しろくま2 
しろくま
Present BY Kasumi Yahagi

〃5〃

 いつしか白クマは丸くなって眠ってしまった。
 たくさん食べて、眠くなったところだろうか。
 大きな背中が、呼吸にあわせてゆったりと上下している。
 このクマが再びを目を覚ます前に、私はものごとを解決しなければならない。
 私は意気込んだ。
 まず、どうしよう?
 ここから逃げようか?警察に電話?
 待って、電話はまずいかも。
 だって、その会話をこっそりと聞かれるかも知れない。
 通報したのがわかったら、逆上して襲ってくるかも知れない。
 となると、この部屋から逃げ出すのが一番。
 警察でも、お隣さんでも、とにかく一度外に出て身の安全を確保する。
 動物園の人なんかが、この白クマを探しているかも知れないし。
 とにかく外、外に出ること!
 私は眠っている白クマに注意しながら、白いコートを手に取った。
 彼女はピクリとも動かない、だけど本当に眠っているのだろうか?
 私はそっとドアのノブに手をかけて外に出た。

 午後3時50分。
 空は厚い雲に覆われていて夜のように暗い。
 風はもう止んでいて、雪がちらちら降っている程度。
 私は人恋しくなっていたので、夢中で通行人を探した。
 だけど、どうしても人影を見つけることができない。
 2、3台の車が、私の横を行き交った。
 そのたびに、私は運転席の人を急ぎ見る。
 運転者は誰もが表情をもっていない。
 まるでロボットを見ているようだった。
 よくわかららないけれど、何かがおかしい。
 いいえ、私自身がおかしくなっているのだ。
 ずっと、あんな非常識な環境にいたから。

 この静かな一帯を抜ければ、大通りに出る。
 駅があって、ショッピングセンターも交番もある。
 人もいる。
 私はその喧騒に向かって駆け出した。
 怖い。早く元に戻りたい。
 そう思う度に、もう一人の私が疑問符を打つ。
 私は何が怖いのだろう。元に戻るとは、何だろう。

 駅前の交番に行った。
 警察官が休めの形で後ろに手を組み、行交う人々をまっすぐに見つめている。
 私は頭の中が整理できていないうちに、そのおまわりさんに話しかけてしまった。
 「どうしました?」
 おまわりさんが問う。
 さて、事情をどう説明しようか。

 うちに生きた白クマがいる。
 2メートルくらいあって、どうしたものかと思っています。

 説明の趣旨をそう決めて、私は改めておまわりさんを見上げた。
 「どうしました?」
 黙っている私に、おまわりさんがもう一度問う。
 全く同じ調子、同じ台詞。
 私は息を呑んだ。

 ぞっとした。
 私はこのおまわりさんが不気味に見えてならなかった。
 それはまさに、蝋人形のよう。
 人形が、規則正しい言葉と表情で、私の相手をしている。
 一瞬、彼の口や手足に継目が見えたような気さえした。
 私は急ぎふりかえって、あたりを見まわす。
 町を行交う人々。
 そのみんなが、意思の無い人形のように見えた。
 もちろんみんな普通の人で、目の前にいるおまわりさんだってかわらない。
 親身になって、私の話を聞こうとしてくれている。
 それなのに、私にはおまわりさんの瞳がガラス玉にしか見えなかった。
 とても怖かった。

 「ご、ごめんなさい…なんでもないんです」
 私はたどたどしく謝る。
 おまわりさんは私に微笑すると、向き直って後ろに手を組み再び通りを見つめはじめた。
 その機械的な動作が、私の恐怖心を更に煽った。

 私は混乱していると、自分にそう言い聞かせた。
 そう、ちょっと混乱しているだけ。
 少し休めば大丈夫。
 たった数時間で人間不信になってしまったなんて、そんな考えはいけない。
 そんなことを考えていたら、本当にそうなってしまうから。
 あの白クマのせいで、常識の箍が一時的に外れてしまっただけ。
 私は必死になって、以前の自分を取り戻そうと自問自答を繰り返した。
 そう、以前の自分が正しい。
 今の自分はおかしい。

 あの白クマはまだ家にいるのだろうか?
 居間で寝ているのだろうか?
 ひょっとしたらあれはみんな幻覚で、何もかもがリセットされているかも知れない。
 そうよ、家に帰れば白クマはいなくなって…。
 ふと、私は歩調をゆるめて思う。
 この複雑な心境について。
 何故だろう。
 あれはみんな夢だったと考えると、ファジィーな痛みが私を襲った。

 軒々の家の明りが綺麗で暖かい。
 今日という日のおもてには、特にそう感じさせる暗さと冷たさがあった。
 おいしそうな匂いがするのは、どこかの家でシチューか何かを作っているからだろう。
 そんな意思無き誘いに、私は疎外感を覚える。
 寂しい。
 それが辛い、耐えられない。
 私は泣き出していた。
 子供のように目をこすりながら、嗚咽を漏らす。
 ひどい目にあって、泣きながら家に帰る子供と同じ。
 それは、不安で、怖くて、悲しくて、さみしいこと。
 「誰か…」
 私は家路を駆け出した。
 その間、一度たりともあの家へ戻ることに疑問を抱かなかった。

〃6〃

 白クマはそこにいた。
 夢ではなかった。
 私は白クマを見下ろすような形で、棒立ちとなる。
 他人に必要以上の疎外感を感じて、私は泣きながらここへ帰ってきた。

 眠っている彼女の背中にそっと触れてみる。
 ふわふわしていて、やわらかくて、あたたかい。
 彼女はゆっくりと目をあけ、やがて私を見つけた。
 まぶしそうに目を細めて、私の行為を無言で受けとる白クマ。
 世界には私たちしかいないかのような静けさ。
 言い知れぬ意思の疎通。
 言葉を持たない動物たちは、こんな風にその壁を超えているのかも知れない。

 だとしたら。
 この感覚を言葉で説明することは多分不可能で、こうして実際にやってみれば、誰にでもできることなのね。

 「マキちゃんの手、すごく冷たいわ…」
 心配そうに彼女は言った。
 どこに行っていたの?とは聞かない。
 「ね、お風呂に入りましょう。
  風邪をひいてしまうわ。ね?」

 私は子供のように素直にうなずいた。


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