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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2006年12月)


□2006年12月30日(金)  「北京日記」(6)―雪の空港

 朝起きると一面の雪である。機体の「雪溶かし」の順番待ちなどで、2時間半ほどフライトが遅れたが、空港閉鎖にならなかったので良かった。

 本日は移動日のため、北京の本屋さんを紹介。院ゼミの「同学」が、人文社会系の専門書店に連れて行ってくれた。清華大学近くの「万聖書園」である。いつもは「北京図書大厦」をふらふらするぐらいで済ますのだが、やはり専門書店だと事情が変わる。大量に買い込んだ挙げ句、会員カードまで作った。

 場所は簡単。「西直門」で13号線に乗り換え、「五道口」で下車。道路の右側を清華科技園方面に進み、徒歩10分程。併設されている喫茶店「醒客珈琲」の看板もあるので見つけやすいだろう。入り口のロッカーに鞄を預け、2階がメインの本屋さんである。北京に行かれた際には、ぜひ訪れて頂きたい。

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□2006年12月29日(金)  「北京日記」(5)―「批准」の基準




 昨日、初めて档案複写の「不批准」があった。1956年5月の周恩来・南郷三郎会談記録である。この会談は周恩来による「北京の空港はいつでも開かれています」という言葉で有名(?)だが、渋く響く声で「No!」であった。

 周恩来関係の档案なので一律「不批准」なのかとも考えた。そこで、どこに「批准」と「不批准」の基準があるのかを確認すべく、(1)内容が公開されていない周恩来会談記録、(2)内容が公開されている周恩来会談記録、(3)内容が公開されていない陳毅副総理の会談記録、(4)周恩来がらみの「きわどい」档案、という4件を同時に申請してみた。

 結論。確定的なことは言えないが、どうやら周恩来の会談記録は複写できないようである。もっとも、活字で(周総理批准)と入っている「中央会議文件」(内容はかなりきわどい)はあっさり複写できたので、周恩来の手稿や批示(もっとも、癖のある字なので慣れないと読めない)、あるいは会談記録が一律「不批准」になっているようだ(毛沢東については「周恩来に准ずる」というか、「周恩来が毛沢東に准ずる」といえようか)。

 そこで中国外交部档案館の档案調査・収集戦術。

・とにかく必要な档案は端末上で複写申請する。
・適宜「批」と「複写」の進捗状況について担当さんにジャブを入れる。
 (最後には出てきますが、精神衛生上「待つ」のはあまり良くありません)。
・毛沢東および周恩来の会談記録については「手写」を覚悟する。
 (『戦後中日関係文献』を持参すると効率的)

 つまり、初日からガンガン複写申請しつつ、必要な毛と周の会談記録は筆写する。複写はほぼ翌日渡しになるので、最終日はよっぽどのことがない限り複写申請しないほうが良いかもしれない。

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□2006年12月28日(木)  「北京日記」(4)―最高級ホテルでの朝食

 朝は北京に赴任している友人と中国大飯店のビュッフェで朝食。一昨日と昨日、北京で開催されていた日中歴史共同研究に関する意見交換をする。日中関係研究者としては、このような試みをどのように評価すべきなのか、やはりしっかりとした独自の見解を持っておく必要があろう。

 ここで詳しく書くことはできないが、友人との意見交換を通じてかなり自分の見解を固めることができた。来年の基礎ゼミでは2007年3月、2007年12月、そして2008年6月に会合が開かれ、2008年末に総括が予定されてる本共同研究について、ゼミ生とともに追いかけようと考えている。

 初めて複写を申請した档案が「不批」になった。

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□2006年12月27日(水)  「北京日記」(3)―重慶料理

 複写の手順も確認でき、安心して档案調査を続ける。もっとも、すべての档案が「批准」されるとは限らないので、複写されて出てきた档案をリストとを丁寧に突き合せながら確認して作業を続ける。

 楽しみとなった昼食は、「同学」の出身地である重慶料理のお店に連れて行ってもらった。「すごく辛いですよ」と言われながらも、獅子唐の炒め物や「○○千張肉」(中華風ミートローフにばら肉の薄切りの煮物がミルフィーユ風に重ねてあるもの)、排骨猪肉とかぼちゃと青豆のスープなど、辛くて美味しい料理が並んだ。ご飯が進んだことは言うまでもない。

 北京の定宿は崇文門の新僑諾富特大飯店。ここは地下鉄に直ぐ乗れるのも良いのだが、何よりもすぐ近くに崇文門菜市場があるのが有難い。いわゆる「市場」の雰囲気が味わえるのと同時に、ちょっとしたスーパーも入っているので、大好きなビールもまとめて買うことができる。




 お薦めは崇文門ホテル側の入り口から入ってすぐ左側にある鶏料理のお店。ここで買う「炸鶏肉」(フライドチキン)は、どこぞのチェーン店のフライドチキンとは別物。パリパリさっくりと揚がった「鶏腿」は絶品である。また、反対側の入り口から入った所にある、?鶏肉を薄切りにしたものとレタスと胡瓜を混ぜて、それに五香粉と甘辛いタレを混ぜて「包子」に挟む、中華風ハンバーガーはひとつ3元。熱々でこれも癖になる。

 食べ物のことばかり書いているのもなんだかなぁ...。

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□2006年12月26日(火)  「北京日記」(2)―ロシア料理




 朝はいつも通り朝陽門の「永和大王」で「四号餐」(油条と小ワンタン)と「熱豆漿」(もちろん「淡的」)を食して気合を入れて档案館へ。取り敢えず挨拶がてらに「昨日申請した複写はどう?」と聞く。答えは相変わらず「批准後に印刷される」とのこと。さて、いつ出てくるのか。どこまで出てくるのか。

 ひたすら重要档案の「手写」を続けながらも、「印刷はどう?」と時おりジャブ。午前中に無事すべて手に入れることができた。今日の昼食は一人だったので近くの「真功夫」で「排骨飯」の「1号餐」を食べながら確認すると、嬉しくなるぐらい無事鮮明に印刷されている。

 もとよりすべてPDF化された档案なので複写は簡単なのだろうが、それにしても翌日に現物を入手することができるのは本当に有難い。加えて嬉しいことに、去年に比べて閲覧は1件5元から2元に、複写は1頁10元から5元に値下がりしている。

 例えば某国の史料館について言えば、史料ごとの細目は存在せず、複写は更に高価で、現物が入手できるのも3週間後である。ましてや安く上げようとしてマイクロを購入しても、印刷は「自助」である。比べて、画面をクリックするだけで翌日に数百枚の档案が労力なく手に入れられる素晴らしさ。このお陰で、某国で半年かかった史料調査が、中国では合計2週間足らずで終了した。何よりも有難い。

 档案獲得の興奮冷めやらぬまま夕食へ。北京に赴任している友人の関係もあり、お招きを頂いてロシア料理で北京の夜を楽しむ。普段完全な「ビール党」の私なのだが、寒い寒い北京の風に吹かれたせいもあり、しこたまウォッカを堪能した。キャビア、黒パン、ボルシチ、そしてウォッカ。ロシア大使館裏の、少し奥まった店で過ごす北京の夜は、1950年代前半における中ソ関係の「蜜月」に想いを馳せさせてくれるものとなった。

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□2006年12月25日(月)  「北京日記」(1)―湖南料理と雲南料理

 档案調査初日。昨年初めて訪れたときには「パスポート」、「指導教授の紹介状」、「大学図書館の紹介状」を用意して行った。基本的には、「パスポート」と「大学図書館の紹介状」があれば誰でも問題なく閲覧できるだろう。もっとも、今年は図書館から「客員研究員」には紹介状が出せないと言われたので(一般的な利用基準は院生時代と変わらないのに)、どうなるものかとハラハラしながら档案館へ。相手方の「規定」と関連する問題なので、ここに書くことはできないが、とにかく閲覧はできた。

 今回の「任務」は档案の「複写」である。昨年は公開されていた档案が限定的であったこともあり、得意の「筆写」で間に合ったのだが、今年5月に公開された部分(1956年から1960年まで)は「戦犯」関連の档案が多数あり、とても「筆写」では滞在期間中にカバーできないことは初めから分かっていた。そのため、初日から閲覧端末上の「復印」ボタンをとにかく多用することにした。

 手続き的には、閲覧端末上で「クリック」すると、それが「申請」になる。「いつ頃档案は手に入るのか」と聞くと、「批准された後に印刷される」との回答。とはいえ、閲覧端末上で「クリック」しただけのものが、ちゃんと確実に入手できるのだろうか。日本をはじめとして、「アナログ」な公文書館に慣れた身にとっては、ちょっと不安が残る。ちゃんと「申請」できていない場合を考えて、取り敢えず明日からの作戦を練るべく、今日は重要档案の「筆写」に取り組んだ(このあたりが慎重というか、小心者。口頭では「明日お渡しできる」と確認してある)。




 そんなこんなの初日だったが、昼食は院ゼミの「同学」に連れられて、朝陽門近くの「吉祥鳥湘菜」へ。なかなか日本人一人では入りにくい感じのお店だが、中国人留学生である「同学」と一緒なので、「没問題」である。辛くて有名な湖南料理を出すとのこと。「同学」お気に入りのお店だそうだ。湖南と言えば、毛沢東主席である。「お肉の塊」が写った美味しそうな写真につられて、「毛氏紅焼肉」をオーダー。

 これ以外にも、この時期美味しい「娃娃菜」(小さな白菜)の土鍋煮や「小さな瓜」の炒め物など、本当に美味しい料理が並んだ。また、小さな素焼きの器でひとつひとつ炊かれた「米飯」も合う。先日、「美味しくお酒が飲めるのはその組織に合う何よりの条件」というようなことを書いたが、その土地の料理が本能的に好きなことも、これに通じるだろう。台湾や中国に来ると、なぜか本当にほっとする。特にこの「娃娃菜」のピリ辛土鍋煮は嫁さんにも食べさせたい。




 終日档案「手写」を終えてホテルへ。お風呂で明日の計画を練っていると、部屋の電話が鳴った。「大澤さん、西直門から北京動物園の前に行ってください。西苑飯店を『過馬路』です」とのこと。すでに北京入りしていた教授と北京で研究所に勤務しておられるゼミの先輩も集まっていらっしゃるとのこと。李ゼミの最初からいる仲間が北京で「邂逅」するという偶然。地下鉄と徒歩を駆使して何とか目的地へ。

 案内されたのは「(さんずい偏に真)西人家」という雲南料理のお店。まさに「歓待」。写真の通りである。いわゆる「パイナップルご飯」をはじめ、「これでもか」と松茸を使った炒め物、そして、縄文土器のような形をした鍋が炭火で炙られた「騰冲土鍋子」など、お腹が張り裂けるぐらいまで堪能させていただいた。ゼミの「大哥」である「老王」が設宴くださった。普段日本で接する「教授」や「老王」、「小王」が、北京ではいつも以上に輝いて見えるのが印象的だった。

 久しぶりに午前1時を過ぎてベッドに入った。

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□2006年12月24日(日)  北京へ

 今年も残すところ一週間余り。「行ける時に飛ぶ」を合言葉に北京へ。今日はクリスマス・イヴでもあるのと同時に、今春タイに赴任した父が一時帰国のため、朝一番の飛行機で成田に到着する日でもあったのだが、とにかく「行ける時に飛ぶ」である。

 もっとも、ここ半年は中国外交部档案館に提出する「紹介状」の規定運用が厳格化されたとの噂が流れてきていたことから、最後の最後まで出発を悩んでいた。相も変わらず、事前のメールや国際ファクスによる照会も「なしの礫」であったが、所詮「最後は交渉」。ギリギリで旅券とホテルを確保する。

 これまで「西北航空」は時間的な問題(出発遅く、帰国早い)や値段の問題(他に比べてかなり安い)などの点から候補から外れていたのだが、年末のこの時期、それもギリギリということもあり決断。飛行機に関してはアルコールが有料であること以外は、極めて快適な空の旅であった。

 北京国際空港到着は現地時間8時45分。リムジンバスで定宿にしている崇文門のホテルに到着したのが10時20分。まずは順調な滑り出しといえよう。

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□2006年12月22日(金)  おばあちゃんのリュックサック




 クリスマスを前に、おばあちゃんからプレゼントのリュックが届く。よっぽど気に入ったらしく、家の中でも背負ってテクテク歩いている。テレビを見るにも、おやつを食べるにも降ろさない。

 論文「戦後東アジア地域秩序の再編と中国残留日本人の発生―『遣送』と『留用』のはざまで」の締め切り。無事に脱稿して提出する。

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□2006年12月19日(火)  兵どもが夢の跡...

 今年も無事に修士院生全員が修論を提出できた。4月以来、指導教授のお手伝いということで、折に触れてスケジュール管理とアドバイスを行なってきたが、やはり例年の如く、終えてみて分かる「あの時のアドバイスの意味」である。三者三様、いずれも良い経験となったようだ。それにしても最後の半年は伸びた。

 緊張から解放されたためか、打ち上げも盛り上がった。これで私も安心して正月が迎えられる。

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□2006年12月17日(日)  お楽しみ会

 息子の保育室のお楽しみ会。徹夜続きのため、良い気分転換にもなる。

 通い慣れた保育室のお部屋がクリスマス一色で飾り立てられ、手作りのピザやサンドウィッチ、お稲荷さん、さらにはプリンやケーキなど、たくさんの美味しい料理やデザートが並ぶ。とはいえ、さすがにビールは持ち込めない。ちょうど息子の誕生月が今月ということもあり、バースデーケーキまで用意してくださった。

 それにしても最近驚かされるのは息子の「お歌」。どこまで意味を理解しているのかは定かでないが、結構長い曲もちゃんと覚えていて、しっかり最後まで歌う。おそらくレパートリーもすでに十数曲にのぼるだろう。これも遺伝だろうか。

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□2006年12月15日(金)  単著出版...

 まだまだ先の話だが、私のような未熟な駆け出しの研究者にも目を光らせていらっしゃる編集人士が...。

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□2006年12月14日(木)  満2歳の誕生日



 随分日本語も流暢になってきた。論文の締め切りやら、海外出張の準備、さらには修論の朱入れまで、色々と忙しいのだが、我が家の最大のイベントなのでしっかり準備する。

 サーモンといくらをたっぷりと乗せたちらし寿司、息子の大好きなブリかまの煮付け、軽くニンニクを効かせた中華風から揚げ、鶏肉団子の野菜たっぷりシチューなどなど。ケーキはもちろん狛江が誇る名店「セ・ジュール」である。実家の母もたくさんのプレゼントを抱えてやって来て、これぞ「小皇帝」といった趣き。

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□2006年12月13日(水)  基礎演習要項と「小肥羊」

 来年度中央大学法学部で開講を予定している基礎演習の募集要項を提出した。私の専門が戦後日中関係ということもあり、じっくり準備する意味からも、テーマは「『日中関係を考える』―政治、経済、文化、そして歴史」とした。学部2年生の基礎演習であるため、「リサーチ」や「プレゼン」の基礎的方法を身につけられるような、「実学」志向のゼミにしたいと考えている。

 午後は三田へ。報告20分、質疑応答20分前後、合計40分を2本という、中距離走的な時間配分の、院ゼミの議論を楽しむ。「論十大関係」と「八大」、さらにはその後の「反右派」から「大躍進」まで。中国内外政の「振り子」現象をどうのように考えるのか。大変興味深い論点が多い。

 祝賀会と歓迎会、さらには忘年会として渋谷の「小肥羊」へ。楽しくお酒が飲めることが、その組織との相性を決めるわけではないのだろうが、本当に楽しい時間だった。

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□2006年12月12日(火)  院ゼミ

 修士論文に関する最終報告会。大幅な文章推敲が必要なもの、最後の部分の執筆に悩むもの、大幅な構成変更を迫られるもの、課題と苦労はそれぞれである。いずれにせよ、最後まで自分の満足の行く作品を完成させてほしい。

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□2006年12月10日(日)  戦後「満洲」史研究会

 プレゼンテーションの在り方という問題について色々と考えさせられた。

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□2006年12月9日(土)  近現代東北アジア地域史研究会

 学会出席のため下高井戸の日大へ。自宅から近いのが有難い。戦後東アジア国際政治研究会の仲間が参加する「冷戦史」シンポジウムが楽しみだった。

 最も印象に残った論点は、東西冷戦構造下における「二つのチャレンジ」という問題。つまり、東西対立という両主義陣営相互間の「チャレンジ」と陣営内部における「チャレンジ」。特に後者については米国に対する他の西側諸国の「チャレンジ」という問題が提起された。冷戦後に出現した一極集中的な国際社会の現実を踏まえるに、果たして「冷戦」とは何だったのか。いわゆる冷戦期とポスト冷戦期の「連続」と「非連続」という問題だろうか。

 終了後の懇親会では、私の研究にも登場する古海忠之氏(旧「満州国」国務院総務庁次長)のご子息と色々とお話させていただくことができた。

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□2006年12月6日(水)  三田の大学

 来年度からお世話になる予定の先生の院ゼミに参加させて頂く。伝統と実績を持つゼミということもあり、否応なしに知的好奇心を刺激される。この研究環境を最大限に活かしていければと思う。

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□2006年12月2日(土)  急遽院ゼミ...

 本日は随分前から戦後東アジア国際政治研究会の司会を仰せつかっていたのだが、教授の米国出張の関係もあり、院ゼミ開催の号令が急遽かかり多摩へ。突然司会を交代していただいた友人には失礼をしてしまった。

 修士論文提出締め切りまで3週間弱。いよいよ大詰めである。いずれも相当苦しんでいるらしく、初稿もまだ上がってこない。初めて書いた論文を他人に読んでもらうのは恥ずかしいものだが、自分だけで悩んでいても仕方ないので、より「効率的」に作業するためにも、思い切ることが大事である。

 本年度修了を目指す修士院生は3名。民間貿易団体の機関紙の分析を通じて戦後日中民間経済外交の一側面を明らかにしようとするもの、中国の初等教育問題と新たな「開発」思想の関連を探ろうとするもの、第一線の研究者に勝るとも劣らない档案調査に基づき、新たな学問領域の開拓に挑戦しようとするもの、と様々である。

 しかし、与えられた時間は平等である。自らの目指す目標を見据えながら、満足の行くものを創り上げてもらいたい。

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□2006年12月1日(金)  中国残留日本人孤児訴訟、神戸地裁勝訴!

 画期的判決である。

 昨年、全国で本訴訟を支えていらっしゃる原告弁護団の方々と懇談させていただいた時には、歴史学者の視点から、勝訴の難しさをご指摘させて頂いた。だが、「社会的正義」を実現する場としての「司法の場」では、著しい「権利侵害」が存在し、「被害救済」の必要が明確な場合、「歴史的事実」よりも「真実」こそが重要となるのかもしれない。

 昨月、母校大学院で本問題について講義させていただいた際には、「中国帰国者」を取り巻く現状をつぶさに紹介させて頂いたうえで、昨年の大阪地裁判決(2005年7月6日)と今年の東京地裁判決(2006年2月15日)を比較し、その「わずかな前進度合い」から「もしかすると...」と結ばせて頂いたが、まさか年内に勝訴判決が出るとは。

 「内なる外」とされてきたものが、もとより「内」であることを日本社会に認めさせるための第一歩である。それは、日本社会の将来を考えるうえでも極めて重要な歴史的意義を持つ。

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