シンデレラ・エクスプレス
流線型の車両が風を伴ってホームに滑り込んでくる。昭和の高度成長期以降、人々の足となって各都市を結んできた夢の超特急、年を経て、形を変え、速度を速め、数々の思い出を作り、運んできた。どれだけの人が想いを託してきたのだろうか。彼は言葉を知らない。ただ、多くのものを見つめつづけてきた。人々の想いの結晶、それが東海道山陽新幹線なのかもしれない……。
「今日は楽しかったよ、若菜。次の約束はできないけど、また京都にくるから……」
「私もとっても楽しかったです。あなたとこうして過ごせただけどもでも」
後半の言葉は口には出さずに心の中だけにとどめた。言おうとしたけれど、口が開いてはくれなかったからだ。
彼らがいるのは地下鉄のホーム、天井から釣り下がっている電光掲示板には次の列車が来る時刻が記されていた。発車したばっかりなのか、到着時刻は10分後となっていた。ほかの利用客の姿はまばらで、数えるのがたやすかった。
京都には2本の地下鉄が走っている。ひとつは南北を貫く烏丸線、もうひとつは東西を結ぶ、その名も東西線。彼らが乗ろうとしているのは烏丸線で、国際会館駅から京都駅を経て、竹田駅までの全長13.7kmのややこじんまりとした路線である。ただ、慢性的ともいえる京都の道路事情を加味すると、便利であることに違いはない。
なにか話しかけようとした若菜だったが、遠くを見つめるような少年の横顔に戸惑いを感じた。なんと言えばいいのだろうか、別のことを考えているような感じだ。つい先ほどまで自分と、自分と過ごすことしか考えていなかったであろう。そういう真っ直ぐな感情を若菜は感じ取ることができた。
もう出会って八ヶ月ほど、少年の不器用さを知らないではない。かくいう若菜だとて、男女関係に関してはうぶといってもいい。最初に好きになった人がこの少年であり、今まで想い続けてきたのだから。
そんな若菜にも少年の不自然さはわかった。
「なにを考えておいでですか?」
そう聞けたらどんなに楽だろうか。こんなとき自分の奥手な性格が嫌いになる。あらわすことのできない感情が邪魔でしょうがない。身勝手になれない自分は、女性として魅力がないのだろうか……。
つくすだけが女性の仕事ではない。そうわかってはいても、祖父に叩き込まれた女性としてのあり方が彼女の足枷となっている。常に冷静で、おしとやかということは反面、自分の感情を出せないでいるということだ。物事にはよく見える面とその逆の面がある。二律背反にさいなまれて人は過ごしているのだろう。
息苦しさを感じるのはここが密閉された空間であるということより、二人を包む空気が重いからである。
「―――――若菜」
「はい」
「いいや、なんでもない」
「はい」
なんと言えばいいのか、やりきれない。それは若菜だけでなく、少年も同じ気持ちでいることだろう。言葉にしない感情がコンクリートの空間に飛び出し、行く当てもなくさまよう。糸の切れた凧のように……。
女性の機械を通した声が列車の到着を告げる。風圧が左から押し寄せ、同時に金属がこすれあう音が耳をつんざく。駅の両端に広がる暗闇を二本の光の筋が貫いていく。ステンレスの車両がホームに体を休めた瞬間、乗客が押し出されるように階段へと歩き始めた。
「さ、乗ろう」
「はい」
先ほどから自分が返事しかしていないことに気づいた。押し殺した感情の切れ端のように思えた。不器用なのは彼だけではない、自分もそうなのだろう。テレビドラマのようになんでも言いあえるのが恋人同士というなら、自分たちはそこまでいってはいないのだろう。
では今の関係はいったいなにか?友達だろうか、思い出だけでつながっているのか、それ以外のものなのか、考えるたびに答えは手から遠ざかっていく。掴もうとすればするほど、自分とは縁遠いものになった。
単調な走行音が車内に響く。ときおり窓の外に顔を向けるが、見えるのは灰色の外壁だけ。自動ドアのガラスに映る自分の顔は、暗く沈んだものだった。
少年も若菜の姿を見てはいない。彼もまた、無機質なコンクリートの壁を見ているだけだった。視線はその先を見つめている。さまようような動きではなく、一点を見据えていた。
急に警笛がなった。驚いて前を見ると、びっくりと言う言葉を顔に貼り付けた少年の間の抜けた表情があった。
おかしくなってふきだした。笑い声とともに、今まで思いつめていた気持ちが若菜の体から出ていった。そう、悩む必要などない。今、こうしてこの人と会えることだけでも幸せじゃないか。今まで会えなかった六年間に比べれば、ほんの数分のすれ違いなんて乗りきれるはず。
「よかった。若菜が暗い顔をしていたから、話しかけずらかった。やっと笑ってくれたね?」
「そうでしたか?それだと私は気難しいお嬢様だと思われてしまいます」
「ははは、違ったっけ?」
「そんな……失礼です!」
冗談だとわかっていたが、わざとのって怒ったふりをした。
「え、あ、そ、その、ごめん。君を怒らせるつもりはなかったんだ」
「………」
唇を軽く尖らせ、きつい視線を向けて後、そっぽを向いた。まさに機嫌を悪くした女の子の模範的な演技だ。見えないように少しだけ舌を出すのも忘れない。おそらく級友から借りた少女漫画の効果だろう。
「わ、わわっ!機嫌直してよ、若菜。謝るからさ、このとおり」
どうやら彼は本気にしてしまったらしい。めったに怒らない若菜だからこそ成功したとも言える。もっとも、これは少年の正直さが加味されてのことではあるが……。
「反省、してますか?」
「もちろん!海よりも高く、山よりも深く……あれ、逆か?」
思わず頭を抱えたくなった。怒る演技をする気力をなくすほどの言葉だった。
「い、いやだなぁ、そういう顔で見ないでよ。じょ、冗談なんだからさ、ははは」
とほほ、としか表現できなさそうな表情で笑っている。情けないという言葉が日本で一番似合いそうな、そんな姿だ。
「それではお詫びとして夕御飯でもおごってくださる?」
そう言えれば本当にわがままなお嬢様になれるのだが、若菜は笑って、
「私も冗談でしたから、おあいこですね」
そう言って彼を許した。だいいち本気で怒ってはいない。だからといってすべてを冗談で済ませる気もなかった。彼のことで不安な気持ちがこの使い古されたショートコントの中に含まれていた。
微妙に揺れ動く女心、おそらく男は一生をかけても理解することはできないだろう。それができるとすれば、その人物は生涯女性に困らないか、女性の難しさから逃れるために山にこもってしまうに違いない。だから世の中は面白いのだ。ともに対照的な相手を理解できないからこそ、互いを求め合う。男性か女性が滅びぬ限り、永遠に続いていくはずだ。
「京都、京都。JR線、市バス……」
車掌の車内アナウンスに気がつき、慌てるように下車した。少年の片足が点字ブロックについた瞬間、ドアが軽い空気音を残して閉まった。
「間半髪!!」
残っていた右足を左足の脇につけ、体操選手がフィニッシュを決めたときの格好をして言った。
「そうだ、ご飯食べていこうよ。お詫びとしておごるからさ」
少年は左腕の腕時計を見ながら提案した。
「嬉しいのですけど、もう帰らねばなりません。きっとお爺様がおかんむりでしょうから……」
少年に言われて若菜も時計の文字盤に視線を落とした。彼女の腕時計は国産のブランド品で、それなりの値段がする。巷にあふれている女子高生が身分不相応の海外ブランドなどを身につけているが、彼女の腕にはまっていると、その違和感は消える。やはり、気品や雰囲気が伴ってこその高級品であろう。それを理解できれば、身につける価値が生まれてくるのだが……。
普通の高校生ならばこれからが本番という時刻だが、綾崎若菜にとっては今の時刻がタイムリミットとなる。不意に少年の脳裏に竹刀を持って玄関前に仁王立ちとなっている若菜の祖父の姿が浮かぶ。それだけで彼の背筋も伸びた。
「そうだね……じゃあさ、新幹線ホームまで付き合ってくれないかな?」
「はい、そのくらいなら。それではまいりましょう」
地下から新幹線ホームに行く間、若菜は公衆電話で家に連絡をとった。どうやら迎えの車を呼んでいるらしかった。
「来ていただく時間を一時間後にしてもらいました」
「怒られなかった?」
「もう、なれてしまいました」
少々誇らしげな表情だ。少年としては誉めるわけにもいかないし、かといって苦言を呈せるわけでもない。なにせ自分が彼女を変えた第一原因なのだから……。
ありきたりのジャパニーズスマイルで返答に変え、とってつけたように、
「おいしい駅弁でも買おうかな」
などと言う。どうもこのへんが彼の憎めない一面である。
夕刻を過ぎ、夜の帳が完全に降りきって空には晩秋の星空が空いっぱいに瞬いている。新月のためか星たちはめいめいに輝きを発し、宇宙の深遠さを演出していた。
新幹線ホームは駅の高い位置に配されており、眺望はすばらしい。ドラマや旅行番組などでよく目にする東寺の五重塔も夜の闇の中にそびえている。列車の警笛が下のほうで響く。いやがおうにも旅情を掻きたてられた。
少年の右手には旅行用というには小さすぎるトートバック、左手にはビニール袋に包まれた長方形の箱がある。どうやら先ほど口にした駅弁であろう。
「あの、こちらは私から……」
若菜が手渡したのは温かい缶入りのお茶である。冷めぬように厚手のハンカチにくるまれている。彼女の気配りが施されていた。
「あ、ありがとう。大切に飲ませてもらうよ」
「大切に飲む、のですか?」
「うん、大切に」
いったいどういう意味なのだろうか?若菜は言葉ではなく表情で問いかけた。
ややあってそれが冗談であることに気づき、思わず微笑む。
「まもなく…番線に上りひかり258号東京行きがまいります。白線の……」
駅員のアナウンスが列車到着を告げる。ヘッドライトから伸びる白い光線が、剣のように闇の幕を切り裂く。轟音と評するのが一番当てはまるような音を響かせ、京都駅のホームに白と青の車体を横づけた。多くの人々を魅了しつづけた流線型は時代が移り変わっても、その姿の美しさと誇りを保っていた。
「それじゃあ若菜、また」
「はい……」
タラップをあがって振り返る少年の顔を見た途端、言おうとしていた言葉は彼女の口から出てこない。なぜかうつむき、口を閉ざしてしまう。見つめるコンクリートの床がみょうにまぶしかった。
発車ベルは無常にも二人の別れを告げる。抜けるような空気音とともに少年が語りかける言葉がじょじょに小さくなる。
はっと顔を上げたときには二人を隔てる壁となって1枚のドアが存在した。その隙間ともいうべき窓ガラスごしに少年は、若菜にむかってなにか言っている。それは若菜にとって無音映画のワンシーンのように映った。
「また、くるから。このハンカチを、返しにくるから!!」
そう言っている。だが、若菜の耳には届くことはない。離れていく距離と、ほんの10数センチの金属板が少年の気持ちを留めてしまっていた。
左胸の前で手を合わせ、押し付けるように押さえ込んでいる。真っ白な手のひらに、強烈な鼓動が伝わる。こうして押さえていないと、勢いで心臓が飛び出していってしまいそうなほど。
せつない、今まで味わったことがないほどせつなかった。どうしてなのだろうか、どうしてこんなに息が苦しいのか。嗚咽に近い声が口の端からこぼれる。そう、今泣いているのだ。
私は泣いているんだ。若菜は両手で眼を覆った。冷たい感触が手のひら全体に広がる。ふさいでいる隙間からひとしずく、ふたしずく涙の結晶が落ちていく……。
別れることがこんなに悲しいことだとは知らなかった。それが一時的なものであっても、再び会えるとしても、今の自分には堪えられない。どうしていつも一緒にいられないのか、そばに寄り添ってくれないのか。
わがままなのはわかっている。それでも、こんな想いをするくらいなら、わがままだと思われたほうがいい。身勝手と言われてもかまわない。
これが今の気持ち、いや、綾崎若菜が、私がずっとあの方に対して抱いている気持ちなのだ。
気がつかなかった?違う。わざと目をそらしていた。そうすることが怖かった。
あの方を想っていることが?そうじゃない。またあのことが繰り返されるような気がしたから。好きにならなければ別れることは悲しいことではない。そう、品物が誰かに買われたって、欲しくないものなら悔やんだりはしないのと同じだ。
今は違う。今ならはっきりと言える。私はあの方を好きになっている。心の中の大部分を占めている。こうして会えない時間がつらい。いつだって声を聞いて、顔を見て、笑っていたい。
顔を上げた若菜の目には涙の輝きはない。迷いのない、気持ちを固めた武道家のような表情だった。
出会うということは、同時に別れもついてくる。出会えた喜びとともに、別れの悲しさも体験しなくてはならない。笑顔の時間はやがて、悲しみの涙へと変化する。二人の距離が遠ければ遠いほど、互いの気持ちが近ければ近いほど……。
走り去った新幹線からむせび泣くように汽笛が鳴る。それは真っ白な霧の海で響く霧笛のように……。