「In Heart」・第一話「関係」



 眩しい朝日。
 朝だ。
 階段を駆け上がる音。続けて、
 ガチャ。扉を開ける音。
「浩之さん、おはようございます、朝ですよー」
 かわいらしい声。マルチである。
 浩之は、ぬっとベッドから這い出ると、頭を掻きむしりながら
「あ、あぁ…」
 と、生返事をした。なにが起こっているか、分かっていないらしい。
「すっごくいい天気ですよー」
 カーテンを開けながら、マルチが嬉しそうな声を上げた。
 あ、朝なのか…、浩之は、上体を起こしながらのびをし
「あ…、おはよう、マルチ…」
 と、眠たそうな声で、マルチに答えた。
「おはようございますぅ!」
 マルチは朝から元気だ。ロボットには、低血圧とかは無いのだろうか?



 マルチが、元のマルチに戻ってから、もう一週間が経つ。
 優しい、あの、マルチに戻ったマルチは、失敗を繰り返しながら、それでもさすが学習型とあってか、思ったより速いペースで覚えることを覚え、今ではすっかり藤田家の家事全般をこなす様になっていた。
 相変わらず両親が不在の藤田家を、しっかりと管理しているわけだ。
「……」
 起きていつつも、黙りこくっている浩之を不思議に思ったマルチが
「?どうしたんですか?」
 と、心配そうに訊ねた。具合が悪いのかしら。
「…いや、もう一週間かと思ってさ…」
「なにがですか?」
「なにいってんだよ。マルチが戻ってからに決まってるだろ」
「あ…」
 すると、マルチはなにやら嬉しそうで恥ずかしそうな顔をした。
 おぼえてくれてるんだ。毎日考えてくれてるんだ。
 そんな想いがマルチの中に広がる。
 すごく、すっごく、嬉しいです、浩之さん…。
「早いもんだな…、幸せな時って、あっという間なんだな」
「…そうですね…」
「それまでが、長かったもんな…」
 マルチが切なそうな顔をした。
 マルチは、浩之が「長かった」という時間を知らない、わからない。
 彼女は、ずっと眠ったままだった。
 彼女に取っては、浩之の二年間は、一晩だったのだ。
「………」
 返す言葉がないマルチ。
 浩之の気持ちが分からない自分が切なかった。
 でも、その二年間の浩之の方がもっと切なかったのかも知れない、そう思うと、ものすごく申し訳ない気分が心を支配する…。浩之さん…。
「でも、これからも、ずっと一緒にいられるんだよな?」
 浩之が、いきなり、明るい声で言った。
「…!…はいっ!…えっ!?」
 いきなりマルチを抱き寄せると、浩之は、はにかみながら言った。
「なぁ、マルチ、あせってこの二年間を取り戻す必要なんて無いよな?だって、俺たちずっと、これからずっと、一緒だもんな」。
 浩之のぬくもり…。
 マルチのぬくもり…。
 ふたりのぬくもり…。
 浩之さん…。…嬉しいです…、嬉しいです!
「そうですよね!」
 マルチも元気に答える。
「これから、ゆっくり、ゆっくり、ふたりで想い出、作っていこうな」
「…はいっ!」
 抱き合うふたり。
 初夏の朝日は、そんなふたりを祝福するかのように、輝いていた。



 人気(ひとけ)のない大教室、大学の授業、心理学。
 四月ならまだしも、五月にもなって出席も取らない一般教養に出るヤツなんて、よほどのまじめか、物好きである。
 その教室に、あかりと浩之はいた。
 二年前、ある日から、突然浩之は心を入れ替えたかのようにまじめになった。
 そして、あかりと同じ大学に入学した。
 そう、二年前…。
 あかりはいまだに忘れられない、教室での優しそうな浩之。
 一体なにがあったのか…。
 …何となく、分かってる。
 でも、分かりたくない…。
 そんな日から、もう二年が経った。
 少し前、浩之がメイドロボットを買ったことを知った。
 モデル名「HM−12・マルチ」。
 そう、あの、高校に少しの間いた、あのマルチである。
 それを知ったとき、なにか、イヤな感情が自分の中に生まれた。
 生まれたのが分かった。
 そして、浩之は、また、二年前の浩之に戻ったかのようになった。
 …マルチちゃん。
 かわいらしい、メイドロボット。
 浩之の変化。
 偶然とは思えない。
 考えたくない、信じたくない想像が、浮かんでは消える。
 最近こんなのばっかりだね…、あかり。
 自分でつぶやいてみる。
 ちらりと隣をみる。
 いつもはいない、浩之がいる。
 ぐっすりと眠っているようだ。
 しかし浩之が、出てきてるのがおかしい。あかりも、不思議に思って聞いたのだ
「あれっ、浩之ちゃん、どうしたの?」
 と。
 すると、返ってきた答えは
「あー、マルチが起こさないでいいのに起こしてくれちゃってさー、マルチが行った方がいいって言うしさ。ま、暇だし」
 だった。
 …マルチちゃん…。
 …マルチちゃん…。
 考えたくない、信じたくない想像が、浮かんでは消える。
 最近こんなのばっかりだね…、あかり。



 その日の帰り、浩之は、駅前のスーパーの前でマルチを見つけた。
 両手に持ちきれないぐらい荷物を持っている。
 なにをそんなに買ったんだ?
 ま、いいか。
 浩之は、後ろからそっとマルチに近づくと、
「もってやるよ」
 といって、マルチの手から荷物を取り上げた。
「あ、浩之さん!…いいです!持ちます、わたし!」
 というマルチ。ずっと変わらないよな、こういうとこ。
「なぁ、マルチ、いいんだよ、俺が言ってるんだからさ。おまえ、初めて会ったときからそうだもんな、遠慮しなくてもいいんだよ」
「初めて…?」
「あれ、忘れた?学校でさ…」
「いいえっ、忘れるわけありませんっ」
 浩之の言葉を遮るようにマルチは言った。
 忘れる訳ないですよ…、浩之さん…。
 メモリーの、一番大切なところに、きちんとしまってありますよ。
 いつでも、思い出したいときに思い出せるように…、最初の想い出ですもの。
「忘れる訳、無いじゃないですか…」
 恥ずかしいからか、消え入るような声でマルチがいう。
「ん…、だろ、あんときもだよ」
 浩之も言ってから自分の照れくさい発言に気がついたのか、消え入りそうな声で言う。
「……」
「……」
 ちょっとした沈黙…。
「あっ」
 いきなり、浩之が声を上げる。
「?どうしました?」
 マルチが不思議そうに訊ねる。
「マルチだ…」
 前を、量産型マルチが歩いていた。
 人気モデルの彼女を町で見掛けることは、そうないことでもない。
 ただ、その目には生気はなかった。
 明らかに、このマルチとは違う。
「…マルチなんだよな、あの子も…」
「…はい…」
 マルチとマルチ。
 メイドロボのマルチ。
 みんなの目には、こうしてメイドロボットであるマルチと明るく会話しながら歩いている自分は、どういうふうに映っているんだろう、浩之は思った。
 そして、マルチは妹たちををどう思っているんだろう?
「……浩之さん…?」
 マルチが心配そうな顔で浩之を見ている。
 どうも、最近心配ばかりかけているみたいだ、気を付けないと。
「…なんでもない。ところで、晩飯はなんだ?」
「あ、はいっ、カレーにしようかと思ってます!」
「カレーか…、辛目におねがいな」
「はいっ!」
「最近、マルチ、料理うまくなったもんなー、やっぱり愛情かなー」
 軽い口を叩く浩之。
 顔を真っ赤にして俯くマルチ。
 それもあるけど、やっぱりマルチのがんばりなんだろうな。
 ホントにイイコだよな、マルチは。
 ぐっと、マルチの肩に手を回す。
 そして、浩之は自分の体に引き寄せた。
「あっ!」
 驚いて浩之を見るマルチ。
 黙って歩き続ける浩之。
 やがて、マルチはゆるりと体を浩之に任せてきた。
 吹き抜ける、優しい風。
 ふたりの髪をなびかせる。
 ふたりの影が重なる。
 そうして、ふたりは、ふたりで、ふたりの家へ、帰っていった。



 神岸家。
 こちらも、両親共働き。
 夜遅くまで、ひとりぼっち。
 さすがに大学生だから、つらいって事はないけれど、やっぱり寂しいことには変わりない。
 暗い部屋。
 ソファの上に、人が一人。
 あかりだ。
 どうやら、大学から帰ってすぐ、寝てしまったらしい。
「…ん、浩之ちゃん…!」
 がばっと飛び起きる。夢を見ていたらしい。
「…夢か…」
 力無い声。
 …浩之ちゃん…。
 …浩之ちゃん…。
 心の中でエコー。
 …浩之ちゃん…。
 …浩之ちゃん…。
 押さえきれない、気持ち。
 でも、押さえるしかない、気持ち。
 十年以上持ち続けてきた気持ちに対して、今の現実は、最悪ともいえた。
 きっと、浩之ちゃんは…。
 きっと、浩之ちゃんは…。
 それ以上は、考えたくないよ…。
 それ以上は…。
 言っちゃおうか、私の気持ち。
 そうすれば、すっきりするよ。
 結果が、予想通りでも。
 でも、言えるの、あかり?
 言える訳ないよ…。
 言っちゃおうか…。
 言える訳無いよ…。
 言っちゃおうか…。
 ぐるぐる回る、心。
 回り続ける、心。
 そして、心が、回転を続けていた心が、止まった。
 あかりの心の中で、なにかが決まった。



 数日後、家から駅前のゲーセンへバイトへ行く道中、近所の公園で、浩之はあかりに出会った。
「よぉ、あかり、元気か?どうした、こんなところで」
「……浩之ちゃん……」
 !
 浩之は、あかりの様子が変だと言うことに、気がついた。
 なにか、違う。
 いつものあかりじゃない。
「…どうした…?なんかあったのか?」
「…浩之ちゃんって、優しいんだよね…」
 あかりは、いきなりそんなことを言った。
「…?どうした?…やっぱりおかしいぞ、今日のお前…」
「…浩之ちゃん…、そうやって、いつも、私が困ってるときとか、気付いて、助けてくれるんだよね…」
 会話がかみ合ってない。
 変だ。
 どうしたんだよ、あかり。
 目が、潤んでる。
 泣いてるのか?
「…あかり…泣いてるのか…?」
「…浩之ちゃん…、…………私………私………」
「…あかり……?」
「………私………私……ひろゆ」
 !!!
「あかりっ!!」
 ビクッ。あかりが震える。
 トキがトマッタ。
 浩之は、気がついた。
 あかりは、あかりは、おそらく、俺に……。
 でも、聞きたくなかった、いや、聞くことは出来ない。
 その言葉だけは…。
 できないんだ…。
 ずっと、気付いてはいたけど…。
 俺は、俺は…。
「…浩之ちゃん…」
「あかり…」
 あかりの泣いたような声。
 震えている浩之の声。
 ふたりとも、声になっていなかったかも知れない。
「…浩之ちゃん…」
「あかり…」
 目を合わせられない。
 俯くふたり。
 一瞬のような永遠。
 永遠のような一瞬。
 そして。
 沈黙を破ったのは、あかりだった。
「………私…、マルチちゃんと、いいお友達になれるかな……………?」
 とだけ、言った。
 …ちがうよぉ、浩之ちゃん…。
 こんな事、言いたいんじゃないんだよぉ…。
「あかり…」
「………うっ……」
 目に、涙が溢れる。
 頬を伝う。
「……ごめん……」
「……なん…で……あ…やま…る……の……」
「……ごめん……」
 溢れでる涙。
 それを、止めることは、出来ない。
 浩之には。
「………うっ……」
「……ごめん……」
 これが、これが、これが…。
 得体の知れない気持ちが、浩之の中に生まれる。
 うっ…。
 なんだ、これは…。
 そして、再び、沈黙は、あかりによって破られた…。
 顔を上げる。
 一生懸命な笑顔で…、
「……じゃ…、明日、学校で……ね……」
 つぶやく。そして、
 振り向くあかり。
 走り出す。
 遠ざかる背中。
 追えない。
 追っちゃいけない。
 追えない。
 追っちゃいけない。
 夕焼けの中へ消えていく…。
「……ごめん……」
 立ちつくす…、その場に…。
 幼なじみからの卒業式…。
 友達への入学式…か。
 あかりは、そんなのを望んでいたわけじゃない。
 浩之は、知っていた。
 あかりが、恋人への卒業式を待っていたことを。
 しかし…、浩之の心は…。
「あかり……ごめん……」
 ………。
「あかり……ごめん……」
 ………。
「あかり……ごめん……」
 ………。
 浩之は、壊れたカラクリ人形のように、同じ言葉をひたすら唱え続けた。
 それは、あかりへの謝罪の念よりむしろ、自分を納得させるためのようだった。
「……ごめん……」
 ………。



 バイト中は、ずっと、ムズカシイ顔をしていた。
 バイトに、身が入るわけがなかった…。



 家に帰ると、エプロン姿のマルチが出迎えてくれた。
「おかえりなさい。おそくまで、大変ですねー」
「あぁ…」
 魂が抜けたかのような返事。
「どうします、ご飯食べますか?」
「いや、風呂にはいるよ…。飯はあとにする…」
「では、食事、暖めておきますねー」
 ぱたぱたと台所に向かって走っていく。
 いつもなら、「走るなよー、ただでさえドジなんだからなー」と言うところだ。
 でも、声が出てこない。
 脱衣所で服を脱ぐ。
 風呂場に入る。
 湯気で覆われた真っ白な世界。
 体も流さないまま、浴そうにはいる。
 風呂の中、半身だけ湯船につかりながら、立ちつくす浩之。
 浴槽に、波紋が広がる。
 マルチに聞こえないように。
 声をからして。
 少し泣いた。

続く



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