陽溜まりの中で
綾波レイの場合:  月が静かに住宅街を照らしている。  雲1つない夜空にはチラチラと星が瞬き、やや冷たすぎるかとも思える風すらも心地 よく感じられるような月夜であった。  しかし、起きている者もいないはずの午前2時の碇家では、眠れない夜を過ごす少女 がベッドの上に体育座りをして、その月を眺め続けていた。 「・・・・・・まだ朝が来ない」  彼女の生来の赤い瞳は、極度の寝不足のために更に真っ赤になり、白すぎるほどに白 い肌からは、年頃の少女らしい艶が失われかけている。 「わたし・・・どうすればいいの・・・?」  まったく力の籠もらない呟きがレイの唇から洩れて、誰に聞かれることもなく宙に消 えていく。  もはや、使徒が襲来してくることもなくなり、ネルフという組織が解体されてから既 に4ヶ月が経過していた。  レイにとっては全てとも言えた使命は露と消え、それにより彼女には何も無くなって しまった・・・いや、無くなったはずだった。  しかし、レイはここにいる。 「わたし・・・どうして、ここにいるの?」  何も無くなったはずなのに、こうして生き続けている。  かつて、レイのことを気に掛けてくれた唯一の人物、碇ゲンドウは既にこの世には存 在していない。  レイ自身がゲンドウを拒絶し、それ故にこそ彼女は生きているのだから。 「そうね・・・碇君がいるから・・・」  そう・・・彼女が選んだのは碇ゲンドウではなく碇シンジだった。  彼らはレイを拒絶しなかったことについては同じであった。  しかし、綾波レイという1人の少女の存在を、掛け替えのないものとして見つめてい たのはシンジの方であり、そのためにレイはゲンドウを拒絶し、彼を事象の果てに追い やる結果を導いた。 「わたし・・・ここにいてもいいの?」  隣の部屋で安らかな眠りに就いているであろう少年に問いかける。  しかし、それは決して届かない問いかけであった。 「怖い・・・」  突然、言いようのない恐怖感に捕らわれて、レイは自分の両肩を自らの手で抱き締め ると、その初めて感じる感覚を口に出した。  自分がシンジにとって要らない存在になってしまったときに、一体どうすればいいの か分からなかった。  彼の側にいることを許されなくなったとき、自分の居場所はこの世界のどこにも無く なってしまうという恐怖であった。 「これが『怖い』ということ? 初めての感じ・・・嫌・・・これ、嫌・・・」  充血しきった瞳から大粒の涙が零れ落ちる。  幼い子供のように未だ発達していないレイの感情は、胸を締め付けるような感覚に耐 え得る強さを持っていなかった。 「寝たら夢を見るわ・・・怖い夢・・・嫌・・・寝たくない・・・」  エヴァ量産タイプとの戦いの後、長い間、昏睡状態に陥っていたレイが目覚めてから かなりの時が経つ。  行き場のないレイを引き取ったのは、戦いの最中に初号機から離脱した碇ユイであっ た。  ユイとシンジの生活の輪に、なかなか馴染むことが出来なかったレイの不安は、彼女 に1つの夢を繰り返し見せた。  或る朝目覚めるとシンジたちはどこにもいなくなっていて、この家の中にいるのは自 分1人になっているという夢。  自分は要らない存在であると確認させられるような夢だった。  そして、その夢を数回見てから、レイは眠らなくなったのである。 「早く朝になって・・・碇君の顔が見たい・・・わたしを包み込んでくれる笑顔・・・」  レイの願いも虚しく、朝はまだ遠い・・・。 碇シンジの場合: 「おはよう、綾波」 「・・・・・・おはよう」  交わされる朝の挨拶・・・とは言っても時間はもう10時近くであったが。  レイがこの家に来てから幾度となく交わされた言葉のやり取りであった。  そして、朝が訪れる度に少しずつ窶れていくレイの容貌を確認させられるのも、この 儀式めいた会話の時なのである。 (綾波、また寝てないんだ・・・あんなに綺麗だった肌がかさついてる・・・)  見ているだけでつらくなってくるようなレイの変貌に、シンジの心が締め付けられる。  充血した白目の部分は、瞳の赤が広がっているかのようであった。  次第に濃くなっていく目の下の隈が痛々しかった。 (綾波・・・)  毎朝、シンジの顔を見るとレイの顔にはかすかであるが明るさが戻る。  それが何を意味しているかは、いくらシンジにでも分かった。  シャワーを浴びるためにレイが浴室に消えていくと、シンジは縁側に座って歯を磨き 始める。  思考はいつもレイの方に向かっているのであったが。 (綾波は何に怯えているの? 今の生活が怖いの? それとも、あの時の事が忘れられ ないでいるの・・・?)  シンジは思考を数ヶ月前に戻していく。  あの、ジオフロントでの戦いに・・・。 (僕が初号機に乗り込んだ時、僕には選択肢があった。地上へ出て量産タイプと戦うの が1つ。地下に行ってセントラルドグマに向かうのが1つ。そして、僕は地下に向かう ことを選んだ)  あの時、シンジは確かにレイの心の言葉を感じた。  そして、地上に出るのではなく、地下へと降りていくことを選択したのだった。 (・・・あの選択は間違っていなかったと思う。綾波を止めることが出来たのは、その おかげだったんだから・・・)  リリスとの融合を果たそうとしていたレイを、シンジは寸前のところで引き留めるこ とに成功した。  それが最善の選択であったとシンジは疑わない。 (そして、父さんの死を知ったとき、初号機に融合していた母さんは、もう一度、この 世界に戻ってきた・・・)  ユイはゲンドウの亡骸を固く抱き締めると、気を失ったレイを抱きかかえたシンジに 言った。 『過ちは起きてしまったわ。でも、彼らゼーレを止められるのは貴方の想いと、初号機 に宿った使徒本来の力だけなのよ・・・生きなさい、シンジ・・・その子のために。そ の子に人間らしい生き方をする権利を貴方が与えるの』 (綾波は僕に力をくれた。いや・・・違うかな? たぶん、綾波が僕にくれたのは、目 的だったんだ・・・綾波を幸せにしてあげたいっていう・・・)  そして、シンジたちは勝った。  ゼーレを破滅に導くことが、シンジたちの命を『死』という奈落に落とし込もうと傾 けられていた天秤を元に戻すことになったのである。 (でも・・・綾波は・・・) 「シンジーー、お布団を取り込んでちょうだい。もういいと思うわ」  再び思考のループに入り込もうとしていたシンジは、台所の方から聞こえてきたユイ の声で我に返った。  見れば太陽に当てられてフカフカになっている布団が物干し台に掛けられている。 (・・・いけない、いけない。僕がこんなことじゃ、綾波に心配をさせちゃうな)  大きく息を吸い込んで吐き出すと、努めて明るい表情を作った。 「うん、わかったよ母さん!」  大きな声で返事をすると、シンジは布団の方に向かうのだった。   2人の場合:  縁側にすっかり柔らかくなった布団を重ねていたシンジは、背後から近付いてくる足 音に気が付いて振り返った。  ほとんど体重というものを感じさせない密やかな足取り。  すでに聞き慣れてしまったレイの足音である。 「綾波、シャワー終わったんだ?」 「・・・ええ・・・何をしているの?」 「ん? 布団をさ、干してたのを取り込んでくれって母さんに言われたんだ」  不思議そうにシンジの行動を見守っているレイが、なんだか幼い子供のように見えた シンジは柔らかく微笑んだ。  レイも釣られてか、かすかに笑みを浮かべる。  その笑顔を見つめていたシンジは、自分の中の疑問が解けていくような気がした。 「ねえ、綾波? こっちに来てみなよ」 「・・・? ええ・・・なに?」 「いいからさ・・・」  そう言うと、レイの手をやや強引に引っ張って布団の側まで連れてくる。  暖かい日差しを浴びた羽布団からは、なんだか懐かしくなってくるような匂いがして いた。 「ほら!」 ぼふっ!  シンジが干したばかりの布団の上に倒れ込む。  ふんわりとしたお日様の匂いがシンジだけでなくレイまでもを包み込んだ。 「・・・・・・」  よく分からない、という顔のレイ。  じっとシンジの行動を見守っているだけで動こうとはしない。 「綾波・・・綾波もやってみなよ?」 「え・・・?」 「いいから、いいから・・・ね?」  笑顔でシンジがレイの方に両手を差し伸べる。  レイの頬が少しだけ桜色に染まったように見えるのは、悪戯な光の加減のせいだけで あろうか? 「・・・ええ・・・やって、みるわ・・・」  シンジの真似をして勢いよく布団の上に飛び込む。 ぼふっ! 「暖かいでしょ? 干したばかりの布団って気持ちいいよね?」 「ええ・・・」  レイもうっとりと瞼を閉じる。  その安心しきった表情を見て、シンジは勇気を振り絞って声を掛けた。 「ねえ・・・レ、レイ?」  ややどもりながらも何とか言えた。 「え・・・?」  いつもとは違う呼ばれ方に、レイが少し驚いたように目を見開いた。  どんなときでも真剣な眼差しがシンジの目線に合わせられる。 「あ、あのさ、僕たちは家族なのに、いつまでも他人行儀な呼び方なんておかしいかな なんて思ってさ」  恥ずかしそうに頬を赤らめて、まっすぐに見つめてくる赤い瞳から視線を逸らす。  その神秘的な瞳が、シンジの心の中にある彼女への想いを全てを見通してしまうよう な気がしたからだった。 「家族・・・? 碇君、わたし・・・」  戸惑いを隠せない正直な瞳が、それだけではない何かで揺れている。 「だめだよ、それじゃ・・・僕のことも名前で呼んでみてよ」 「え・・・あ・・・それじゃ・・・」  困り果てた様子で言葉を詰まらせるレイを息を詰めて待つシンジ。 「・・・シ、シンジ・・・・・・これで、いい?」 「うん。この方がずっといいよね」  肩の荷を降ろしたような表情でシンジが言う。  そのシンジに見惚れたような目を向け続けるレイであった。 「碇君、家族って・・・」 「違うでしょ?」 「あ・・・シ、シンジ・・・」  慌てた様子で言い直すレイに微笑みかける。 「そう。忘れちゃだめだよ?」 「ごめんなさい・・・でも、家族って・・・?」 「うん・・・」  シンジが空を見上げるようにしながら話し出す。  考えた末の言葉ではなく、突然、心に浮かんできた言葉で話さなくてはならないのが、 とてつもなく難しく思えたのだ。 「まず、ごめん。レイがつらそうにしてるのが何故なのか分からなかったんだ。昔と同 じでオロオロするばかりで・・・成長しないよね、僕は・・・」  必死に言葉を探しながらシンジ。  真剣な瞳がそれを見つめている。 「そんなこと、ない・・・」 「ありがとう、レイ。だけど、正直なところ今でもよく分からないんだよ。レイは大事 な家族の一員だっていうのに、僕は・・・」  レイはシンジの瞳に映っている雲を見つめながら、彼が再び語り出すのをじっと待っ ている。  深い溜息を吐いてからシンジは口を開いた。 「つらいことがあるんなら・・・何も力になってあげられないかもしれないけど、僕に も悩ませて欲しいんだよ。僕はさ・・・レイのことを・・・す、好きなんだから!」 「!?」  突然の告白に、レイは大きく目を見開く。  空を見上げていたシンジがその視線をレイの顔に戻す。 「・・・頼むから・・・お願いだから・・・何でも話して欲しいんだ」  レイが見つめ続けていた瞳の中の雲は、水鏡に映っているかのように、ゆらゆらと揺 らめいていた。  レイの心が針で刺されたように痛む。 「ごめんなさい・・・。わたし・・・わたし、怖かったの」 「うん・・・」 「シンジと一緒にいられると嬉しい・・・でも、その気持ちと同じだけ怖い・・・」  レイの声もかすかに震えていた。  このときには、お互いの顔を見ないようにして話をしていたが、例え見なくても相手 がどんな表情になっているかなど分かり切っていた。 「もし、シンジがわたしのことを要らなくなったら・・・わたしにはどうすればいいの か分からないから・・・」  もはやレイは声だけでなく、その華奢な身体全体を震わせている。  その姿を見たシンジがレイの左手を両手で握り締めた。 「要らなくなるなんて・・・絶対にないよ! 家族だろ、僕たちは・・・?」  声が思わず大きくなってしまうシンジ。 「・・・・・・」  その力強い言葉にレイの身体の震えが徐々に収まっていく。 「レイ! 僕は・・・」  なおも心から激しく流れ出てくる言葉を続けようとするシンジであったが、レイはそ んな彼の口に、そっと空いていた方の手を置いて言葉を押し止める。  レイの手はもう震えてはいなかった。 「ええ・・・今は分かるわ・・・。ありがとう、シンジ。わたし、嬉しい・・・とても 嬉しいの・・・」 「レイ・・・」 「ありがとう。それと・・・今まで、ごめんなさい・・・うっ・・・ひっく・・・」  レイの喉から押し殺した嗚咽が漏れる。  もちろん、シンジはそれを止めようとはしなかった。  ただ、零れ落ちる美しい宝石のような涙を目で追いながら、こう続けただけだった。 「ねえレイ? ・・・お布団ってさ、干したばかりだと暖かくて気持ちがいいよね?」 「・・・ひっく・・・ええ・・・そう、思う・・・」 「なんかさ、眠くなってきたよ・・・」 「・・・ぐすっ」  シンジの声には、レイの心を落ち着かせる効果のある波動を含んでいた。  レイの涙が少しずつ収まっていく。 「ね・・・ホントに眠くなってこない?」 「・・・ええ・・・わたしも、眠いわ・・・」 「そっか・・・・・・レイもそう思うんだね・・・・・・」  レイはシンジの次の言葉を待っていたが、そのまま静かな時間だけが過ぎていった。  しばらくすると、シンジの規則正しい寝息が聞こえてくる。 「・・・シンジ・・・寝たの・・・?」  レイは少しだけ身体を起きあがらせるとシンジの寝顔を覗き込んだ。  安らかな寝顔にレイの目が和む。 「本当に・・・暖かい・・・ここは、暖かいわ・・・シンジ・・・」  寝付きのいい少年を起こさないように注意して、猫のように身体を丸めてそーっと擦 り寄せる。 「眠い・・・わたしも・・・シンジの夢を・・・・・・見たい・・・・・・」  縁側に置かれた布団の上から、2人分の寝息が聞こえ出すまで、そう時間はかからな かった。 碇ユイの場合: 「あらあら・・・2人ともお休み中なのね・・・」  いつまで経っても取り込み終わらない布団。  その上で身を寄せ合って眠る大切な家族たちを見るユイの目は、どこまでも優しく、 そして愛情に満ちていた。  しばらくの間、その微笑ましい光景を眺めていたユイだったが、ふと眩しそうに手を 翳しながら空を見上げた。  どこまでも青い空に太陽は輝き、爽やかな風は雲を流れさせ、ユイの髪をもさやさや と揺らしていた。 「・・・今日もいいお天気になるわね」  大きく伸びをしたユイは台所に向かって歩き出す。  目を覚ました後におなかを空かせていることであろう子供たちのために、彼女自慢の 特製アップルパイを準備しなくてはならなかったから・・・。                                   おしまい

新世紀エヴァンゲリオンはGAINAXの作品です


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