薄紅の季節

 
 見事な枝振りだ。年月という名職人の腕の冴えと、気まぐれな気候の合作といえる。おそらく同じ種の桜が何本あっても、これと寸分たがわぬものはお目にかかれないだろう。奇跡などという言葉でかたずけたくはないが、その言葉が実感できるよい見本だった。
 「綺麗……」
 言葉はいらない。すばらしいものを伝える手段はたったひとつ。飾らぬ言葉で相手に言えばいいだけだ。余計な美辞麗句はかえって対象を安っぽくする。
 京都には桜の名所とうたわれている場所が数多くある。これは日本全国各地も同じことが言えるが、人を集めるという面では、他の都道府県には劣らないはずだ。東京にある上野恩賜公園は別格だが……。
 「あれは桜を見るところじゃない。酒を飲んで騒ぐところだ」
 そう酷評する人物もいるが、あくまでもマスコミの報道が夜の騒ぎだけを放送しているだけであって、常にあの状況であるとはいえないだろう。強く否定できないのが、なんともいえないところなのだが。
 「花より団子、そんな言葉はもったいないよなぁ」
 「でも、お団子を持ってその言葉に説得力はないですよ」
 「あ、ばれたか」
 少年の手には数本の団子の串が握られている。焦げたしょうゆの匂いが香ばしく、食欲が腹の底で怪気炎をあげそうなほどだ。
 「そこの屋台で僕のほうに悲しげな顔をするんだよ。君に食べてもらいたいって」
 「そ、そうなのですか?」
 「う〜ん、綾崎も片棒を担いでくれないかな?僕一人で罪の意識を背負うのはつらくって」
 そう言って二本ほど差し出した。ちなみに反対の手で持っている串の半分は彼の口の中に納まっている。言葉ほど罪を感じていないことは行動でわかるというものだ。
 一瞬の逡巡、若菜はかぐわしい香りに白旗を振り、少年の手から団子を受け取った。手を伸ばし、串を掴もうとした。が、余っている部分というのは指一本分もなく、自然と手と手が触れ合ってしまう。
 明治時代の男女でなければ起こさないようなリアクションをとってしまった。軽く触れただけで頬を赤らめ、おずおずと手を引っ込めた。どうして男性の手に触れるだけでこんなに恥ずかしいのだろうか。若菜はわけもわからず赤面してしまう。
 「どうしたの、綾崎?あんまり冷めると硬くなっちゃうよ」
 そんな若菜の気持ちをまるで理解しない少年は妙に間延びした声で言った。鈍感とか、配慮が足りないというレベルではなく、たんに意識していないというだけだ。彼にとっては自然なのだ。若菜と違って。
 「いえ、その……」
 無理もないかもしれない。始めて約束して二人だけ出会うのだ。若菜にとって少年とこうして過ごす時間は夢のようでもあるし、急に訪れてしまった感もある。心の準備はしてきたつもりだ。それでも、面と向かっていると自分でもなにをしていいのかわからない。まるで新人選手のように浮ついてしまっている。いままで言葉がすらすら言えただけでも奇跡のようなものだった。
 心臓の高鳴りは先程からやむことを知らない。これ以上強くならないことを願うばかりだ。ひょっとすると少年に聞こえるほどの音量をしているかもしれない。
 若菜にとって同年代の男性と一対一で会う経験はほとんどない。名門の女子高に通っていることと、箱入り娘にしてしまっている祖父の存在のためだ。彼女にとって彼の存在は、天守閣前の櫓か、鉄門のようなものだ。
 今まではそのことは気にならないことだった。言ってしまえば男女交際など半ばあきらめていたからだ。許嫁といおうか、婚約相手のような人がいるようなことを祖父から聞かされていた。それなりの家柄の人らしく、祖父はことあるごとに、若菜に言うのだった。女は家を守り、男性につくすことをよしとすべし、と。古くから日本の女性はそうしてきたのだ、とも。
 そういう教育やしつけを子供の頃からされてきたので、違和感を感じない。昨今の女性は祖父の言葉と正反対の道を歩むことを好んでいるようだが、どちらも間違いとは言えない。価値観の違いなのだ。そういうものは正解、不正解ということでは割ることのできないものだ。
 ではどうして自分はこの人と会っているのだろうか?祖父への反発、異性へのあこがれ、それとも彼だからか。おそらくどれでもないような気がする。しいていえば思い出への回顧だろうか。少年といるとあの六年前のことを思い出せる。自分の生きてきた年月の中で一番輝いていた時間。淡く積もった思い出が始まった瞬間……。
 「綾崎、綾崎。どうしたの?」
 急に声をかけられ、はっとなって振りかえると、心配そうな顔をした少年が右手にお団子を携えたまま、自分の顔を見つめていた。
 「えっ、あ、なんでも、ありません……」
 「そう、なんでもあるって顔をしてるんだけど」
 どんな顔がそうなのか想像もつかないが、ぎこちなくだが彼の心配を払拭できそうな表情を探した。
 「本当になんでもないのです。ただ……」
 「ただ?」
 「ひさしぶりにあなたにお会いしたもので」
 「え?十日前に会ってるよ」
 「あのときは急でしたから。お会いしたというより、会わされたという感じで」
 「う〜ん。そういわれればそうかもね」
 そのときのことを思い出したのか、少年は首をすくめた。よほど恐ろしい目にあったのだろう。
 ときおり吹く風によって枝先についている花びらが数枚、風に乗って離れていく。どこにたどり着くかは風に聞かねばわからない。地面に落ちてしまうものもあれば、思いもよらぬ先に落ち着く花弁もある。そんな気まぐれによって薄紅のかけらが少女の黒髪にまつわりついた。
 春は出会いを多くもたらす季節。寂しいほどの別れの後には再会や新たな出会いが待っている。心に空いた隙間を埋めるのは、いったいなんなのだろうか。たとえ一度ふさがったとしても、やがてはがれてしまう。人は出会いと別れを繰り返して生きているのだ。もちろん、生涯をともにする人もいる。永遠に会わずに終わることもある。であるとすれば、一度たりとて出会えたことは幸運だといえるのではないか。そう、一握りの砂の数よりもいる人々のなかで、めぐり合った……。
 運命、言葉にするとやけに重たくも思え、たった四文字しかない言葉でかたずけられたくないという気持ちにもなる。不思議なものだが、これほど評価のわかれる単語もめずらしい。それは、世の中でこの言葉を安易につかう輩が多いせいかもしれない。決まってどうしようもない連中であるのが、運命の不幸なところだろうか。
 「来週にはこの桜も散っちゃうんだろうな。はかないよなぁ」
 結局全ての団子を胃袋に収めると、ごみ箱に串を捨てた。その後の手の動きはおなかのあたりをさすり、満腹であることを態度で示した。
 「ん、満足満足」
 若菜は嬉しそうな顔をしている少年の顔を見ていた。彼はどうして自分に会いに来たのだろうか。やはり懐かしさからなのか……。
 彼女にとっての少年の存在、それは彼女自身掴みかねている。さまざまな思いが頭の中に浮かび、まるで泡のようである。同じ考えが何度も何度も現れては、否定と肯定を繰り返しながら消えるのだった。
 私は、あのときの気持ちをまだ覚えている。もし、このまま会いつづけていけたら、いつかきっと明確に答えが出るはずだ。そのときまで、そのときまでこの人は私と会ってくれるのだろうか。
 振りかえって枝垂桜をかえりみる。来年も、その姿でありつづけて欲しい。美を誇る素晴らしい姿で……。
 
「ほんのちょっとのすれ違い」

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