窓の外を見ていて、突然、手紙が書きたくなった。


経済原論の講義は、ちょっと退屈。

耳に入ってくる教授の声がふっと途切れて、チョークの走る音が当たりを包んだ。

視線を黒板に向ける。素早くノートに写すと、頬杖をついて再び窓の方を向く。

ガラス窓の向こうは冬景色。

街路に並ぶプラタナスにも、もうすっかり葉がなくなってしまった。

淋しげに校舎の側にたたずむ自転車をただぼうっと見ながら、どんな手紙が良いかなと考え始めた。


手紙の送り先はもちろん決まっている。

毎日、笑顔をくれる人。

いつも、いつも、側にいてくれて。

わたしのことを見守ってくれる人。

暖かい、とてもとても暖かい人。


毎日会って、側にいて、多くの言葉を交わして、言葉以上の想いを伝えあって、彼と一緒に記憶と心を積み重ねて来た。

長い間。

ずっと、ずっと。

だから多分、大概の思いは、もうお互い伝えあって、二人、共有していると思う。


だから、本当は、手紙でないと伝わらない想い、どうしても文字にして贈りたい言葉、それは今のわたしには、無い。

少なくとも、肩肘張って、かしこまって改めて、言わなきゃいけないことは、無いはず。

それよりむしろ、互いの身ぶり、雰囲気、空気のなかで伝えたい、そんな想いの方が今のわたしにはたくさんある。


言葉をもっていなかった、わたし。

それからの時間の中で、多くの言葉を得た。

言葉で気持を伝えることを知った。

気持の伝わる心地よさを知った。


言葉を得て、始めて分かったこと。

言葉として表さなくとも、伝わる気持。

何も言わなくても、分かってしまう心。

そんなものが、あるということ。

本当に大切な人との間には。


だから、何より大切なのはきっと、想いを表す言葉、飾る言葉をどれだけたくさん持っているかでなくて、伝える思いをどれだけたくさん持っているか、ということなのだと思う。

そう、信じている。


けれど、今、手紙を書きたいと思った理由。

それは、ただ純粋に彼に手紙を贈りたいという、それだけのこと。

思いを伝えたいから手紙を書くのではなくて、ただ、思いを乗せた手紙を渡したい。

変かも知れないけれど、そう思った。


授業はまだ続いている。

でも、心は既にこの教室には無かった。







君は僕の宝物

- 祝 人工しんかい研究所1周年 -

Written by Symei







大学からの帰り道。いつもの角を曲がらずに直進して、近くの、わりと大きな文房具店に寄った。珍しく、一人で。

今日、彼はアルバイトがある。

いつもは、彼がアルバイトをしている間、わたしは図書館で時間を過ごしたりして、待ち合わせて一緒に帰ることが多い。

けれども、今日は「先に帰るから」と断って来た。不思議そうな顔をした彼。それはそう、これまでそんな風に断ったことなんて、数えるほどしかなかったから。

ごめんなさいね、心の中でつぶやいた。


ガラス扉の自動ドアから入る。

暖かい空気がふっと包んでくれた。

真っ先に向かったのは便箋のコーナー。

白い棚に並んだ、色とりどりの便箋が、わたしを待っていた。


どれがいいかな。

迷ってしまう。

どんな色をした便箋が、一番、喜んでくれるかしら。

そう考えながら。

手にとってみる。

どれも綺麗。


いいなと思う色はたくさんある。

世の中に、たくさん。

それは世界中に多くの人がいるのと全く同じ。

ひとつひとつ、それぞれが違っていて、でもどれも素敵。

そのなかから、自分が一番と思う一つを選び出す。

難しいのは、当然だと思う。

どんな偶然に手伝ってもらうにしても。


一番大切と思う人に出会えるまで、時間がかかった。

一番いいなと思う色を見付けるまで時間がかかっても、いいよね。


書こうとしている文章まで思い浮かべながら、手にとっては戻し、それを何度も何度も繰り返しながら、わたしは悩み続けた。

わたしは心ゆくまで迷うことを楽しんだ。



文房具店を後にして、それからスーパーで買物をすますと、わたしは自宅に帰って、手早く食事を済ませた。

後片付けをしていると、彼から電話がかかって来た。

うん、元気よ。買物に行って来ただけ。心配しないで。ありがとう。

もっともっと話していたかったけれど、今日は我慢。

それに、明日にまた、会えるんだから。

おやすみなさい、と言って電話を終えた。


さて。

わたしは机の上のノートパソコンの電源を落した。

しばらくの間、場所を空けてね。液晶ディスプレーをぱたんと閉じて、ローボードの上に置いた。

机に積んだままの本も本棚にしまう。

そしてお気に入りの万年筆を引出しから出して、広くなった机の真ん中に今日買って来たばかりの便箋を置いて、電気スタンドのスイッチをいれて、準備ができた。


さあ、始めましょうか。

えい。

気合いをいれる。

万年筆を手にとって、キャップをはずした。


どんな言葉で始めようかな。

最初が大変なのは、何だって同じ。

「拝啓」じゃ硬すぎるし、「前略」も違う感じ。

うーん。

頬杖をついてみた。

頭の中を飛び回る言葉たち。

そんなに悩まなくてもいいのかな。

いつも呼んでいるみたいに書いてみた。

「碇君へ」

普通なんだけど、なんとなく違う。

書いたとたんに、パズルの最後の一個をすっとはめた時のように、ぴったりと、しっくりとくるようなそんな感覚が無い。

それは、違うということなのね。わたしの想いとは。

わたしはせっかく書いた紙を丸めて、ごみ箱に投げ込んだ。

うーん。

もう少し、考えてみる。

やっぱり、これにしよう。

「あなたへ」

うん、決めた。

さっそく書いてみた。今度はさっき感じた違和感のようなものもなく、わたしの感覚にすっとなじんでくれた。

この調子。

難しく考えず、書いていこう。

私は次の行に取り掛かっていった。


万年筆の、ペン先の弾力が手に心地よい。

もう、わたしの書き癖を覚えてくれたみたい。

水の上を行くあめんぼうみたいに、紙の上を走って行く。すいすいと。

便箋がだんだんわたしの字で埋まって行く。

夜がだんだんふけて行く。


何も生み出すことは無いと思っていた。

何も作らず。

何も与えず。

何も変えることなく。

ただ、じっと見つめているだけ。

ただ岸に座り込んで、川の流れの中、あぶくが生まれ、消えながら流れて行くのを見ているように。

何かが生まれ、消えて行くのをじっと眺めていくだけ、そう思っていた。

そして、そのことに何の疑いの気持も持っていなかった。


わたしは作られた存在。

自然の摂理から離れて。


そのわたしが人としてあることを望むなんて、考えもしなかった。

何かを作り、何かを変え、何かを生み、何かを消す。

そんなことができるなんて。

そして、そうやって自分の回りの世界を変えていくことが、こんなに楽しいことだなんて、知らなかった。


教えてくれたのは、やっぱり、彼。

間違いなく、そう。


だから、今。

何かを作ることが嬉しい。

たとえ、それがたったひとつの手紙であっても。


この手紙のもつ重さなんて、大したことは無い。

それこそ、この手紙を手に持ったときと同じくらい、軽い、軽いもの。

世の中を変えるような発見を記した手紙でもなく。

地球の自転が反対に変わってしまうような手紙でもなく。

誰かの生き方を変えるような手紙でもなく。

いまこの地球上にいる人の、たった一人以外には、全く意味の無い手紙。


それでも、嬉しい。

だって、今、わたしは作り上げている。

すくなくとも、わたしたち二人には大きな意味のある、何かを。


万年筆を置いた。

ことり、という音が、静かな部屋に響いた。

頭の後ろで両手を結んで、椅子の背もたれに身体を預けた。

文章を書くことは、本当、難しい。

自分の気持を一番よく表してくれる言葉、伝えてくれる言葉を探す、旅みたい。

想いを飾る必要はなくても、どうすればこの想いがうまく伝わるのか、やっぱり気になってしまう。


椅子を離れて、窓を開けた。

ひんやりした空気が流れ込んできた。

上を見上げる。

空には一面の星。またたいている。

明日は、きっといい天気。


席を立ったついでに、キッチンでコーヒーをいれることにする。

お湯を沸かして、フィルターペーパーに挽いたコーヒー豆をいれた。

やかんがかたかたと音を立てるのを聞きながら、ぼうっと部屋を眺める。

テーブルスタンドに照らされたわたしの机。

そこだけが明るく見えた。

少し寒くなってきた。時計を見るともう0時近い。ストーブをもう少し強くしよう。


かんかんという音がしてお湯が沸いた。

すこしだけお湯をコーヒー豆に注いで蒸らす。

広がる香ばしい薫り。

少しずつお湯を注いでいく。コーヒーの出来上がり。

マグカップに入れた。彼とおそろいのマグカップ。両手で抱えるようにして持つと、温かさがじんと伝わってきた。

ほんのりと、幸せな気持ち。温かいって、気持ちいい。

砂糖を少しだけ入れる。一口飲んだ。うん、ちょうどいいくらいの、かすかな甘さね。


コーヒー片手にまた、椅子に戻って、続きを書き始めた。

想いを込める。一字、一字に。

便箋の、罫線に並んで行く文字。

うーん。もっと奇麗な字が書ければ良いのに。

ときどき手を休めてはマグカップに手を伸ばす。

コーヒーに口をつけては、読み返す。

読み返しては、続きを書いて行く。


色々なことを知って、色々なことを覚えてきた。

彼にあってから、今日まで。

世の中にはわたしの知らずにいたことがたくさんあった。そして、今、これまでの時間で得てきたもの全てが、素敵に思える。

知らずにそのままいたら、わたしはどうなっていたかしら。

きっと、面白くなかっただろうな、毎日が。

ただ時間が流れて行くだけで。

今のわたしは、そう思う。

そして、それを教えてくれた彼に、感謝している。

彼がいなければ、今のわたしは無かった。

わたしはこの世に造られてきたけれど、でも育ててくれたのは、彼だから。

出会えて、良かった。

ありがとう。


そんな想いを文字にする。

文字が連なって、手紙になった。



書き終わった時には随分と時間が経っていた。

時計をみると随分遅い。明日、起きられるかな。心配になった。

もういっぺん、読み返す。恥ずかしい間違いとか、していないよね。

封筒に入れようとして、迷った。

これ、手渡ししようか、それとも切手を貼って送ろうか。

どっちもいいな、そんな気がしてきた。

でも、やっぱり郵送にしよう。

手渡しするのも、魅力的ではあるけれど、なんか気恥ずかしさがある。

彼の前で固まってしまいそう。

電子メールばっかりだから、たまには手紙も新鮮よね。

封筒の表に彼の住所を書いた。

引き出しの中を捜して、切手を見つけ出して、封筒に貼った。

明日、出すからね。手紙にそう話し掛けて、はった切手をぽんぽんと叩くと、机の真ん中に置いた。

あくびを一つ。それからわたしは眠りに就いた。





それは、ある冬の日の、ひとつの小さな小さな物語。















〜fin〜













あとがき:

人工しんかい研究所1周年おめでとうございます。Symeiです。
ごく普通の一日を、レイ一人称で書いてみました。
彼女の一人称は何度書いても難しいですね。

『二十歳の絆』の続きに期待しております(以前も同じようなことを書いていたと思いますが・・・)。
1周年、おめでとうございます。今後もこのページが発展することを心より願っております。

お読みくださいまして有り難うございました。それでは失礼いたします。

 


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