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 MESSIAH 

仲秋 憬





 ──ああ、麗しいかな、良き知らせを告げる者の足は──


 12月になると女の子は気合いが入る。

 年末に向けてデートやクリスマス・パーティのイベントを前にして、自分を磨き

たいし、プレゼントの準備もしたい。

 年賀状だって一応出しておきたいし、宿題のない冬休みでも補習はパスしたいか

ら、期末テストも無視できない。来たるお年玉の額にも関わるポイントだ。

 先生が学生の本分とか言ってにらんでる。わかってますって。頑張りますとも、

めざせ優等生。

 そんな慌ただしい師走に学園の王子様、葉月珪からお誘いを受けるなんて。


 放課後の昇降口で葉月くんが声をかけてきた。

「……今度の日曜、あいてるか?」

「え、えーと、部活はお休みだし、今のところ予定はないけど」

 やることがないわけじゃないけどね。

「はばたき文化会館のコンサート、行かないか?」

 葉月くんはそう言って、制服の上着の内ポケットからチケットを出すと、わたし

に手渡した。

 受け取ったチケットに視線を落として、わたしは我が目を疑った。

 思わず顔を上げて葉月くんを見ると、ちょっと暗い顔。

「……だめ……か……?」

「ううん、ダメじゃないよ! びっくりしただけ。誘ってくれて、ありがとう。も

ちろん行きたいよ」

「おまえ、部活でフルートやってるし、こういうのも興味あるかと思った」

 葉月くんの顔が少しほころんだ。たまに見せてくれるこの笑顔にくらっときちゃ

う。

 待ち合わせの場所と時間を決めて、そのまま一緒に下校した。



 はばたき学園の入学式の日、学園のはずれになぜかある閉じられた教会の前で、

出会ったわたし達。

 そっけなかった葉月くんを、わたしの方から休みのたびに何度も誘って、やっと

時折、かすかに微笑む顔を見られるようになったし、遂にはこうして葉月くんから

誘ってくれるほど親しくなれた。

 告白してないから彼氏彼女とは言えないけど、ガールフレンドくらいには認識さ

れてるよね?


 でも葉月くんには、まだ謎が多い。

 今日誘われて、ますます不思議に思ったこと。


「これ……オーケストラだよねぇ?」

 自分の部屋のベッドに寝転がって、もらったチケットを、何度も、前、後とひっ

くり返して見直した。

 プリントされたカテゴリーはS席。

 演奏は、イベントホールでたまに聴けるKCH交響楽団とは別の、でもけっこう

有名なオーケストラと、一流音楽大学合唱団。

 四人の歌手と指揮者の名前は外国人。

 タイトルは『メサイア』。

 普段、バイオリンの曲を聴いていると言う葉月くん。

 だったら好きかと思って、わたしが何度KCH交響楽団のコンサートに誘っても、

OKしてくれたことはなかった。

 これはダメかなと思ったお笑いライブだって、つきあってくれたのに(テレビは

見ないそうだけど、実は意外とお笑い好きだったらしい)。

 いったいどうしてなのか、気になってしかたない。

 こうして、いつもわたしは葉月くんのことを考えてるみたい。

 もっと葉月くんを知りたくて、気がつくと彼に電話していたりするのだ。

 葉月くんがわたしをどう思っているかは、よくわからないけど、拒絶されずにす

んでいるから、嫌われてはいない……と思いたい。




 コンサートの当日。

 クラシックの演奏会だから、服装はフォーマルっぽくしてみた。

 黒のロングスカートはプリーツが綺麗で、ハイウェストの赤いリボンベルトが何

気なくかわいいのでお気に入り。襟と袖口がシャーリングで飾られたハイネックの

白いニットとあわせて、コサージュをつけると、ちょっとしたパーティだって恥ず

かしくない感じ。寒くないようにたっぷりしたコートを着て、わたしは待ち合わせ

場所に向かった。

 葉月くんは先に来ていて、わたしの服をほめてくれた。

 うれしいな! これだから、おしゃれにも気が抜けない。


 演奏会場のホールのロビーは、いつもわたしが気軽に出入りするようなライブハ

ウスやイベントホールと明らかに雰囲気が違っていた。

 ジーンズの人なんて、まずいないし、人のざわめきもおだやかで、何て言うか、

ハイソサエティな感じ。

 クロークにコートを預けるという行為に慣れないわたしはとまどった。

 そんな中でも葉月くんは自然体。タートルネックのうす茶のセーターに、こげ茶

のジャケットをはおった何でもないファッションなんだけど、立ち姿の良さと容姿

が際立っていて、人気モデルの葉月珪という目で見られているわけじゃなさそうな

のに、ここでも、みんなが振り返る。光ってるんだよね。

 客席への扉の横には案内係の人が控えていて、チケットを見せるとすっと先導し

て席まで連れて行ってくれるの。すごーい。


 早めに席について開演を待っていると、1ベルが鳴って、まだ客席が明るいうち

にまずオーケストラの団員が舞台に出てきて各々の席に座って楽器を鳴らし始める。

 次にオーケストラの後方に合唱団がずらりと並ぶ。壮観。

 でも、そこで気がついたんだけど、ヘンデルの『メサイア』って歌とオーケスト

ラと言ってもフルオーケストラの曲じゃないんだ……。

 吹奏楽部のわたしにおなじみの楽器はほとんど無い。それどころかフルートすら

見あたらないんですけど……葉月くん……。プログラムで楽器編成を確かめたら管

楽器はオーボエとファゴットにトランペットしかないみたい。

 でもバッハとかのバロックの曲って好きだし、こういうのも、たまにはいいかも。

「年末って言うとベートーヴェンの第九のコンサートって多いけど、メサイアも結

構あるんだね」

 入り口でもらったコンサートのチラシの束をぱらぱらとながめてみると、その二

つの曲がメインの12月のコンサートが同じくらいあった。

「第九を年末にやるのって日本だけだと思う。メサイアはどこでもクリスマス頃、

よくやる」

「そうなんだ。ああ、メサイアってキリストのことだもんね」


 2ベルが鳴って客席が暗くなると、舞台の上でオーボエ奏者がチューニングのA

の音を吹く。

 コンサートマスターのバイオリンがまずそれに合わせて、そこから次々にA音が

重なりそろってゆく。音のバイブレーション。弦楽器って特別な感じ。

 チューニングが終わってしんと静まると四人の独唱者と指揮者が拍手に迎えられ

て舞台へ出てくる。


 静かなバロックの響きの弦楽合奏のシンフォニアから始まって、いよいよテノー

ルのソロから歌が入る。

 背筋がぞくぞくした。


 初めて聴いたけど、すごい。やっぱり生で聴くと迫力が違う。オーケストラでも

フルートは無いし、きちんと聴いたことのない曲だし、もしかするとつらいかなぁ

と心配していたんだけど、そんなことは全然なかった。

 とにかく合唱が小編成とは言えオーケストラに負けてない。

 歌詞は英語。歌だからきちんと英語として聞き取れはしなかったけど、手元のプ

ログラムには日本語訳もちゃんと載っていた。メサイアの歌詞が全部聖書の抜粋だ

ということも初めて知った。

 でもわたしは演奏が始まったらプログラムには目もくれず、ただただ音楽に圧倒

されていた。

 コーラスとソロの掛け合い。オーケストラのハーモニー。音が波になって複雑に

からみあい緻密な模様が織り出されて、それが直接体に響いてくるの。

 涙が出るほど美しかった。


 そうして、すっかり時が経つのも忘れて夢中になっていると、何度目かのテノー

ルのアリアで一区切りついたところで、休憩になったわけでもないのに、客席の周

囲の人たちがパタパタと立ち上がり始めたのだ。

 何、これ?! これでおしまい……なわけないし。客席も暗いままで拍手もして

ないよ?

 どうしたらいいのか困って、隣の葉月くんを見ると………………寝てる!

 声は出せないので袖を引っ張ってみたけど、だめ。完全に熟睡中。

 膝のあたりをとんとんとたたいたら、それまで自力でうつむいて船をこいでいた

葉月君の頭が重力に負けて右隣にいるわたしの左肩に落ちてきた。

 うわーん、どうしよう!!


 ──ハーレルヤ ハーレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレールヤ──


 コーラスの力強い歓喜に満ちた声が、突如として会場に響き渡った。

 ハレルヤ・コーラスだ。

 メサイアってこの歌が入ってる曲だったのか。

 わたしと葉月くんの席の、隣も前も後も、ほとんどみんな立ち上がって聴いてい

る。葉月くんに寄りかかられて座ったままのわたしに、当然、舞台は見えない。

 な、なんで? こういうしきたりなの???


 輝かしいトランペット。生き生きと躍動する歌声とオーケストラ。

 天上から惜しみなくあふれる賛辞の音楽。


 Hallelujah Hallelujah Hallelujah!


 この大音声の中、一向に目を覚ます気配がない葉月くん。


 King of Kings, for ever and ever Hallelujah Hallelujah

 Lord of Lords, for ever and ever Hallelujah Hallelujah


 and He Shall reign for ever and ever,


 King of Kings, Lord of Lords,

 King of Kings, Lord of Lords,


 Hallelujah Hallelujah Hallelujah

 Hallelujah!


 それまでのしっとりしたアリアやレチタティーヴォを吹き飛ばす怒濤の勢いで、

ハレルヤは終わった。

 呆然とハレルヤの大合唱に飲み込まれていたわたしをよそに、周囲の人たちは

何事もなかったかのように静かに着席する。

 舞台では続いてソプラノのアリアが歌われ始めていたけれど、わたしは混乱し

たままだった。この曲一番のクライマックスで、他の事に思考を奪われ気もそぞ

ろだったのは、わたしくらいのものだろう。

 葉月くんの髪がわたしの頬にふれていて、寝息はかかるし、頭を乗せられた肩

はじわりと熱く、もうメサイアどころじゃなくなってしまった。



 ハレルヤの後、どのくらい曲が続いていたか、覚えていない。

 たぶんそれまで聴いていた長さより短かったはずだけど、わたしには果てしな

く長く感じられた。

 葉月くんは結局、最後まで目を開けず、わたしは緊張して固まっていた。


 全ての曲が終わって、拍手とブラボーの声で会場が沸き、ソリストと指揮者に

花束が渡される。彼らは客席に向かって何度も頭を下げ、袖と舞台の行ったり来

たりを繰り返した。客電がついても鳴りやまなかった拍手が、終了を告げるアナ

ウンスで、ようやく静まり、今夜の聴衆が席を離れ始めたところで、わたしは、

はっきりと声を出した。

「葉月くん、もうおしまいだよ。葉月くん! 葉月くん、起きて!!」

 彼の頭をゆするように肩を動かして、あいていた手で賢そうな彼のひたいをこ

つんこつんとたたくと、葉月くんは長い午睡から目覚めた。

 女のわたしよりも長いまつげがパチパチして、緑がかった宝石みたいな瞳がわ

たしの顔を映すのを、ものすごく間近で見てしまった。

 葉月くんに聞こえちゃうんじゃないかと思うほど自分の心臓の音がうるさい。

 あのハレルヤでも起きなかった葉月くんに? まさか。

「悪い……俺、寝てたな……」

「ぐっすりだったよ。ハレルヤでも起きなかったね」

「……ごめん……おまえの側にいると眠くなる…………安心して」

 にこっと笑って、そんなこと言われると、勘違いしちゃいそう。

 クラシックを聴いてて眠りこむなんて、よくある事なのにね。

「とにかく、演奏会終わったし、もう帰ろう?」

「ああ……演奏、良かったか?」

「うん。初めて聴いたけど、感動しちゃった。人間の声ってすごいね。オーケス

トラも」

「……だったら、少し付き合えよ」



 葉月くんはホールの出口に向かわず、舞台の前方の客席口に近い奥まったとこ

ろにある関係者以外立ち入り禁止っぽい扉を勝手に開けて、どんどん進む。

 これって舞台の袖とか、楽屋につながっているんじゃない?


 葉月くんに連れて行かれたのは案の定、出演者の控え室である楽屋だった。

 広い楽屋ではオーケストラの人たちが楽器の片づけをしていたり、花束を手に

談笑していたりと、実ににぎやかだ。

「まあ、珪くん! 来てくれたのね。大きくなって……!」

 葉月くんが誰かに声をかける前に、まだ黒のロングドレスに身を包んだままの、

お母さんくらいらしい年頃の(でもうちのお母さんよりずっときれいな)大人の

女性が、ソプラノ歌手顔負けの声を上げ、楽屋の中に入るのを遠慮して戸口の前

に立って中をうかがっていた葉月くんに駆け寄ると、大柄な葉月くんを子供みた

いにぎゅっと抱きしめた。まるで外国映画みたいで、わたしは、ぼーっと見入っ

てしまった。

 葉月くんは一旦はなされるままになっていたけど、すぐにその女性から一歩下

がって軽く頭を下げた。

「……お久しぶりです。ご招待ありがとうございました」

「どういたしまして。ご両親は今年も帰国しないのね。ヨーロッパはオペラシー

ズンだし、お父様も世界で活躍されて忙しい方だもの。仕方ないわね」

「……ええ」

「お母様もあの伝統ある楽団で日本人で初めて女性として団員になられたのだも

の。そうそう日本に帰国もできないわね。でも会ったときは水入らずでしょう? 

うらやましいわ」

「いえ……そんなでもないと思います」

「あら、口に出して言わないだけでしょう。でも日本で自分のやりたい事を見つ

けるのだって大事なことよ。男の子は、それくらいでなくちゃね。……すっかり

立派になっちゃって! 私がドイツで面倒を見ていた頃は、こーんなに小さな坊

やだったのに」

 と、その女性は自分の膝あたりに手をやって笑った。

「思い出すわ……ご両親についてドイツに来たばかりの頃、レッスンに来るたび

に、どうしたら日本に帰れるかって真剣な顔して相談してくれたわね。お母様や

お父様には内緒だって……。珪くんが上手にバイオリンを弾けるようになれば帰

れるかもしれないって騙していたみたいで、気がとがめるわ。でも小さかったの

に時々ドキっとするくらいお母様そっくりの弾き方をしていたから血は争えない

と思っていたのよ。もうバイオリンはやらないの? 少しもったいなかったわね。

天才少年を育てた恩師、なあんて言われてみたかったわ」

「……練習嫌い……でしたから」

「ふふ、冗談よ。私ばかりはしゃいでしまってごめんなさいね。ああ、こちらの

フロイラインは珪くんの彼女?」

「…………同級生……です」


 いきなり話をふられて、ぼんやりと二人のやりとりを聞いていたわたしは、あ

わててお辞儀をした。

「初めましてっ。あの、今日、本当にすばらしい演奏でした! 恥ずかしいんで

すが、初めて生で全曲聴かせていただいたんですけれど、迫力があって、こう胸

にずきんって響きました! 歌とオーケストラのハーモニーってすごいですね」

「クラシックが退屈じゃなかったなんて嬉しいわ。ありがとう」

 あ、とっても優しい笑顔。ステキな人だなぁ。

 バイオリニストで、葉月くんのご両親とお知り合い……なのかな?

「あの、勉強不足ですみません。ハレルヤで客席の人がみなさん立ち上がってい

たんですけれど、あれは、なぜだか教えていただけますか? やっぱり立たない

と失礼なんでしょうか?」

「あら、そんなことないのよ。メサイアのロンドン初演の時に臨席していた当時

の王様ジョージ2世がね、ハレルヤの合唱に感動して起立したので、聴衆もそれ

に従って立ち上がったんですって。それから今でもハレルヤになるとお客様が起

立したりするの。でも絶対に立たなければいけないなんてことないのよ。ここに

は王様なんていないんですものね」

「そうだったんですか……歴史があるんですね。そういうのって面白いですね!」

「……でも彼女が、こんなこと言うなんて……珪くん……もしかして寝ちゃって

たんでしょ? ガールフレンドを困らせて、いけない子ねぇ」

 いたずらもお見通しな先生がやさしくたしなめるみたいに、笑って言うと、葉

月くんが恐縮した。

「これじゃ、お母様の晴れ舞台のニューイヤーコンサートにだって来られないわ

けだわね。お母様、心配されていたわよ。珪を日本へ帰したら、すっかり、はば

たき市から動かなくなったって」

「……すみません」

「いいのよ。苦手なのに、よく来てくれたわね。正直なところ、たまたま、はば

たき市での公演だったから招待券を送ってみたけれど、珪くんに会えると思って

いなかったの。デートの口実にでも使ってくれて良かったわ」

「口実なんて、そんなことないです! それにとってもとってもステキでした! 

ホントにずっと聴いていたかったくらいに!」

 ハレルヤから後は葉月くんのことでぐるぐるしちゃったけど、とにかく感動し

てもっと聴きたかったのは本当で。どうしてもそのことは伝えたくて、つい力説

しちゃったら、その女性は、わたしの唐突でぶしつけな態度にも微笑んでくれた。

「どうもありがとう。若いお嬢さんにこんなに感動してもらえる演奏だったなら

まんざらでもないわね」

 そう言って、綺麗にパチンとウインクして、握手をしてくれた。

 それから、その女性が、葉月くんに向かって耳もとで何か話しかけたとたん、

彼が、ぱっと顔を赤らめたので、わたしは驚いた。

 葉月くんが大人の前でこんな風に照れてる顔、初めて見た。びっくり。

 周りがざわいついていたせいで何を言われていたか聞こえなかったんだけど、

気になるなぁ。

 他にもお弟子さんらしい人やお知り合いらしいお客様が来て、声をかけてきた

ので、わたしたちは、最後にもう一度お礼を言って、打ち上げ気分でにぎわって

いた楽屋を失礼した。




 ホールの外へ出ると、もう冬の日は落ちていて、すっかり暗くなっていた。

 歩道の街路樹にクリスマスのイルミネーションがキラキラ光っていてイイ感じ。

 送ってくれるという葉月くんの言葉に甘えて、すてきだった演奏会の余韻にひ

たりながら並んで歩く帰り道、わたしはずっと不思議に思っていたことを、葉月

くんに話してみた。

「きょうは誘ってくれてありがとう。……あのね、わたし葉月くんはオーケスト

ラってあまり好きじゃないのかと思ってた」

「そうだな。……好き嫌いって言うより……あんまり……いい思い出ないから」

「ふうん…………バイオリンやめちゃったのも?」

「……それだけじゃないけど。音楽、本気でやる気になれなかったし」

「そうなんだ……。それにしても葉月くん、あのハレルヤの大合唱でも眠れるっ

て、すごいよ。わたし、びっくりしちゃった。周りの人、みんな立ち上がって聴

いてるのに、すやすや寝てるんだもの」

「…………ごめん」

「あぁ、あやまらなくていいんだって! ……でも、演奏が全部、終わって、拍

手もすんで、最後にわたしが声かけたら、案外あっさり起きたじゃない? ぐっ

すりよく寝た後だったからかな」

 なんだか、くすぐったいようなおかしさがこみ上げてきて思い出し笑いしちゃ

った。あの時は、めちゃくちゃドキドキもしたけど、でも葉月くんの寝顔と寝起

きの顔を見られて得した気分もあったしね。

 あ、いけない。こんなこと言って笑ったりしちゃ気を悪くするかな?


 我に返って横を歩く彼の顔をうかがうと、葉月くんは、特に変わらない表情で

わたしを見ていて、ばちっと目があった。

 どきんとした。

「…………おまえの声は聞こえてるから……」

「え?」

「寝てても……なんでだか……わかるんだ……おまえの声」

 どういう意味だろ? 目覚ましになるってこと? そんなに大きな声でもない

と思うんだけどな。うーん……?

「そうだ! ね、バイオリンの先生、最後に葉月くんに、なんて言ってたの?」

「……………………」

 葉月くん、黙っちゃった。

「ごめん、聞いちゃいけなかった?」

「……べつに」

「じゃあ、なんて?」

 葉月くんは少し考えてから、照れずに、ふわっと微笑んだ。

「………………ないしょ」

「あ、ずるい!!」

「おまえも俺の声が寝てても聞こえるようになったら教えてやる」

「えーっ! 無理だよ、そんなの〜っ!」


 星がまたたくのと一緒に、今度は声を上げて葉月くんが笑った。




 Their sound is gone out into all lands,
  and their words unto the ends of the world.
                       (Romans 10;18)

 ──その声は全地に響きわたり、その言葉は世界の果てにまで及ぶ──
                                         (ローマの信徒への手紙 10章18)




      


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