憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


 Passion 

仲秋 憬






『愛してる』なんて言葉は、どこか、かみ合わない。でも『好き』だけじゃ足りない。

 もっと心の底から突き動かされるような。情熱みたいなもの。言葉にならない。

 何気ない会話の中、特別な意味もなく、別のものを「好きだ」と言ったのに、勘違

いしたがる自分の心がこっけいだ。

 他に代えられるものは、この世にない。

 強烈な飢餓感。俺はあいつに飢えている。



 二人で海になんて来るべきじゃなかった。やばい。やばい。やばいってば。

 どうして、こいつはビキニなんか着てるんだ? 

 日焼けしたって気にしないだなんて。まぶしくて。だめだ……もう。

 うっかりキスしたら最後だ。たぶん歯止めが、きかなくなる。もうすでに充分ギリ

ギリだ。

 だって俺を見て笑うんだ。

「この水着、似合わないかな?」なんて聞くな。バカ。

 いいに決まってる。でも本当は水着なんか引きはがして、それで……。

「珪くん……好きだよ」

 すぐ近くに真剣な瞳。確かに俺の名を呼んだ。

「……俺も…………大好きだ」

「ほんと? うれしい!」

 手を伸ばしそうになるのを、かろうじて堪えているのに、無防備に体を寄せてくる

のを、やめてほしい。やめてほしいけど、そんなこと言えるわけない。なぜって本音

じゃないからだ。

 濡れた水着の下のやわらかい体。……やばい。わかっているけど止まらない。

 どうにも耐えられそうもない。触れてしまったら、後は一直線。落ちるところまで

落ちる自分が見える。

「いい……よ? 珪くん……なら…………」

 何がいいって? 頭をハンマーで殴られたような衝撃。

「……本気か?」

「……うん」

 声がかすれる。ノドが乾く。心臓が爆発しそうだ。

「後でいやだって言っても……止まらないぞ」

「…………うん。……近くにいたいの……」

「……離さない。俺もう離さないから」

 ずっと欲しかった。あまりの欲求に、自ら手に入れようとすることができなかった

くらい。動いた途端、嫌われて、すべてを失ってしまうのが、心底、怖かった。けど、

ふたりの想いがひとつなら、恐れるものは何もない。

 砂の上はまずいって、どこかで聞いた。でも、がまんできない。

 水着にボタンがなくてよかった。もしボタンがついてたら、きっと俺は焦れたあげ

く力まかせに引きちぎって、台無しにしたろうから。

 ああ、もう、そんなこと、どうでもいい。気持ち良すぎて、抵抗できない。

 思い出したわけじゃなくてもいい。同情だって、かまわない。優しいだけの童話の

王子でなんかいられない。

「おまえが……好きだ……」

 気が変になるくらい待ってた。だから…………だから、もう、どうなっても。




「…………っ!!」

 はね起きた。砂の上ではなく、自分のベッドの上だ。

 一瞬、何がなんだか、わからない。一気に駆け上がった高みから突き落とされたよ

うなめまい。組み敷いたはずのぬくもりは幻だった。

 確かに味わった快感と正反対のじっとりと重い躯のけだるさに絶望する。

「…………………………最悪」

 やってしまった。

 あいつを汚した……ってことになるんだろうか。

 病気が、どんどんひどくなる。たぶん俺だけが。こんなのは、あんまりだ。


 いつまでも頭を抱えていたって仕方ない。枕元の時計を見る。

「昼か……」

 昨夜から随分と寝ていたことになるが、まったく寝た気がしない。どんなにかった

るくても、この状態で、また眠るわけにもいかない。情けなさに、ため息が洩れる。


 その時、ベッドサイドに置いていた携帯電話が鳴った。着信メロディが、相手を知

らせる。いつもなら飛びつくようにして、すぐ出るのに、今日ばかりは間が悪い。今

の今まで夢の中で、好き勝手に都合良くなかば陵辱していた相手では。

 それでも出ないわけにもいかなかった。


『珪くん?  今、電話してて大丈夫? ……あのね、急なんだけど……八月八日に、

遊園地に行かない?』

「………………悪い。用事が入ってる……な」

『あ……こんなに突然じゃ、そうだよね。……もしかしてモデルのお仕事入ってる日

だった?』

「……ああ」

『ごめんね。夏休みは珪くん、普段より大きいお仕事あるんでしょ? 九日から部活

の合宿だから、できたらその前に会いたいなーとか急に思っちゃって。この間、花火

大会、つきあってもらったばっかりなのにね』

「いや…………俺の方こそ……誘ってくれたのに悪かったな」

『ううん、じゃあ良かったら、また今度! お仕事、がんばってね。それじゃ』

 明るい余韻を残して、あっという間に通話は終わった。


 自己嫌悪で吐き気がする。

 バカか、俺は……。ありもしない用事を作るつもりか。

 本当は誘われるのを期待していた。昨日まで、俺から誘うつもりだったのに。

 不本意なモデルのバイトなんて、今年の夏は入れなかった。あいつの喫茶店のバイ

トと重なる日のレギュラーの仕事しか受けてない。ステージモデルも、どこか遠くで

の長期ロケもお断り。でなきゃ、モデルなんて、いつでもやめる、とマネージャーに

だって言ってあった。

 けど、あんな生々しい夢を見た後で、平気な顔して、あいつの前で、人畜無害の王

子を演じる自信が今はない。あの夢は俺の本音であり願望だ。『好きだ』と告白すら

してない不確かな付き合いの中で、それはきっと、あいつが思ってもみないことだろ

う。

 それでも、俺の感情になぜだか敏感なあいつは、会って話せば、俺の様子がおかし

いことに気付いてしまう。自分に向けられる気持ちには鈍いくせに。

 どうして、あいつは、子供の頃からあんなに変わらないんだろう。俺は、こんなに

変わったのに。もう子供なんかじゃないのに。

 あいつの変わらなさが、とても愛しくて、そして少しだけ憎かった。


 

 でも、この時会わずに、あいつが合宿に行ってしまうことが、何を意味するか、俺

はわかっていなかった。


 ただ鬱々と。用事があるはずの俺は、自宅で何をするでもなく八月八日を過ごした。

気を抜くと、また自分の願望を夢見る羽目になるのは見えていて、いっそ、それもい

いかと思ったり、また後でいたたまれなくなるのはごめんだと思ってみたり、そんな

ことの繰り返しで、うまく眠れない。

 眠ければ、たとえ道端でだって寝る、葉月珪が。

 気晴らしに森林公園に寝に行くことすらできない。ヘタをすれば、あいつに会うか

もしれない。約束していない日曜日の外出で、偶然に出会うことは、これまでもまま

あった。

 仕事してるはずの俺が、寝こけていたら、どうしたことかとあいつは思うだろう。

 意図して会うなら、まだいい。出し抜けに会ったりしたら、俺は無意識にとんでも

ないことをしてしまうかもしれない。隠し続けてきたことが、みんなチャラになる。

そんな気がしてならない。絶対に会うわけには、いかなかった。


 結局、熟睡できないまま、漫然と一日は過ぎて、翌日からは、当たり前の一週間が

始まろうとしていた。

 退屈な月曜日を、やはり何もせず過ごし、火曜日に入っていたグラビア・モデルの

バイトで、スタジオ撮影の最中、俺は唐突に気が付いた。


 あいつが合宿の間は、まったく会うことができない。一週間。一週間もだ。


 元々、俺たちの日常は、同じ学校の同級生であるということに依存している。学校

へ行けば毎日会える。話はできなくても、姿だけは確実に目にすることができていた。

 夏休みになれば、部活もしていない俺は通学しないが、逆にそのことが、約束して

会うという行動を倍増させていて、それはそれで悪くなかった。

 おまけに、週に二度のあいつのバイト先の喫茶店は、俺がよく撮影で通うスタジオ

のすぐ近くで、いつもならコーヒーの出前を頼めば、あいつが配達に来ることもある。

撮影帰りに、店に顔を出して少しでも言葉を交わすことも可能だった。

 それもできなければ、電話だってある。声は聞ける。約束もできる。平日に会う機

会が減る分、週末は毎週のように二人で出かけた。遊びに行こうと誘うのは大抵あい

つの方で、俺はそれに甘えてた。

 去年の夏も、あいつは部活の合宿に出ていたはずだ。俺はその間、どうしてた? 

こんな風になったか?

 ……違う。

 合宿の前日の日曜も、終わってすぐの日曜も、あいつが前もって俺を誘ってくれて

いた。一週間接触できなくても、その前後でしっかり満足していた。

 なのに今年、俺は自分の下心をさらしたくない一心で、自ら首を絞めるような真似

をしたのだ。

 本当にバカなのは俺だ。こんなことに、どうして気付けない? 



 眠れない。

 以前どうやって眠っていたか、わからない。

 一度見たものを忘れることがなくたって、そんなのは何の役にも立たない。記憶の

反芻ばかりじゃ満たされない。

 笑顔が見たい。声を聞きたい。もう息もできない。

 俺の気が狂う前に、どうか。

 罪悪感に苛まされて会えないと思ったけれど、会わない方が、尚、苦しい。



 一週間の残り数日を、どこでどうして日を過ごしたか覚えてない。バイトがあった

はずだけど、行かなかった。あいつからかかってこないとわかってる携帯なんか用無

しだから、電源なんか入ってなかった。自宅の電話が鳴っていたかもしれないけれど

知らない。

 耳に聞こえる音も、目に映る色も、すべてがうつろで遠い。

 そんな中、耐えきれずに見た夢もあった。自分でコントロールできず、ただ暴走し

て終わるような夢だ。感覚が麻痺したのか、もう自己嫌悪どころではなく、ひたすら

面影を追いかけたが、つかむところで夢だと気付いた。

 会えないなら、せめて、と思って、そのまま夢の余韻で自分をなぐさめた。

 罪悪感は、すでになかった。 



 あいつの合宿が終わる土曜日に学校に行こう、と決めた。

 何時頃、帰宅するのか知らないが、部活の合宿だから、夕方あたりに学校で解散に

なるはずだ。なら、午後ずっと待てばいい。俺はとっくに限界で一目でいいから会い

たかった。

 久しぶりに制服を着て、行きがけに商店街でネコ缶を買った。

 夏の日差しはまぶしくて少しめまいがしたが、気にせず道を急ぐ。正門にたどりつ

いたのは一時半頃だったが、まだ合宿帰りの連中の姿や気配はなかった。


 そのまま体育館裏へと向かう。いつもの居所より木陰寄りの位置に、俺の小さな友

達連中が転がって昼寝していた。猫は居心地のいい場所をよく知ってる。風が通る木

陰は気持ちのいい場所だったけど、一匹だけ体半分日陰に入れずにいる。マイペース

でトロいところが、あいつにそっくりで、つい同じ名前で呼んでいたヤツ。

「……久しぶり。差し入れ持ってきたぞ」

 木陰の前に腰を下ろし、ビニール袋をがさがさと音立ててネコ缶を取り出し開けて

みせると、寝転がっていた猫たちが近寄ってきた。

「ほら、……がっつくなって」

 うまそうに食べるヤツらを、ぼうっと見ていた。

「ああ、相変わらずトロいな……おまえ…………」

 今、名前を呼んだら、まずい気がして呼べなかった。

 名付けた時は無意識で、身代わりのつもりはなかったが、今思うと、そうなのかも

しれなかった。とんだ代償行為だ。

 でも、もうそれでは済まないところまで来てしまった気がする。

 差し入れをたいらげた猫たちは、それぞれ思い思いに、また居心地のいい場所を求

めて散っていったが、あいつと同じ名のヤツだけは、まだ俺の指をなめていた。

 このままでは、いけないとわかっている。

 こいつになぐさめられても、眠っている猫たちをながめても、本当に欲しいものを

得なければ満たされない。

 そのうち俺の膝横で眠ってしまった猫をなでながら、まったく眠気が訪れない自分

を呪った。


 その時、体育館の表あたりにざわめきがあった。

 荷物を運びこむ音。運動部のやつらだ。合宿の連中が帰ってきたのだ。

 俺は急いで立ち上がると、校舎の昇降口から校門までが見える校庭側へ走った。

 しばらくすると、部室棟の方から校門に向かって歩いてくるあいつを見つけた。幸

い部活の仲間と一緒に帰りはしないようだ。門の前で手を振って別れている。

 門を出るあいつに追いつくべく、早足で先を急いだ。


「合宿、終わったのか?」

「あれ? 珪くん! わぁ〜夏休みなのに、どうしたの? 学校で何かあったの?」

 振り返る顔。大きく見開かれた瞳が驚きを伝えていて。

「…………あいつらに差し入れ」

「ああ! 猫ちゃんたち? そっかぁ」

 違う。おまえに会いたくて来たんだ。合宿帰りに一目でもって思ったんだ。

 でも、それは言えない。

「……もう解散か?」

「うん、これで高校最後の合宿もおしまい! がんばったよ。成果上がったかな」

「そうか……よかったな。………………じゃ、一緒に……帰るか? 俺、送ってやる」

「ほんと? ラッキー! うれしいな。ありがとう!!」

 ああ、この笑顔だ。急速に乾きが癒されていく。

 俺が右手を差し出すと、あいつは、ぽかんとした顔をした。

「荷物。……寄こせよ」

「え、あ、いいよ、これ結構重いし」

「なら尚更だ。いいから貸せ」

 少しとまどった表情で、おずおずと差し出された大きめのバックを引き受ける。た

ぶん着替えや何かだろうその荷物は、俺にとって、それほど重くはなかった。




 海の見える坂道を肩を並べてゆっくりと歩いた。

 合宿での出来事を楽しそうに話す耳に心地よい澄んだ声を聞きながら、満たされて

いく自分に安堵する。

 どうして会えないなんて思ったんだろう。こんなに簡単なことだったのに。俺が必

要としてるものは、はっきりしている。

 乾きを癒すのに夢中になっていると、唐突に彼女の方から、俺の望みを見透かした

ような提案があった。

「……ねぇ、珪くん、明日の日曜日、空いてる? もしよかったら……一緒に遊園地

行かない?」

「…………おまえ、疲れてないか?」

「平気、平気! タフなのが取柄だもん。ほらナイトパレードが八月いっぱいでしょ。

一緒に観たいなって思ってたの。あ、でも都合悪かった? ……だったら、ごめんね。

気にしないで……」

「行く」

「……え?」

「俺は平気だ。いや……本当は俺が誘いたかったけど……いつも先越される……な」

「そうなの? ふふっ、じゃあ、わたしにも珪くんに勝てるとこが、ひとつはあるっ

てことだね!」

「…………わかってないな、おまえ」

「何が?」

「……………………鈍い」

 小さくつぶやいたが、本当に思ってもみないらしい。しきりに首をかしげている。

「気にするな。……いいよ。おまえは、そのままが」

「…………そうかな?」

「ああ」

 肯いてやったら、綺麗に笑った。つられて俺も笑顔になってたかもしれない。


「送ってくれて、ありがとう! じゃあ、あしたね!」

 笑って手を振るあいつを引き止めたくて、差しのべてしまいそうになる手を、どう

にか抑える。

 大丈夫だ。明日、また会える。会えるんだから。


 家まで送り届けて、門の前で後ろ姿を見送った途端、安心したのか、あくびが出た。

 きっと、これで眠れる。

 そうして明日の夢を見よう。

 明日には、明後日の。明後日には、明々後日の。

 永遠を願う、ふたり一緒の未来を、ずっと。







BGM…… J.S.BACH : Matthaus−Passion BWV.244

 

      


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂