見つめあっていたのは、どれくらいの時間だったろうか。

ふいに彼が首をかしげる。

'どうしたの' と私に尋ねているみたいに。

'何でもない' と私もまた目線で答える。

窓からのかすかな明りが彼の右頬を照らして、つくり出す明暗がおぼろげな彼の表情に立体感を与えている。

私の無言の返答に、'そう'と答えるかのように、彼は首をもとに戻した。


静かに聞こえて来る有線は、こんどは中島みゆきを流す。

カップをソーサーに戻すと、乾いた音がした。


見飽きたから、というわけではないけれど、視線を彼の瞳から外すと、手もちぶさたになった私は、スプーンでもう一度カップのコーヒーをかき混ぜる。

少しさめたコーヒーだが、薫りはまだ残っている。

そして、雨はまだ降っている。


雨に降られて、通っている大学の近くにある喫茶店に来て、もう15分くらいたっただろうか。こうして窓際のテーブルに向かい合って座り、コーヒーを注文して、やがてコーヒーが来て、飲んでいるわけだけれど、その間ほとんど話をしていない。

ただこうして、互いを見ている。

言葉はなくとも、心地よい時間。


「沈黙が恐くない二人」という言葉がある。

黙り込んでも、気まずくならない、そんな関係を表す言葉だと思う。

思えば、私達二人は、こんな風にして時間を共有するようになったごく最初の頃から、沈黙が恐くない二人だった。

もっとも、それは私があまり話をしなかった、ということが一番の原因ではあるわけだけれど。


会話を交わすということが、私は苦手だった。

それは、私が言葉を知らなかったから。

そして、それ以上に、私は言葉で語る何かが、なかったから。

何を人に伝えればいいのか、分からなかったから。


話すべき言葉を持たず、言葉で語るべき心を持たずにいた私。

その頃からこうして、互いを見つめて来た私達。

その年月があるから、きっと、こうして表情と目線だけで会話をかわすことが、できる。


今では私も、以前に比べればずいぶんと言葉を身に付けた。

それでも、いまだにこんな風に、言葉でない会話を交わしていることが多い。


言葉って、何?

言葉でないと、語れないこともある物なの?

言葉なんて、なくても、私は平気。

彼の言葉はいつも優しくて、柔らかな日差しの中に包み込まれるような安心感、大きなクスノキの太い幹にもたれかかっている時のような信頼感を、感じることができて、好き。

けれども、こうして言葉がなくても気持が伝わって来る感覚。それはもっともっと心地よい感覚。

言葉を私にくれたのは、彼。
そして、今、言葉を必要としないのも、彼。

言葉を失っても、多分私達は大丈夫。

そんなものはなくとも、彼と気持を交わすことができると思うから。

そう信じているから。


今度は彼は机に肘をついて、あごを手の平に預けている。

やはり、少し退屈なのかしら。

彼が窓の外を見た。

つられて私も外を見る。


雨はまだ降っている。
路面にできた小さな水たまりに、雨滴が跳ね返って、模様を付ける。

外はさっきより明るくなったけれど、雨足はあまり変わっていないみたい。

相変わらず、遠くの風景がかすんで見える。
道行く人達の傘の波が、カラフルな模様となって、通りに色を添えている。


'まだ出られそうにないね'、そう彼の目が言う。

私は頷き返した。







君は誰と幸せなあくびをしますか。

Written by Symei






「どうしようか」

彼が口を開いた。

「これから?」

そう私は問いただす。

「そう」

「どうしようかしら」

考えてみる。というよりも、考えるふりをしてみる。私は彼の思う通りで構わないから。

「雨、降ってるしね」

「そうね」

「行くの、やめようか」

「ええ、いいわ」

今日は一緒に美術館に行く約束だった。しかしここから美術館へは20分ほど歩かなければいけない。
晴れていれば楽しい道のりだろうけれど、雨ではそうはいかない。

雨の中、歩いていく時は、一つの傘を共有できて、それは楽しいものだけれど、それでもそういった風情を楽しむことができるのは、ぱらぱらと降る程度の雨だと思う。

今日は流石に、やめておきたい。

「そうしたら、これから、どうする?」

多分、彼のことだから、そう尋ねて来るだろうと思っていたら、やはり、その通りだった。

長い間こうやって一緒に過ごして来たのだから、彼の行動は結構読めてしまう。

だから、予想が当たったからと言ってそれほど珍しいことじゃない。

それでも、まったく思った通りの彼の行動に、少し笑ってしまう。


進歩がないと言えば、そのとおり。

少年のままの、と言うこともできるけれど。

そんな所も含めて、全部、彼。


「決めて」

そう私は言った。

「ええっと、それじゃぁ」

悩む、彼。

そんなに悩むこともないのに、そう思う。

何をしていても、二人でいれば、お互い、楽しい。そう言いあっていたのに。

時には、もっとしゃっきりと、私を引っ張って行って欲しいと思うことだってある。

決断力、ちょっとばかりの強引さ、そんなものをたまには見せて欲しい。

それでも、やはり、好きになってしまった弱味かしら。
真剣に、二人で過ごす時間を楽しい物にしようと考えているのだからと、優柔不断なところも、そんな風に肯定的に考えてしまう。

そうしてしばらく考えていた彼だったけれども

「やっぱり、どこにいきたいの?」

そう私に尋ねた。

「どこでもいいわ」

私は答える。

「うーん」

そんなに考えこまなくても、と思いつつ、彼の顔を見ると、いつもの'困ったけれど少し嬉しい'というような、笑顔を含んだ表情ではなくて、ずっと難しい顔をしていた。

「そんなに悩まなくても、いいのに」

「うん」

「何か困ったの」

何も言わない彼に、そう聞いてみた。

「そうじゃないんだけど」

「じゃあ、何」

「いや、もう少し、なんというのかな、自主性をもって欲しいなと思って」

「自主性?」

鸚鵡がえしに尋ねると、彼は迷うことなく、こくりと頷いた。


確かに彼の言うことは、そのとおりだと思う。

たいてい、彼が何かを決めて、私は「ええ」とか「いいわ」と言って、その通りにすることが多い。

彼が、「どうする」と私に聞いて来て、それで何かを答えることなら、たまにはあるけれども。


そう分かってはいたけれども、私は

「どうして」

と、彼がなぜそう言い出したのか気になって、尋ねてみた。

「いつも、大体僕がなんでも決めているから、ちょっと気になって」

「いけない?」

「いや、いけなくは無いけれど」

「そう」

「でもさ、やっぱり、僕の言うことに従ってばかりっていうのも、あまり良いことじゃないと思うんだ」

「私は、平気」

「でもね、僕は綾波には綾波の人生を送って欲しいと思うんだ。何でもそうなんだけど、綾波にね、自分自身のことを決めてほしいんだ」

そう言って、彼は、まるで私に彼の体温を伝えようとしているかのように、机の上に置いていた私の手の上に、そっと彼の手を重ねて来た。

そして、そこから先の言葉も、彼の手から伝わって来た。


人として生まれて来なかった私を、彼は人として扱ってくれた。

そうすることで、何も知らずにいた私に、生きてゆく上で必要なもの、不可欠なものを教えてくれた。

今、私がもっている、日常を暮らしてゆく上での常識と言われているもの、社会の中での人と人との関係、そしてさまざまな感情や想い、心。生きるということ、その意味。

全て彼が私にくれたものだ。

毎日の生活の中で。

一つ一つを、大切にして。


そういったものを教えてくれたのは、私に人として、一人の人間として、生きて欲しいという彼の願いがあったからだと思う。

そんなことを口にすることは余りないから、直接の言葉として聞いたわけではないのだけれど。

でも、分かる気がする。

彼が私に望むこと。私が私として在ること。

ごく普通の、街を行き交う人たちと同じように。

誰のためにでもなく、自分のために生きて行くように。



言葉が、消えた。

彼の目がじっと私の目を見る。

この瞳を私はどれだけの時間、見つめてきたのだろう。そしてこれからどれくらいの時間、見つめていくことができるだろう。

ふと、そんなことを思った。


「でも」

沈黙を私が破る。

「私は碇君と一緒にいることができれば、いいの」

そう言うと、彼の顔がうっすらと赤くなる。そうして、彼は言おうとしていた言葉を飲み込む。

私の言葉の意味を、もっと確かめようとしている彼を、追いかけるように言葉を重ねた。

「それに、日常の細かな選択は、確かに私はしていないけれど、私は碇君についていくことを選んだわ」


多分それは、私が初めてした、そして一番大きな、わたしの選択だった。

他の誰でもなく、私は彼についていくことを選んだ。

そして、その選択は間違いではなかったと思う。

いま、私はこんなにも幸せを感じている。

これまで知らなかった感覚。知らずにいた感情。


私の手に重ねられていた彼の手を、握り返した。強く。


「だから、いまも私は私らしく生きているの。自分の願いを叶えているから」


言葉が無くても、想いは伝わるかも知れない。

私達には、多分、可能だと思う。

でも、言葉で伝えたい想いが、私にはある。

この瞬間に、言葉を知っていて良かったと思った。

彼から言葉をもらっていて、良かったと思った。

より強く、想いを伝えることができるから。それも、伝えたい人に。伝えたい想いを。


言葉が無くても伝わる想い。

言葉で伝えたい想い。

どちらもが私にとって大切で、いとおしい。


窓から入る光がやや明るさを増し、フローリングの床に微妙な陰影を刻み始めた。

雨が少し弱くなったみたい。

「出ようか」

彼がそう言った。

頷いて、席を立つ。


喫茶店の扉の、カウベルの音を背に、歩道に出た。

雨はまだぽつぽつと降ってはいるけれども、あがり始めている。

彼が傘をさしかけてくれた。

「映画を見に行こうか」

彼がそう私に言った。

まっすぐ、頷く。

そして、傘を持つ彼の腕に、自分の腕を絡めて私は

「それからどうするの」

と彼に尋ねた。

「そうだね、終わったら食事にちょうど良い時間になるね。その後でまた考えるよ」

と言って、歩き始めた。


本当に聞きたかったのは、もっともっと先の「それから」。

明日、明後日、1週間後、1ヶ月後、半年後、1年後、5年後、10年後、50年後。

ずっとずっと時間がたっても、きっと、私は彼の後をついていこうとするだろう。

そんな私に、彼はどんな言葉をくれるだろうか。

どんな心をくれるだろうか。


クチナシの花が白く路傍の植え込みに咲き、甘い香りが辺りを包んでいる。

側にある体温を感じて、雨でにじんだ景色の向こうに、「それから」の時間があるような気がした。














〜fin〜













あとがき:

初めてお目に掛かります。Symeiと申します。
タイトルは、槇原敬之のアルバムタイトルから取りました。が、深い意味はありません。
大学生の二人という想定で書いてみました。私は二人以上の登場人物を書けませんので、これだけです。悪しからずご了承下さい。


『二十歳の絆』の続きに期待しております。恋歌さん、これからもすばらしい物語を書き続けて下さいませ。

お読み下さいましてありがとうございました。これからもよろしくお願い申しあげます。

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