも同意趣の句。ところが、称徳天皇がいた。

   道鏡とミかと能時生れ合い 最破礼2(故事)   道鏡と帝よいとき生まれ合い

 だから、おお、そうだったかと、

   道鏡にあるぞ/\と大社 八七33

 出雲の神々は喜ぶことになる。
 ところで、道鏡が巨根なら、相手の称徳天応も広陰であるに違いないとのことからの句もある。

   道鏡が出るまで牛房洗ふやう 末初8
     前句「すきなことかな/\」

 「牛房(ゴボウ)」はへのこのことであり、ゴボウは長いが、細いので女帝にとってはフィット感がなく、すかすかだったのだろうという想像句である。ちなみに、

  女帝ハ九十六ひだでおわします 末三9

 という句もある。四十八ひだは肛門のひだの数を指すことが多いが、この句では陰唇のひだの数としている。

 道鏡はその後、天皇になろうとした宇佐八幡神託事件(769)がペテンだと発覚、770年には天皇が崩御し、その後、間もなく下野(現栃木)の薬師寺別当に任官、要は左遷され、2年後、そこで没した。
 なお、 道鏡については別に一項を起こすつもりなので、このほか、道鏡に関する句はおびただしくあるが、いずれ、そちらで取り上げる予定である。

 今回はここまで。


末摘花扉に  戻る

裏長屋扉に  戻る