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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2005年12月)


□2005年12月30日(木)



 資料調査最終日。金曜日は午前中のみ開館しているため、飛行機の出発時刻ぎりぎりまで調査作業を続ける。関連する档案をすべて筆写するのは不可能であるため、主要なものを筆写・閲覧した後、最後に日本関係档案の全目録作りに挑戦する。

 日僑回国問題以外の档案としては、日中民間貿易協定関係や日中民間漁業協定関係、さらには日本からの様々な訪中代表団に対する接待工作に関する档案が公開されている。とはいえ、いずれの対日工作も外交部が主管したものではないため、草案や報告書の作成者は「〜臨時弁公室」や「〜連絡組」であることが多く、この時期の中国政府の対日政策機関やそれに付随する問題についてある程度知識が無いとなかなか利用価値を見出せないかもしれない。また、中央の文件が外交部に「抄送」されたものなどはほとんどなく、そのあたりに現在の档案公開の限界を感じる。

 何とか700件近い日本関係档案目録の採録を終えた。ハードな1週間であったが、成果は大きかった。そのままタクシーで空港に向かう。朝陽門からは25分ぐらいであった。ちなみに、中国滞在中で一番の出費は帰りの空港での昼食であった。街で2.75元で飲んでた青島ビールが25元!米飯が15元!「空港価格」とは良く言ったものだが、ちょっと高すぎるのではなかろうか。残念ながら空港が混雑していたため飛行機の出発が2時間ほど遅れたが、それでも満足の行く北京訪問であった。

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□2005年12月29日(木)

 資料調査4日目。終日档案閲覧。黙々と筆写す。昨日の大学教授は人海戦術に移行したらしく、院生らしき2名を連れて登場。3人がかりで筆写作業に取り組んでいた。とはいえ、档案には筆文字も多く、院生ではなかなか判読不能のものもあるようだ。度々教授氏に読み方を質問するものだから、果たして作業効率は良いのだかどうか...。

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□2005年12月28日(水)

 資料調査3日目。終日档案閲覧。3日目午後にして初めて私以外の閲覧者が登場。どこかの大学教授のようである。档案を閲覧して「GREAT!」を連発していた。良い史料が見つかったようである。

 確かに完全に電子化されているため、どこまで原本に忠実かは定かではない。スキャンした原史料の作成者名や「批」を消すことなど造作もないだろう。とはいえ、限界を有する史料でありながらも、やはり見れるようになった意義は大きいと思う。例えば「中国紅十字会連絡組」や「中国紅十字会接待日人臨時弁公室」、「中国紅十字会訪日臨時弁公室」など、これまで日本側史料からは窺い知れない中国側内部の組織機構の存在も明らかになり、人民政府の対日政策実行の過程が垣間見れるのは嬉しい限り。これまで想像の域を出なかったものが档案として目の前にある事実は素直に喜ぶべきだろう。

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□2005年12月27日(火)

 資料調査2日目。昨日の午後から档案閲覧は始めていたが、本格的な閲覧は今日からである。私の研究に関連する档案も少なからず公開されていた。歴史学的手法で研究を行なう者は誰でもそうだろうが、新たな資料に遭遇する瞬間は何とも言えない興奮と恐ろしさが交錯する複雑な感情に覆われる。特に日本側の外交文書を駆使してひと仕事終えたばかりの私にとってはなおのことである。事と次第によっては「全否定」なんてことも起こりうるかもしれないのである。これも中国を研究する者の宿命であろうか。

 しかし、恐怖は次第に興奮に凌駕された。うん、これなら胸を張って口頭試問に臨めそうである。遺骨送還問題や在日華僑送還問題、さらには日本人「戦犯」問題についても、中国側はかなり突っ込んだ档案を公開していると思う。いわゆる「戦後日中民間人道外交」は日本側の外交文書を中心に組み上げた構図であったが、中国側の外交档案でも、ほぼそれを裏付けられそうな感触を得た。いくつか極めて重要な档案を発見することができた。でも、この小さな档案の価値が分かる人はあまりいないんだろうな...。史料あっての研究であることを改めて感じることとなった。

 档案館は午後4時に閉館。冬の北京とはいえ、外はまだ明るい。建国門で1号線に乗り換えて西単へ。北京図書大厦で本を物色。確かに日本に比べて安いは安いが、これをスーツケースに詰め込んで帰国することを思えば、「書虫」さんへ注文した方が楽かも。あるいは東豊さんで雪崩に遭うほうが...。重いのは何とも...。帰りは気合いを入れて西単から崇文門まで歩いてみたが、次は絶対にやめようと思った。夕飯は坦々面(6元)と鉄鍋餃子(2元/両・・・この店は5個)。

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□2005年12月26日(月)

 資料調査初日。事前に「歓迎」とのメールを受け取っていたため、閲覧不可という事態は想定していなかったが、そこは行って見なければ分からない。朝7時半、崇文門から地下鉄2号線に乗って朝陽門に向かう。駅前の永和大王というチェーン店で「小ワンタン」と「油条」のモーニングセット(7元)を食べる。「小」とは言いながらも、決してお椀は小さくなく、小さいのは「ワンタン」である。香菜が効いた鶏系のスープは癖になりそう。寒い冬の北京で暖かいワンタンはたまらない。

 档案館は外交部の本部ビルではなく、その南側(建国門方面)にあるビル(南配楼)の7階。入り口には守衛さんがいるが、簡単な「登記」で問題なく入れる。問題はその後である。私は開館時間の8時30分ちょうどに档案借閲処の前に到着したが、5分経っても分厚い入り口のドアが一向に開かない。仕方が無いので弁公室でお茶を飲んでいた人にその旨告げると、「呼び鈴を押せ」との言葉。ドアの前に戻るが、いわゆる一般的な日本人が普通想像するような呼び鈴は無い。しかし、よくよく見るとドアに小さな小さな赤いボタン。これを押すと中からようやくスタッフが現れた。

 今回持参した紹介状は大学図書館長名義のものと指導教官名義のもの。ホームページの閲覧手続規則には中国大使館か「中国国際交流単位」の紹介状と自分の「所属単位」の紹介状が必要であり、なおかつ「閲覧の20日前に書面で申請して許可を得る」とある。事前にメールで何度か照会していたこともあろうが、手続き上の問題は発生しなかった。難しく考える必要はないようである。

 基本的な閲覧の流れは、まず検索用のパソコンで档案を検索して画面上でリスト・アップ。「提交」ボタンを押すと「情報入力画面」が現れ、これに諸情報を入れて再び「提交」ボタンを押す。この際、ピン音入力で閲覧目的や閲覧内容などを入力必要があるが、不慣れであれば英語でも良いだろう。この後、すぐ後ろにある窓口で閲覧1件につき5元を支払い、サインをして、隣りにあり閲覧室へ移る。おそらく档案はホストコンピュータから端末へ転送され、申請した分の档案を閲覧するために専用の6桁の数字のパスワードがひとつ交付される。これを隣りの部屋の端末に入力すると、申請した档案のみを閲覧することが出来る。ちなみに、申請した档案を一日で見終われなかった場合、その旨告げれば、翌日再び再申請なし(交銭なし)で閲覧することが出来る。ただ、この際のパスワードは前日のものとは異なるものが改めて交付される。

 もっとも、第1日目最初の仕事は档案の目録作り。とりあえず「日本」が関係する档案について目録を作成することにしたが、ざっと数えただけでも1949年(時には1947年)から1955年までの時期について700件弱の档案が存在する。さすがに時間に制限があるため、自分の研究に関係する档案のみまず目録を作る。それだけでも170件強。とりあえず写し切った。いよいよ档案の閲覧だが、それは2日目のお楽しみに...。

 初日のお昼は近くにある「真功夫」でランチセットを食べた。「蒸す」ことが最良の調理法であると自負する「真功夫」であるが、蒸した長粒種の白米はなかなか美味しかった。主菜の排骨(猪肉)が美味なのはもちろんのこと、寒い年末の北京では「烏骨鶏」の清湯が何より有難かった。夕飯は紅焼牛肉盖飯に海苔と卵のスープで合計14元。

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□2005年12月25日(日)

 北京出張。目的は中国外交部档案館での資料調査。2004年1月の档案公開以来、様々な情報が 飛び交ってきた外交部档案だが、その具体像についてはあまり情報が入ってこなかった。閲覧に必要な紹介状の問題を含め、一般の院生はどのようにすれば閲覧できるのか。また、具体的にはどのような档案がどの程度まで公開されているのか。どこまで研究に利用できるのか。1950年代の日中関係を研究する私としては気になるところであった。2004年夏の段階で日本関係档案がまだ公開されていないという情報を档案館のスタッフから得ていたため、博士論文での档案利用を諦めたという経緯があったが、その後さらに公開が進み、日本関係档案も公開されたとの情報も得ていた。博士学位申請論文に反映させられなかったのは残念だが、今後のことを考えれば、年末の慌しい時期ではあるが、お嫁様がまとまった休みを取れる今が訪中のチャンスだろう。

 今回は時間的な利点から中国東方航空を利用した。ホテルは新僑諾富特飯店である。北京駅から程近い崇文門の交差点の真ん前に立つホテルはネット環境がある。素泊まりで1泊6000円が安いのかどうかは別にして、集中して資料調査を行なうためにはゆっくり浸かれるバスタブのあるホテルが良いだろう。事前情報で档案の複写が1頁10元との情報もあり、5日間「筆写漬け」を想定してのことである。外交史料館で散々筆写した経験があることから、5日ぐらいどうってこと無いが、そこは何と言っても海外。体調管理は重要である。

 午後1時55分、無事に北京首都空港到着。リムジンバス(16元)で北京駅へ。そこから歩いて5分弱でホテルに到着。夕飯は牛肉面(6元)と豚肉瓶(3元)で簡単に済ます。何より嬉しいのは超級市場で青島ビールが1本2.75元ということ。日本円に換算すると30円ぐらいかしら。とはいえ、体調のことも考え、4本で我慢する。

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□2005年12月24日(土)

 息子が通う保育室のクリスマス・パーティーに出席。20年に1度の寒波到来といわれる日本列島だが、ひとりの欠席も無く大盛況のうちに終了。日頃、大事に大事に預かっていただいているだけでも感謝なのに、夕涼み会に続き、先生方が腕によりをかけてお料理からケーキまで用意していただき、「感激」の一言。次から次へといろいろなケーキが出てきただけでなく、息子とモト君のためにお誕生日ケーキまで用意してくださるとは...。

 もともと「無愛想」ということもあり、息子が生まれる前は地域社会との接点が皆無に等しい状態であった私だが、随分とこの1年間で得るものが大きかった。息子を抱っこして歩いていると、相手も話しかけやすいせいか、私のような「無愛想」なオジサンにも「あら可愛いわね」「もう何ヶ月?」と話しかけてくれる(もっとも、息子だけ見て話しかけて、私を見上げて顔が固まるおばあちゃんも多いのだが...)。話しかけられた以上、私も黙っているわけにもいかない。作り笑顔のひとつも出来るようになった。大変な成長である。

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□2005年12月19日(月)



ペンギンの散歩

 最北端(?)の旭山動物園。一昨日から始まった「ペンギンのお散歩」を見ることが出来た。もとより私は動物園などに行くのが好きだが、さすがに大人気の動物園だけに、展示の方法にも感心するところしきりであった。何しろ「角度」が良い。下から、横から、後ろから、前から、上から...。無論、こういう展示の方法は途中からできるものではないので、当初からの綿密な準備と大胆な構想を上に認めさせる現場のスタッフの方々の熱意がなによりも大事なのだろうが、実際やるとなると、なかなか難しいのではないかと思う。雪が多く、園内を充分に回るのには準備不足で、つま先が痛いぐらい冷たくなったが、それも良い思い出になった。奥のほうでは、新たな展示施設の準備を着々と進めているようだった。まずは雪のない時期に息子を連れて行きたい。

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□2005年12月18日(日)

 弟の結婚式に出席した。20年に1度の寒波が日本列島を覆っているらしいが、旭川は思いのほか暖かい。加えて、部屋の中などは東京よりも温度設定が高めなので、半袖のシャツ一枚でも額から汗が流れ落ちてくるぐらいである。普段以上にビールの量が増えたことは言うまでもないだろう。雪の結婚式もなかなか良いものである。

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□2005年12月16日(金)

 博士学位申請論文に関する口頭試問の日程が決まる。いよいよである。

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□2005年12月14日(水)

 最寄り駅から自宅に戻る途中にある新築マンション。いおわゆる「○歯」さんの設計によるものだそうです。案の定、耐震強度不足。確かに工事期間が短かったことも気になったが、それ以上に毎日毎日現場のおじさんやお兄さん達が大喧嘩をしていて、「こんな仕事できねぇ」だとか、「俺はもう帰る」など、尋常でない雰囲気だったのが印象に残っていました。まだ工事途中なのにエントランスのコンクリートの壁にひびが入っていたりとか...。今回の他のケースも、近隣の人は何となく「おかしいな」って感じていたんじゃないかな。

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□2005年12月12日(月)

 結婚5年目に突入。これから一年はさらに忙しくなりそうだ。

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□2005年12月11日(日)


 息子がもうすぐ最初の誕生日を迎えることから両親が一升餅を持ってお祝いにやって来た。先週は弟夫婦、その前は両親、そのまた前は嫁さんの両親など、休みごとに息子の顔を見にお客さんが来てくれるのは嬉しい限り。スタスタ歩く息子を見て両親は大喜び。機関車トーマスのブービーカーをプレゼントされた息子はたいそう気に入ったらしく、両親が帰った後も夜寝るまでず〜っと乗りっぱなしでした。

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□2005年12月10日(土)

 教官より厳しい指導を賜ったため、海外史料調査を実施すべく準備。研究業績をさらに高水準なものとすべく、残りの科研費を利用して中国は北京での史料調査を計画中。主要な調査対象は中国外交部档案館。近時、日僑回国に関する档案が一部公開されたとの情報もあることから、概要だけでも可能な限り早期に確認しておきたい。図書館長の紹介状やら大使館の紹介状など、準備するものも多いのだが、外国人ということなので仕方ないだろう。

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□2005年12月9日(金)

 国民党期中国研究会にて報告。やはり研究に専念しよう...。

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□2005年12月4日(日)

 出かける前には2、3歩しか歩けなかった息子が、中国から帰ってみるとスタスタ歩くようになっていた。わず4日間だけなのに...。

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□2005年12月3日(土)

 帰国。子供の頃は機内食も楽しみだったが、今はほとんど手をつけなくなった。年をとったのかなぁ…。

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□2005年12月2日(金)



清華大学にて

 清華大学。スケジュールを終えた後、西門から少し歩いたところにある家福楽へ。地下のレストラン街で紅焼牛肉麺と青菜炒めを食べる。かなり辛かったので体は温まったが、なんと言っても12月の北京。やはり底冷えする。ゆっくり散歩することもできず、タクシーで近春楼に戻る。

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□2005年12月1日(木)



天津名物「狗不理」

 午前中は「TEDA」(天津経済技術開発区)を視察。昨年、台湾訪問の際に数多くの最先端科学技術クラスタを視察する機会に恵まれ、台湾政府の経済振興国策に感銘を受けたが、今回の「TEDA」訪問によって、そのあまりの規模の違いに衝撃を受けた。深センや浦東に続く、いや、環渤海経済圏という視点からすればそれを大きく凌ぐ世界経済規模のエンジンとなる可能性が強い「TEDA」は、経済を専門としない私にとっても、今後の中国の経済的成長を想像させるうえで重要な基礎を与えるものであった。

 お昼は天津名物の「狗不理」でご馳走になった。午後は周恩来ケ頴超紀念間を視察した後、北京へ。北京では著名な経済金融研究者の方を囲んで「老辺」で夕食。アジア最大のショッピングモールは建物の奥がかすかに霞んで見えるほど広かった。

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