しろくま1 
しろくま
Present BY Kasumi Yahagi

〃1〃

 暗い朝。
 空は厚い雲に覆われている。この吹雪も到底やみそうにない。
 東京にこれだけの雪が降るのは数十年ぶりとのことで
 いつもならこの時間には灯らない外灯のオレンジ色が無数に浮かぶ。
 その淡い光は見なれた町並みを彩色し直し、幻想的な光景を作り出していた。

 今日は土曜日で会社はお休み。
 明日までお休み。
 そのことが、私をより深い眠りの層へ誘っていた。
 そう言ったわけで、家の呼び出しベルに気がついたのは、大分たってからだと思う。
 私はやっとの思いで、布団から這い出す。
 フローリングの床が氷のように冷たかった。
 今朝は特に寒くてたまらない。
 私は震える手でインターフォンの受話器を取った。
 「はい。どちら様ですか?」
 「シロクマです」
 30歳くらいの、落ち着いた女性の声だった。
 シロクマ。
 そんな人も、配達屋も、新聞社も、宗教団体も、聞いたことがない。
 「マキちゃんかしら?」
 マキは私の名前だ。

 数分待ってもらって、私は適当な洋服に着替えた。
 ドアの覗き窓から、来客の姿を確かめる。
 そこに見えたものは、真っ白い何かだった。
 雪は白いもの。
 そして、外は雪だったのでさして疑わずにドアを開け、呆然とした。
 本物の白クマが、立って私を見下ろしていたのだ。
 覗き窓から見たものは、この白クマの毛並だったようだ。
 私が悲鳴を上げるより先に、白クマは切り出した。
 「ごめんなさいね。まだ寝ていたのね」
 巨大な二つの肉球で頬をなでられて、私は気を削がれる。
 「入ってもいいかしら?」
 私はどうぞと中にいれてしまった。
 私の頭はまだこの現実をうまくのみこめていないようだ。寝起きだし。
 私は白クマのすぐ後ろを歩き、背中にファスナーがついていないかすかさずチェックした。
 残念ながらついていなかった。
 居間に入ると白クマはソファーに座り、礼儀正しく膝の上で両手を揃える。
 そして、静かに、優雅に外を眺めた。
 ダークグレイの雲に白い雪が印象的な朝。
 外灯のオレンジ色が空の紺色と溶合う、幻想的な朝。
 ソファーに座ってそれを眺める白クマが印象的な朝だった。


〃2〃


 白クマは徐に私の方を振り向く。
 「あら。素敵なお洋服ね。とても可愛いわ」
 私は白のブラウスにモスブラウンのロングスカートを履いていた。
 これが夏もので、スカートの色が水色だったら、「ローマの休日」に出てくるオードリー・ヘップバーンと同じ格好になる。
 それはともかく「あなたのお洋服も素敵です」と言える相手ならどんなによかっただろう。
 しかし、相手は服を着ていないし、白クマだった。
 私はこれから自分のすべきことを整理して、頭の中で箇条書きにしてみた。

 @お客様(白クマ)の正体を確認。
 Aお客様(白クマ)にお茶を出す。
 B警察に電話。
 C実家と会社に電話。
 Dお客様(白クマ)の目的を聞き出す。

 いや、そんなことよりここから逃げないといけない(これはE項目目に追加)。
 熊は人を襲うのだ。
 その強靭な爪で肉を抉られては一溜まりもない。
 私の視線は自然とその爪の上に泳いだ。
 すると、私の考えを見透かすように白クマは切りだす。
 「大丈夫よ。マキちゃんに何かしようなんて思っていないわ。私はただの白クマだもの。
  そりゃね、熊は人を襲うことだってあるけれど、それは自分の身に危険を感じたからなのよ。
  熊だって人間が怖いんだから」
 “襲ったりしない”は“いつでも襲える”と言う風にも聞こえた。

 北海道の一部の地域には「熊保険」というのがある。
 始めてそれを聞いた時は笑って受け流してしまったけれど、今になってそれを馬鹿にした自分を恥じた。
 熊保険。なんて素敵な保険なのだろう。
 困った。私、熊保険入ってないよ。
 やっぱり、ここから逃げないといけない。
 そう決心すると、白クマは寂しそうに私を見つめた。
 そうだ。動物は人と違って、相手の気持ちがわかる高等な生き物なのだ。
 とても、勝ち目はない。
 私は諦めて、白クマにお茶を出すことにした。
 頭の中で箇条書きにしたリストから、Aお客様にお茶を出す、の項目が消えた。

 私はあまり緑茶を飲まない。
 多分、白クマも飲まない。
 だから私は、私の好きなコーヒーを出すことにする。
 それに、朝はコーヒーを飲むものだから。
 砂糖とミルクは入れるのかと尋ねたら、ミルクたっぷりと言う。
 それを聞いて私は、カフェオレ(ミルクも別に暖めて作る本格的なやつ)を作ってあげた。
 それにあうビスケット(森永製菓のやつ)も出してあげた。
 白クマはカップのとってに器用に爪をひっかけて、実に上品にティーカップを口に運んだ。
 「あぁ。おいしいわ」
 白クマは目を瞑ってため息と共に言う。とても満足している。
 そして、ビスケットを器用に爪に挟み、実に上品に口に運んだ。
 「実はお腹ぺこぺこだったのよ」
 白クマは恥ずかしそうに言った。

 「あなたは、何しにここへ?」
 私は切り出した。
 「んー、マキちゃんに会いにきたのよ」
 白クマは軽く受け流した。
 質問を間違えたかしら?
 いけない。もっと根本的な事を聞くべきだ。
 あなたは本当に本物白クマなのか、とか。
 本物だとしたらなぜ人間の言葉をしゃべっているのか、とか。
 ふと見ると白クマは膝に手を添え、私の沈思黙考を穏やかな目で見つめていた。
 なんでも来なさいといった風格がある。

 「どうして、日本語をしゃべってるんですか?」
 「日本語じゃないと、マキちゃんとお話しできないじゃない」
 おかしなこと聞くのね。と、言った感じだ。
 「…あなたはどこから来たの?」
 北極?動物園?
 「カナダね。カナダのマニトバ州よ」
 全然違った。
 「どうやって来たの?」
 「歩いて来たのよ」
 「…」
 「雪の中をどこまでもどこまでも歩いて、ここに辿り着いたの」
 白クマは遠い目で言う。
 そう言われると、世界はみな陸続きのような気がしてきた。
 外の大雪は、そのカナダの町とこの町の空間を繋げている。
 世界地図は絶対だなんて、誰にも言いきれない。
 そう「森を抜けると、そこは××だった」とは、よくある話。

 「冬眠は?しなくていいの?」
 白クマはくすくすと小さく笑った。
 「白クマは冬眠しないのよ。
  そうね、出産のため、巣ごもりする雌の白クマはいるけれどね。
  それ以外は冬眠はしないのよ」
 白クマは、最後のビスケットを愛惜しそうに食べた。
 かなりお腹がすいているみたい。
 「何か作る?」
 と、私はほぼ反射的に言った。
 白クマは、満面の笑みでそれに答える。
 「ありがとうマキちゃん。本当に嬉しいわ」
 そういえば、白くまは何を食べるのだろう。あじ?さんま?
 私は白クマに、普段何を食べているのか聞いてみた。
 「アザラシよ」
 私は小さく顎を引いた。
 この白クマが、その鋭い歯と爪でアザラシを貪り食べる光景を想像した。
 テレビで何度か見たことがある。

 「本当はね。そんなにおいしいとは思っていないのよ。
  アザラシはね、脂肪を中心に食べなくちゃならないの。
  狩りができなくなる夏場をやり過すために、脂肪を体内に蓄えるのよ。
  そして夏場には、穴の中や木陰の涼しい所で、ほとんど食事をしないで過ごすの。
  だから、夏の終わりとはじまりでは体重の変化が著しくて困るのよ。
  私たち白クマはあざらし以外殆ど口にしないから、たまには他のものも食べたくなるわね。
  ビスケットとコーヒー、とてもおいしかったわ。ありがとう」

 アザラシは、あくまでも生きるための食事。
 そういえば、人間はそういう食事をしているだろうか?
 私はエプロンをしながら思った。


〃3〃


 即席で作れるものといえば、スパゲティーが妥当だろう。
 メニューはたらこのスパゲティーに決定した。
 私はパスタを一人と一匹分、720グラム(6人分)茹でる。
 たらこをほぐして室温に戻し、レンジで柔らかくしたバターと混ぜておく。
 次はパスタを茹でながらオリーブ油でベーコンを炒める。
 そこにピーマンと玉ねぎを入れて一緒に炒める。
 普通、たらこのスパゲティーにピーマンと玉ねぎは入れないものだけれど、私はいれる。
 茹であがったパスタの湯を手早く切ってバターを和える。
 量が量だったので長箸を持つ指が軋んだ。これは辛い作業だ。
 バターの香いに誘われて、白クマが台所に近づいてきた。
 「まぁ、おいしそうねぇ!
  ねぇ、マキちゃん。私に何か手伝えることはないかしら?」
 私はスパゲティーを作るにおいて、白クマに手伝えることを考えてみた。
 それは、5人分600グラムのスパゲティーを食べてもらうことだけだった。
 白クマはテーブルの掃除を始めた。
 そこに置いたままだった私の服とバッグ、昨日の新聞をよけて、そばにあった台布巾でテーブルを拭いた。
 「何か出す?」
 白クマは冷蔵庫を覗き込みながら言った。
 「それじゃ、ポテトサラダを」
 白クマはポテトサラダを大事そうに両手で持って、テーブルに運んだ。
 牛乳パックを二本出し、コップを二つ出した。
 人間が片手ですることを、白クマは両手で行う。
 その仕草は、家の手伝いをする子供のように素直で丁寧だった。

 細切り塩昆布を混ぜ、レモン汁、コショウ少々で味を調える。
 皿に盛りつけ、パセリか刻み海苔をふりかける。
 できあがり。

 白クマはテレビ脇にあるミニコンポをいじっている。
 「ねぇ、何か聞かない?」
 「白クマはどんな曲を聞くの?」
 「私たち白クマは、普段自由に音楽なんて聴けないのよ。
 だって、雪の世界にはCDも何もないんだから」
 白クマの言うことは、いつも現実的且つ的確だった。
 非常識な質問をしているのは私の方なのだ。
 しかし、と私は思う。
 あなただって、非常識じゃないか。
 白クマなのに、人間の言葉を喋る。
 人間の世界を理解する白クマなんて、常識では考えられない。
 それが、どんなに素晴らしいことでも、愛や優しさに満ち溢れていても
 常識の上に成立たねば、私たちはそれを認めようとはしないのだ。

 「ねぇマキちゃん。これが聞きたい。これをかけてもいい?」
 白クマが選んだのは、ビル・エバンスのワルツ・フォー・ビューティーだった。
 ビル・エバンスはジャズピアノの巨匠だ。
 音楽家の家に育ったユダヤ人で演奏の途中に倒れて帰らぬ人となった。今では伝説の人。
 ジャズにもいろいろなものがある。
 飲食店、レッド・ロブスターのCMで有名な乗りのいいものもあれば、悲壮漂うピアノが
 ベースの低音と共にゆったりと、不規則に音符を刻むムードチックなものもある。
 ビルのスタイルは後者だった。
 お茶というよりはコーヒー。
 酒場のビールというよりバーのワインをイメージさせる、静かなジャズが流れ出す。

 外は、風が幾分落ち着いてきてはいるけれど、降っている雪の量自体は変わっていない。
 空は相変らず暗く、太陽の位置さえわからない。
 相対するように、街の外灯も消える気配を見せず、雪路を点々と照らしている。

 マキの家では、照明を覆う色グラスの傘が、食卓をオレンジ色に照らしている。
 スパゲティーを目の前に向いあう、白クマと私。

〃4〃


 白クマは両手を合わせて、こくんと頭を下げた。
 「いただきます」
 子どものように言った。
 お皿に顔を持っていってばぐばぐ食べるのかと思いきや
 白熊はフォークを使って実に上品にスパゲティーを食べている。
 私は唖然とし、その光景に見とれてしまった。

 そんな挙動と同時に、私の頭は目まぐるしく回転している。
 私は殆ど味を感じないいままに、目の前のスパゲティーを食べた。
 これから、どうしよう。
 実家に電話と言って警察を呼ぼうか。
 ちょっと買い出しと言って、ご近所さんを呼ぼうか。
 そもそもこんな話、誰が信じてくれるだろうか。
 「マキちゃん、お料理本当に上手ね」
 ふいに話しかけられて、私は一瞬肩を上げる。
 白クマはそんな私を見て、寂しそうに微笑んだ。

 そう。
 彼女は私が何を考えているかが、わかっているのだ。
 私はそれをもう一度、認識させられる。
 そして、この白クマを傷つけてしまった事に、軽い罪の念を抱いた。
 「ねぇ、マキちゃん。マキちゃんはどんなお仕事しているの?」
 落ち込んでいる私の気持ちを察したのか、ひときわ明るく、
 それでいて落ち着いた口調で白クマは尋ねた。
 「コーヒー屋さんで働いているの。チェーン店の一つだけど…」
 「あぁ、それであんなにおいしいカフェオレが作れたのね!」
 「…ありがとう」
 その一言がうれしかったのは確かだ。

 「ご両親や、兄弟は?」
 「みんな実家。私だけ内地に出てきたから」
 白クマは、大きくうなずく。
 「恋人は?好きな人はいるの?」
 「…失恋中」
 「話して聞かせてくれないかしら?
  クマに話せば、少しは気が楽になるかも知れないわ」

 その台詞に違和感を感じつつ、私は話す。
 白クマは目を瞑ってその話を聞いていた。
 やがてそれを聞き終えると、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

 「好きは、自分のために望んだこと。
  愛は、他人のために望むこと。
  人を好きになることと、人を愛することは、似てはいても同じことではないの。
  彼は人を好きになることは知っていても、愛するということはまだわかっていないのね」

 「愛なんて…」と、私は心の中でつぶやいた。

 「マキちゃんも、愛したいと思える人がいたらいいわね。
  自分が死ぬとき“愛した”と言える人がいたらきっと幸せよ
  それは愛されるよりも、素敵なことよ」

 話題はもはや人生論の域に突入している。
 しかし、彼女にとってこの議題は特に尊大なものではないようだった。
 思えば、人間だけがこれに理屈をつけて崇高に掲げているのではないか。
 動物たちは本能それのみで、愛たるものを理解しているのではないかと
 彼女を見ているとそんな風に思えた。
 それほどに、彼女の言葉は自然と私の胸に運ばれた。
 私は白クマが人間と食事をしながらおしゃべりというこの非常識を、今一瞬忘れていた。

EXIT NEXT