空の向こう側に

 
 なにを考えているかわからない空。そういうものがあるとしたら、きっと今日のような空を言うのだろう。のっぺりとして、どこを切り取っても同じピースができあがりそうな、そんな空だ。
 早秋の真っ青でどこまでも続いていそうな空を気持ちよさそうに赤とんぼが2匹、羽をせわしげに動かして飛んでいる。どこへ向かうのだろうか、指に止めて聞いてみたい気がする。だけどきっとこう言うだろう。気の向くまま飛んでいるんだ、と。
 と、少女の帽子のつば先に1匹、羽を休めに降りてきた。丸い、大きな複眼に真っ白な帽子の一部が映っている。傾げるように首を曲げ、羽を水平に伸ばし、飛ぶことを一時止めている。まるで精巧にできたブローチかバッチのようだ。
 そしてもう1匹、肩を、いや、羽を寄せ合うように止まった。互いに首を相手のほうにむけ、いかにも会話を楽しんでいるような風情だ。彼らにも人間のような会話はあるのだろうか。少女は自分の視線の先で起きている出来事に、想像をめぐらせた。
 やがて2匹は同時に飛立ち、細く長くたなびく雲のむこうへと消えていった。仲睦まじく見えた姿から、おそらくつがいなのか、つがいになるのかもしれない。とんぼの世界のことはわからないが……。
 少女は、秋風のはしりのような涼しい風をからだいっぱいに受けとめた。吹き上がってきた急な風によって、真っ白なつば広の帽子は、彼女の後方へと転がっていった。押さえようとした手をすり抜けて。
 「お嬢さま、お帽子が……」
 初老の男性が、後を追いかけて捕まえた。額にうっすらと汗をかいているのは、その作業が彼の体には少々酷だったからだろう。右手に帽子、左手にはしわくちゃな、男物のハンカチが握られていた。
 「ありがとうございます、小宮山さん。私のわがままでこのような場所にきてしまって」
 「いえ、不安になる気持ち、私もわかります。といっても、妻の受け売りですけど」
 手にしていたものを手渡しながら、整わない呼吸のままで言った。その顔は苦笑い気味だった。
 「亡くなった妻がそう言っていました。あなたとのお見合いのとき、私はとても不安だったのよ、と」
 言葉の終わりを待つことなく、少女の表情に翳りが差した。気の進まないことであることは、少女のとった態度を見ないでもわかる。まだ少女の頃合いを抜け出ていない、幼げな印象を彼女から受ける。それは容姿や格好からではなく、所作というのだろうか、たたずまいで、である。
 「お見合いといっても顔をあわせるだけです。正式な席への手続きなのでしょうね。そうでなければお爺さまがこのような格好でむかわせるはずがありませんから」
 「ですが、とてもお似合いですよ、若菜お嬢さま」
 とってつけたようなおべっかではなく、本心から彼はそう思っていた。だからこそ、少女の口元がようやくほころんだのだ。
 少女は真っ白で袖口が肘の先まであるサマードレスを身につけている。胸元はあまり開いていなく、首の付け根が見えるくらいで、襟元はきめこまやかなレースがあしらわれている。すそは膝を覆い隠す程度で、すっと伸びた足は、日の光を受けて白く輝いていた。
 受け取った帽子をかぶる。帽子の白さが、黒く長く伸びた髪を見事に映えさせ、彼女の魅力を増している。老運転手でなくても、彼女を褒め称えたくなるほどだ。
 若菜、そう呼ばれた少女は左腕の時計に目をやり、驚いたような表情をして、
 「あっ、待ち合わせの時間が!」
 小宮山も自らの懐中時計を慌てて確かめた。長身は短針が1の文字にせまろうとしていた。
 「ここからならものの5分ほどでつきます。ご安心を」
 「ですがお相手を待たせるわけにはいきません。それが礼儀ですから」
 彼はうなずき、後部のドアを開けた。軽く会釈をして乗りこんだ若菜を確認すると、静かにドアを閉め、自らは運転席のシートに収まった。
 重厚なエンジン音は、運転手と同じように古参の国産車だけが持つ歴戦の証だ。それこそ少女が生まれる前から綾崎家の一員となっている。彼女が座っているシートには、彼女を含めた家族の全てが座したことがあるのだ。
 彼女はこの車が好きではなかった。左隣のドアが閉められるたび、自分が他人になってしまうような気がするからだ。いわば、彼女を隔離するための厚い鉄扉であった。いくら友達を作ろうとも、その子と一緒には帰れない。いつもこの黒塗りの檻が校門の前で待っていて、重々しいドアの閉まる音が少女の耳に深く刻まれていく。縮めきれない距離を思う心の傷とともに。
 だが、いとも簡単にその隙間を飛び越えた友人、いや、彼女にとって特別な存在となった男の子がいた。
 「私は、あの方を裏切っているのだろうか……」
 その少年を想う気持ちに偽りはない。逢う回数を重ねるごとに気持ちは強くなる一方だ。
しかし抱いている感情とは裏腹に、こうして祖父の言い付けを守り、お見合いをしようとしている。自らの気持ちを心の片隅においやって。
 悩みはつきない。自らの素直な感情、相反する祖父の言い付け。どちらもかなえようともがく自分。綾崎若菜が2人いれば容易に片がつくかもしれない。
 「でも、私は1人しか存在しない。綾崎若菜は、綾崎若菜だけ……」
 流れるように後方へと動く窓の外の風景を眺めながら、深いため息とともにひとりごちた。最近、ため息の回数が増えたような気がする。そういえば少年が言っていたような気がする。ため息をするごとに幸せが逃げていく、と。
 バックミラー越しに小宮山は少女の表情を見ていた。まるで雨を運んでくるような、どんよりと曇った空のようだった。
 お悩みのようだ。彼は幼少のころから知っている少女の感情の機微を、自らの娘のように理解していた。本当に嬉しそうな笑顔を見せ始めたのはこの春からだった。理由は薄々だがわかっている。
 「あと少しで到着します。準備をなさってください」
 「はい」
 気のない返事のように聞こえた。心はここにあらずだろう。
 無理もないことだ。小宮山は心中を察してあまりある。まだ10代の女の子が一生を定めてしまうやもしれない舞台に上がらねばならないのだ。これまで生きてきた年月の4倍近くも続く未来を。
 自らで決めるならばよい。だが、この件は祖父の希望の色が濃い。少女の、若菜の気持ちはいったいどうなのだろうか。使われる身分の人間が踏みこむ領域ではないだろう。理屈で納得しても、感情は諾といって首を振ることができない。人は理屈ではなく、感情によって生きている生物なのだから。
 運転手の表情から考えを読み取ったのか、若菜は小さいながら声で彼の悩みに答えた。
 「お爺様の期待、私は理解しています。ですから、これは、お爺様だけのご意志ではないのです。私も、了承したことですから……」
 言葉の内容はしっかりしているが、いまひとつ納得できない。納得したくないという感情が阻害しているからだ。
 「さしでがましいかもしれませんが、私は若菜様がご本心で言っていないと思えます。なにか思うところがおありではないですか?」
 「いえ、そのようなことは、なにも」
 「でしたら、私の思い違いかもしれません」
 わずかながら言葉の端々に苛立ちが見え隠れしている。語尾も強く否定するような口調だった。
 なぜそこまで自分を犠牲にして、祖父の考えを受け入れるのだろうか。自らの幸福よりも、他者の意思を優先するのか。控えめ、奥ゆかしい。過去から現在に至るまで日本では美徳とされている言葉だ。すばらしいことだと思うし、誰しもが持っていて欲しい。
 しかし、過ぎれば害にしかならない。酒や嗜好品と同じで、所有者だけでなく、周りのものにも被害がいってしまう場合もありえる。自らを抑えてまで他人を幸せにしても、いずれかは壊れてしまうのだ。そのとき、後悔するのはきっと抑えこんでしまった側なのだ。どうして、あの時自分の意志をとおさなかったのかと後悔する。悔いても時は戻らない。時の流れは、全ての人にとって無常なのだ……。
 幸福とはなんなのだろうか。手にした途端、それは日常と変わらないものに変化してしまう。ごく当たり前の光景、普通の事柄へとなる。ひょっとすると、懐に入るまでの時間が一番幸せなのかもしれない。さまざまに空想し、夢想している様がほほえましい。砂浜に描かれた楽園のような、踏みこんだときから乱れ、やがて波や風によってなくなってしまう。儚いものかもしれない。
 「人は、永遠に幸せになれぬ生き物かもしれない。だからこそ、幸福を求めてさまよっているのだろう。いや、手にしていても気づかぬだけなのかもしれません……」
 「いえ、人は常に幸せを感じて生きています。もし、探求だけが目的で生きているとしたら、やがて投げ出してしまいます。ほんの小さな幸せを積み重ねることで、私たちは毎日を過ごしていると思います。私はこうして小宮山さんとお話している時間も幸せですよ」
 「いやいや、老人をからかってはいけませんぞ」
 「本当です」
 「―――――ありがとうございます。若菜様の言うとおりかもしれませんな。私も今、幸せをひとつ積み上げましたからな」
 目の前がにじむ。灯る赤信号が歪んで見えた。真っ白な手袋の指先で下まぶたをひとこすりし、照れ隠しのため笑った。
 「いやいや、年をとると涙腺が緩んでしまいますぞ。若菜様もゆめゆめお気を付けください。といっても当分先のことでしょうが」
 照れ隠しか、つまらぬ冗談で場の雰囲気を変えようとした。とはいえ、この涙に偽りはない。後ろ向きな自分に、若菜の心からの言葉は澄んだチャペルのような心地よさを感じた。
 と、無粋な音が彼の耳朶を打つ。慌てて前方に注意をむけると、信号が青に変わっていた。急いでクラッチを踏み、ギアをファーストに入れる。よどみない動作が彼の運転暦の長さを感じさせた。
 数分もしないうちに車は目的の場所についた。大きなエントランスの前に車を止め、小宮山は車を降り、右後部のドアを開けた。若菜が感謝の意をこめた会釈を微笑みで受け、いってらっしゃいませ、と言った。
 そのとき、彼の目に映ったのは困ったような、いわく言い難い表情をした若菜の表情だった。先程、車を降りていた理由は気持ちの整理をつけるためだったのだろう。だが、今の様子からして、決断しかねているのがありありとわかる。小さくなっていく背中を見ていると、胸が張り裂けそうなほどせつなくなってきた。
 「若菜様の胸の中には、決めた方がいらっしゃるのだろうか……」
 車を駐車場にまわしながら、ふとそう思った。だとしたら、この話はよけいに彼女を苦しめる結果となるだろう。気の進まぬ理由、その正体こそが彼の感じたものそのものだった。
 自分がそう感じたところで、解決になるのだろうか。答えは否だ。若菜自身が気づき、自らで行動を起こさぬかぎり、形として外には現れない。結局のところ、綾崎若菜という18才の少女の気持ちしだいということだ。
 むごいことだ。小宮山は人生の4分の1しか過ごしていない少女に、決っするに難い判断が課せられている姿は、正しいものでないと思えた。それが、期待の度合いが大きいとなると、よけいにつらく見える。
 自分で重たくしてしまった車内の空気が嫌になり、ドアを開けて外に出た。冷房は切ってあったが、残りの冷気が肌にまつわりついていたために涼しかったのだが、車外に出た途端、残暑の名残によって一掃されてしまった。迫りくる暑気に肌は急激に汗をかき、体温の調節をしようとする。そのためにワイシャツは肌に張り付き、不快感をおよぼした。
 と、空を見上げると、南天をすぎた太陽はいっそう激しさを増していた。これからもっと暑くなるだろう。雲はひとつもなく、澄み切った青さだけが目に染みる。どこまでも、永遠に続いているように思える。そんな空だった。
 
 同じ頃、若菜も窓越しにではあるが小宮山の見つめている空を見ていた。京都市街を一望できる場所から、地平線まで続く街並みと、その上部を覆い被さるように広がっている真っ青な空を、考え込むような表情で見つづけていた。
 「この空の向こう側に、あの方がいるのだろうか……」
 なぜ急にそんなことが頭に浮かんできたのかはわからない。しかしひとつ言えることは、少年のことしか考えられない自分がそこにいることだった……。

「薄紅の季節」

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