憬文堂
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 美神の憂鬱 

仲秋 憬






 若くして天才の名を冠された芸術家、三原色のアトリエを兼ねた私室に入室を

許される人間は少ない。

 色の才能をいち早く認め、子供の頃からすべての作品を管理している画商でも

ある男は、その数少ない許された一人だった。

「やぁ、三原先生。スランプなんだって? 天才にもスランプがあるなんて知ら

なかったよ」

「……うるさいな。何のつもり? ボクが“先生”って呼ばれるのが大嫌いなの

を知ってて言うってことは……怒らせたいわけ?」

 長い巻き毛が縁取る端正な美しい顔。まるで異国の王子のような風貌で日本人

離れしている色は、ゆったりとしたドレープが見事なクリーム色のブラウスに細

身の黒いスラックスという、並みの日本人男性にはとても着こなせない、ロシア

のバレエ・ダンサーかフィギュアスケート選手を思わせる衣服を身にまとい、日

光が射し込む部屋の中央にある長椅子に怠惰に横たわったまま、男の顔を見るこ

とさえせずに、言った。

 だが、色の不遜な態度が、男を躊躇させるようなことはなかった。色とは対照

的にきっちりとしたスーツにネクタイという出で立ちの男は、後ろ手に部屋の扉

を閉めると、色の背中に向かって、話を始めた。

「ニューヨークの方が、まだかまだかとうるさいんだよ」

「急いても芸術は生まれないって言えばいい。本物を望むなら百年でも二百年で

も待つべきだ」

「言ってあるさ。それでも待ちきれないんだろう。自分の命が尽きる前に我が手

にしたいと思うのが人情というやつさ。……ここまで、ずいぶん待ったんだから」

「……こっちが頼んでるわけじゃない。待てないのは向こうの勝手だ」

 色は不機嫌をあらわにした。

「……大体、ボクはボクの作品を個人に所有されるのは好きじゃない。芸術を独

占しようなんて浅ましいことだ。美しいものは……真の芸術は開かれたものであ

るべきなんだ……独り占めは許されない……独り占めは…………」

 色はそこで言葉をにごして、物思いに沈んでしまった。

 男は構わずに話を続けた。

「そりゃあ私も君の作品をできるだけ君の意図に合うところへ渡るように努力は

しているけれど、この世界は、コレクターというやつもおろそかにできないんだ

よ。芸術を金に換算するのは愚かなことだと、君は思うだろうが、実際、芸術だ

けで生きていくことはできない。君はたまたま、そういうことを考えずにすむ環

境に生まれたけれど、君の価値を下げないためにも、今後の活動をできるだけ、

たやすくするためにも、必要悪と聞き分けてほしいね」

「……ボク自身が芸術であることは、ボクが選んだことじゃない」

「わかっているよ。だからこうして待っているだろう? 君のミューズの降臨を」

 色はむっつりと口を閉ざした。

「それにしても、君らしくないじゃないか。こんなことは初めてだろう。別に何

を描けと強制したわけでもない。できれば人物で、というくらいの注文で、何故

こんなに時間がかかっているんだい? 放っておいても何か描かずにいられない

君が、まさか本当に何も描いてないわけじゃないんだろう? 絵を描くことが、

息をするのと同じな君が」

 色は返事をしない。

 相変わらず男を視界に入れることもせず、宙を見つめていた。


 男は長椅子の色から目を離し、部屋に点在している製作途中とおぼしき未完の

作品に目を向けた。サイズもまちまちなキャンバスが、いくつか立てられていた

が、そのどれもに、埃よけなのか布がかかっていて、描きかけであろう絵を見る

ことはできない。そのキャンバスの周囲の床には、クロッキー帳や、スケッチを

ファイルしているらしい革製のバインダーなどが散乱していた。

 色は自分で物を片付けるようなことは、ほとんどしない。そういうことを必要

としない世界に生まれついているのだ。

 はばたき学園が、かなり自由な校風で比較的良家の子女ばかりが通学するよう

な私立学園とはいえ、色が高校に進学すると決め、あまつさえ美術部に席を置く

と聞いた時、男は意外なことになったと思ったものだ。選ぶのは色自身であるべ

きだし、あらゆる経験は色の創作活動の刺激にこそなれ、妨げになるはずはない

と信じるからこそ、反対もしなかったが。


 男は無造作に投げ出された作品たちに歩いて近づくと、おもむろに、足下のク

ロッキー帳の一冊を取り上げた。

 何気なく表紙をめくろうとした時、それまで無反応だった色が突然、大声を上

げた。

「だめだ! 見ないでっ!!」

 男は驚いた。描いた作品を見るなと言われたのは、初めてだった。


 三原色は天才である。彼にはおよそ習作というものがない。彼の走り書きの線

一本が常に命を持った生きた線であり、ほんの一分足らずで描いたクロッキーの

一枚が作品になる。

 ためらいはない。躊躇もない。

 自分のあらゆる作品が芸術であることを本能で知っていて、すべての人に自分

の作品を見せたがる色が「見るな」と口にすることなどあり得ないことだった。

 まして相手は、色の子供時代の落書き一枚から、すべてを目にしていて作品番

号をつけ管理している男である。たとえ未完の作品であっても、見ることをとが

めたことなど、今まではなかった。


 色は長椅子から身を起こし、自分で、自分の言ったことに驚いているようだっ

た。

「……なぜ?」

 男が尋ねると、色は今日、初めてまともに男の目を見返した。色は、はっきり

と何かを恐れていた。

「あ…………それはダメだ……ダメ、なんだ…………」

「だから、なぜ駄目なんだい?」

「……なぜ……って…………だって……それは…………」

「君の美しい芸術作品をなぜ見てはいけないんだい? 君がいつも言ってること

じゃないか。スケッチ一枚だって作品なんだよ。なぜ隠すのか、わからないな」

 男はそう言って、止めていた手をふたたび動かして、クロッキー帳のページを

繰った。

「ダメだってば!!」

 色の制止を無視してクロッキーを見た男は息を呑んだ。

 今までの色の絵とは、まるで違う印象を与える作品が、そこにはあった。


 一枚目はひとりの少女の横顔だった。

 二枚目は制服姿の少女の後ろ姿。

 三枚目は振り返る少女の笑顔。

 四枚目は駈けている少女の姿。

 五枚目は膝に置いた本に目を落とす少女。

 六枚目は窓辺にもたれてうたた寝している少女。

 七枚目は水に濡れそぼっている水着姿の少女……。


「やめてくれ! 返して! 見るなって言ってる!」

 ついに立ち上がった色が長い髪を振り乱して男の手からクロッキーを取り上げ

ようとするのを身をよじって避けながら、男はさらにパラパラと最後までページ

をめくった。

 そのクロッキー帳は最後のページまですべてに、あるひとりの少女の姿が描か

れていた。

「ボクのものだ! ボクだけの!! 見ないでよっ!」

 勢いにまかせて体当たりした色が、ようやく男の手からクロッキー帳を取り返

すのに成功した時には、男は、すぐ側のキャンバスにかかっていた布を引っ張り

床に落としていた。

「ああっ……!」

 色は自分の手遅れを呪うかのように声を上げた。

「これは…………」

 男が予想した通り、キャンバスの上には、やはり、まだ描きかけの、少しはに

かんだ笑顔の少女がいた。

「ダメだって言ってるのに!!」

 色はすっかり興奮して血の上った顔で、ふたたび絵を隠そうとしたが無駄だっ

た。焦っている色を後目に男は、その場にあったキャンバスの布を次々と引き剥

がし、床に放り出されてあったバインダーを広げて、周囲にぶちまけた。

 色のアトリエは、たったひとりの少女であっという間に埋め尽くされた。


「あ……あ…………も……う…………」

 自信に満ちあふれ、ほとんど傲慢な、しかしそれすらも許されてしまう、神に

愛された天才少年のうろたえた姿が、初めて男の前にさらされた。

「驚いたよ……女性は母君しか描かないと思っていたけど……君は……」

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさいっ!!」

「……まだ何も言ってないよ」

「わ、笑えばいいさ! ボクはおかしくなってしまったんだ。ボクはもうミュー

ズの声を聞いて、自由に何でも表現することができなくなった。ボクは……ボク

は……もう…………ただ愛されてることなんかできない。すべての人に愛される

ことじゃ満足できない……もうすぐ気が狂ってしまうんだ、きっと」

「何を馬鹿なことを」

「バカなもんか! 彼女はボクだけの彼女じゃないのに、ボクは彼女しか描けな

くなってしまったんだ!!」

「……彼女?」

 男が一番大きなキャンバスに視線をなげかけて問うと、色はくたりと力が抜け

たようになり、その場に座り込んでしまった。


 男は無性におかしくなって、最初は小さく、だがこみ上げてくるものに耐えき

れず、しまいには声を上げて笑ってしまった。

 色は恨みがましく男をにらんでいた。

「ああ、すまないね。君を辱めるつもりはないんだが。忘れていたよ。君はまだ

十七だったね。……まったく早熟なんだか奥手なんだか、わからないな。それこ

そがミューズに選ばれし者の証かとも思うが」

「アナタの言うことは、いつもわからない」

「わからなくて結構。年長者の忠告は聞くものだよ。たとえ天才でも」

 男は、まるで子供をあやすように、ぽんぽんと色の頭をなでた。

「愛はこの世のすべてであり、命なんだね。君はそれを学んでいる途中なのだ…

…。ようやくここまで来た、と言うべきかな」


 こんな色を見る日が来ようとは男は思っていなかった。甘美な希望と絶望、独

占欲、所有欲、めくるめく恋の痛みを、ありとあらゆる感情を運んでくる生まれ

て初めての恋に捕らわれ、振り回されている少年を、男は愛おしく思った。

 この恋で、彼のあふれる才能は、さらに磨かれて、大きく飛躍することになる

だろう。

 色が描いた少女は、様々な表情を見せていた。聖女のようでもあり、官能的で

もあり、ひどく魅力的で美しかった。

 手放したくないと、誰にも見せたくないと、色が思うのも無理はないように感

じられた。


「君のミューズが君に微笑むことを祈っているよ。でも忘れないことだ。本当に

人の心を打つものは、何かを犠牲にしなければ生まれない。相手を思いやること

も覚えなさい。愛を惜しみなく与えられるようにね。その時、真の芸術が生まれ

るだろう」

「……どういうこと?」

「自分で考えなさい。作品の完成を待っているよ。いつか君の女神に会わせてほ

しいな」

「いやだ」

「やれやれ。せいぜい嫌われないようにすることだね。愛されることばかりに慣

れきっている君だから、誘ってもらうばかりで、自分から誘うことを怠っている

んじゃないかい?」

「余計なお世話だ! そんなのボクの勝手だ。ほっといてもらおう!」

 本当のことを指摘されると、大抵の相手は怒るものだ。男はにっこり笑った。

「……はいはい。それじゃあ私は退散するよ。……ああ、それでも作品は仕上げ

てもらうから、そのつもりで」

「一生待ってればいいんだ」

「…………君の女神によろしく」

 色が手近にあった長椅子のクッションを投げつけたのを、ひらりと避けると、

男はアトリエを後にした。


 これからの色の作品を、どうやって表に出させたものか。

 楽しみでもあり、悩ましくもある仕事に取りかかろうとする男の足取りは軽や

かで、ときめく鼓動のリズムにも似たその足音は、三原邸の長い廊下に快く響く

のだった。






      


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