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残 月
仲秋 憬 




  鬼との戦いは終わり、龍神の神子と八葉は、ひとまず、その責を解かれた。

  いくらかの恩賞と祝宴を終えて、神子は自分の世界へ戻るかと思われたのに、彼女は、

 それまでの自分をはぐくんできたあらゆるものを振り捨てて、京に残ることを選んだ。


  そのことが、八葉の一人である左近衛府少将、橘友雅を、思いもかけず動揺させた。

  龍神の神子、元宮あかねが、なぜ京に残ったのかは、あの神泉苑での最後の戦いで答え

 が出ていたも同然だった。彼女は友雅を頼らなかった。


  あかねは、京に残ったあとも左大臣邸で暮らしており、八葉の面々は、それぞれに時折、

 彼女の元を訪れては無聊をなぐさめている。友雅もそれができない身の上ではなかったが、

 左大臣の屋敷はいつも人の訪れが多く、神子に仕える藤姫は、相変わらず一心に彼女に尽

 くすものだから、友雅が一人あかねに向き合う機会はおいそれと訪れてはくれなかった。

  それは明らかに彼女が友雅を避けている証のようでもあった。




  夏が終わり、秋の風が吹きはじめた頃、ようやくひとつの機会がやってきた。

  友雅は方違えで、どうしても内裏からまっすぐに帰宅がかなわず、ちょうどよい方角に

 ある左大臣邸に寄せさせてもらうことにしたのだ。切ってはめたように、ぴたりとはまっ

 た方位が、あやしいまでに友雅の心をはやらせた。一度、どうしても神子とふたりきりで

 話をしなければならないと思っていた。この方違えは、いい機会だ。

  じりじりとなにかにあぶられるようにして待っていた一月あまりの時間が、友雅をどこ

 か余裕のない若者のような心地にさせていた。


  勤めを終えたその晩に、左大臣邸を尋ねて、方違えの旨を伝えると、当然のように快く

 迎え入れられ、東の対の房がひとつ友雅のために整えられた。

  藤姫はとうに休んでいるといい、あかねも、またすでに夕餉も終えて、きょうは部屋に

 ひとりだという。よくしつけられた左大臣家の女房も、天下に鳴り響く『今業平』の左近

 少将には口も軽くなりがちだった。


  夜も更けた亥の刻の頃、与えられた房を抜けだし、友雅はひとりあかねの部屋を訪ねた。

  春から何度となくたずねた部屋に向かうのに、案内などいるはずもなく、忍んでいくの

 は、あまりにもたやすかった。

  彼女の部屋の周りは不思議なほど人がいない。これは彼女が側近く人を使うのに慣れて

 おらず、夜などはことに不必要に気を使って、使用人を遠ざけてしまうからだった。

  それでも清浄たる陰陽の結界だけは、いつもみごとに彼女の周囲を守っていた。

  おそらく八葉のひとり、稀代の陰陽師の弟子である男の手によるものだろう。

  しかし、その陰陽の結界も、八葉の友雅をとどめることはない。

  友雅は首尾良く、誰にも見とがめられずに、あかねの部屋へたどりついた。


  彼女は眠っていなかった。燈台の明かりで何やら手習いをしていたようだ。

  書きかけの料紙が散らばる部屋で文机に向かっている。

  突然の友雅の訪問に目を丸くして驚いたが、それでもいつか来るこの時を覚悟していた

 のか、すぐに気を取り直した様子で、文机を脇へやると、恐れもなく御簾内に入ってきた

 友雅を、真正面から見据えた。

  朽葉襲の織物の袿を簡単にはおってくつろいだ姿は、どうやら充分に京にとけ込んでき

 ているように友雅には見えた。

  夜目にもきらきらと内面から光輝くような存在感が、友雅を引きつけてやまない。

 「うれいに満ちた顔もなかなかいいね、神子殿。私のことは月読とでも呼んでくれないか」

 「友雅さんは月読じゃないでしょう? あちらこちらの花を愛で渡る方が月読だなんて」

 「言うね、神子殿も」

  小さく笑ってあかねの前に腰を下ろした。

  一瞬、出会いの頃に時が戻ったようだったのに、彼女の答えが、すでにあの頃が遠く、

 京に慣れた期間の長さを伝えていた。

 「こんな時間に突然たずねた私を許してほしい。どうしても君とふたりきりの時に聞きた

 いことがあったものでね」

 「………………」

  彼女は何を聞かれるのか、なかばわかっていて恐れているようだった。

 「どうして帰らなかった? 彼はきっと君についていくことだって、辞さなかったのでは

 ないの?」

 「それ……友雅さんに答えなければいけないことですか?」

 「そう言われてしまったら、私には何も言えないけれどね。一度は心を分け合ったと感じ

 た私も、すでに過去の名残でしかないか」


  淡々と話す彼を、あかねはどこか寂しそうな目で見つめた。友雅にとって唯一の情熱で

 ある彼女、たったひとり彼を本気にさせる少女の今この時の心のありようを、友雅はとど

 めることができないのかもしれなかった。


 「忘れてくれって言ったのは友雅さんでしょう。違いますか?」

 「そうだね。では姫君は、こんな愚かな男のことは忘れてしまったというわけなんだね」

 「…………忘れます。忘れる努力をします。でも愚かだなんて思ってないです。愚かなの

 は私の方だもの」

  どこまでも硬質な、まるでいつものあかねらしくない表情を見せる。

  互いの心がきしむ音が聞こえるようだった。

 「忘れることができるんだね」

 「……友雅さんの気持ちを疑ったわけじゃないし、私が友雅さんをきらいになったわけで

 もないです。そんなこと、できない」


  初めての恋の痛みは、いつだってあかねを苦しめてきたのだろう。最初に、手の届かな

 い月に恋して苦しんだのは、友雅ではなく、あかねの方だったのだ。

  決して満ちることのない欠けた月。月に届く梯子は無かった。

  いや、無いようにあかねには思えたのか。


 「神子殿、ならば」

 「でも!」

  あかねは友雅に次の言葉を言わせなかった。

 「友雅さんは私がいなくても生きていけるけど、あの人は私がいないと生きていけないっ

 て思えるんです。……私のせいで! 私が京でしてきたことのせいで!」

 「神子殿」

 「私、本当に子供でした。それを教えてくれたのは、友雅さんです。だから今からでも、

 自分にできることをしたい。私を何よりも必要としてくれる人に望まれるなら、それが私

 の京に残る意味になるんです」

  幼げだった少女は、もうどこにもいない。なんてことだろう。気がつくのが遅すぎたと

 いうのだろうか。

 「私が君を必要としていないとでも思うのかい?」

 「……それを信じろっていうんですか? 私に? 忘れてくれと言った次の日に、私を鷹

 通さんに会いに行かせた友雅さんが?」


  あかねの一言一言が友雅を切り刻んでいくようだ。体を流れる血の一滴までもがすでに

 彼女に捕らわれているのに、彼女はそれを捨てるという。忘却を甘んじて受けよ、と。


  これは贖罪だろうか。

  今まで寄せられてきた数多の想いを本気で受け止めることができなかった友雅への罰。


 「質問に質問で切り替えされるのは、どんな気持ちですか? 少しは……………、いえ、

 私が至らなかっただけですね。ごめんなさい」


  そう、友雅は、いつもそうやって、はぐらかしてきた。その報いがまわってきたのだ。

  そして忘却は罰ですらない。それを最初に望んだのは友雅自身だ。だから、これは己が

 望んだ結末なのだ。

 「いや、あやまるのは私の方だ。すまなかったね」

  あかねは無言のまま首を振った。自分で自分の羽を引き抜いて傷ついているような痛ま

 しい彼女に胸が悲鳴をあげている。

 「優しいな。こんな時にまで本当に優しすぎるよ。君は龍神の神子なんだね」

 「………………」

 「君こそが龍神の神子だね。京を救ったその後ですら」

  彼女の顔色がはかない灯りでもわかるほどはっきりと変わった。

 「友雅さんは私を思い違いしてます。別の世界で育ったちょっと毛色の違う私が、手に入

 らないから、落ちてこないから、本気になっているような気がしてるだけ。手に入れてし

 まえば、きっとすぐ失望して、やっぱり情熱も本気も幻だったと思うでしょう。私は友雅

 さんが思っているような、特別なあなたの月の姫じゃないです」

 あかねのその言葉が友雅の中に隠されていた何かひどく危険なもの、封印されていたあや

 うい何かをゆり動かした。

 「神子殿」

  友雅の常の声とは違う、低くかすれた声が出た。

  自分でも知らなかった何か。奥底に眠っていた何か。友雅の内なる闇。底知れぬ淵の、

 よどんだ闇の中で何かがぞろりとうごめく。

  起こしてはいけない。その何かが目覚めたら、全ては砕け散り、粉々になるだろう。

 「己を知らないというのは恐ろしいことだね。君も、私もね」

 「私が確かだと思うのは自分が物知らずだということだけです」

 「必要以上に己を卑下することに、なんの得があるんだい。否定してほしいからじゃない

 のかな。知らないとは言わせないよ。八葉すべてが君に捕らわれていることを」

 「それは私が龍神の神子だから……。友雅さんが、さっきそう言ったんじゃないですか! 

 私が龍神の神子だって!! 本当の私は取るに足らないただの小娘です。そんなこと私が

 一番よく知ってます。ずっと神子であることを望んでおいて、なんで今頃になって……、

 お願いですから、もう放っておいてください! 私にかまわないでっ!」

 「それができるなら、とうにそうしているさ」

  友雅の口からひやりとした言葉がもれた。


  あかねが言葉を重ねるたび、友雅をとりまく気がどんどん冷えて凍りつきそうになるの

 と反対に、彼の身の内の闇は、ふつふつと煮えたぎり、とてつもない熱を帯びてきている。

  相反するものに引き裂かれる。それはもう目覚めかけている。

 「どうしてわからないなどと思ったのだろう……ふふっ、自分がおかしいよ。ただ単に、

 今までめぐりあうことがなかっただけなのにね」

  友雅は微笑んでいるのに、あかねはおびえた表情を見せる。無理もない。彼女の知らな

 い友雅の顔。友雅自身も知らなかった顔が彼女の瞳に映っているのだろう。


  あかねは言ってはならないことを言ってしまった。

  彼女の望み通り、かつての己の望み通り、忘れようとしていた情熱を、呼び覚ます一言

 を。もう後戻りはできない。無明の闇が続くばかりだ。


 「手に入れたらきっと失望するだって? なぜそんなことが君にわかるんだい。私の本気、

 私の情熱を、他ならぬ君が否定するんだね。いいよ、それなら試してみるといい。もう、

 引き返せはしないんだ」

 「……と……友雅さん、何を…………」

  自分は獲物を追いつめるような目をしているかもしれないと思う。自分の中の何かが、

 確かに鎌首をもたげるのがわかる。もう止まらない。

 「今宵、こうして部屋に私を上げてしまったことが間違いだったね」

 「友雅さんっ! やっ、いやですっ!!」

  あかねの拒否などかまわずに、ずいっと膝をつめると、強引に肩を引き寄せ、力で彼女

 を拘束する。紅もひかないのに紅梅をくわえているかのように紅いあかねの唇を、有無も

 言わさずふさいだ。

  もがき離れようとあらん限りの力で彼女は抵抗したが、武人である友雅の力に、かなう

 はずもない。袖をとらえれば必死でふり払おうとする彼女の肩を、あざが残りそうな力で

 押さえ込み、抱きしめる。

 友雅の突然の激しさを受け止めきれずに、あかねの体はがくがくとふるえだし、子供のよ

 うに涙を流して泣きじゃくった。

 「あんまりです、こんな……こんなのは……っ」

 「そんなに泣かないで。どうせやめるつもりはないのだから、協力してくれた方が怪我も

 せず楽にすむよ。君も気持ちよくなってしまった方がね」

 「なんで、こんな……っ、……どうして?」

 「なぜ今まで何もしなかったか、わかるかい……?」

 「わかりませんっ……あ、いやぁ!」

 「君が月へ帰ると思っていたからだ……。私にも京の誰にも手の届かないところへ帰って

 しまう君を、引き裂くつもりはなかった。それならがまんできたのに……いけない子だね」

 「あ、あ、あぁぁっ」

  あかねのほの紅い耳たぶを唇ではみつつささやくと、彼女は泣きながら首を左右に振っ

 てあらがおうとする。

  もっと近づくために、耳に直接口づけて、息を吹きかけつつ、かきくどく。

 「あかね……」

  はじめて呼んだ真の名に欲望がにじみ出ていてめまいがする。

  名を呼んだ途端、彼女は、ぴくりと身をすくませて、またもがきだす。


  友雅は自分の持つあらゆる武器を熟知している。

  彼が耳元で名をささやいて、ここまで一途に抵抗した女が、かつていただろうか。

  自ら望んで友雅に摘まれようとする花々は、手をのばせば恥じらいこそしても、いとも

 易々と柔らかく溶けてその身を投げ出してきた。

  こんなに真剣に抵抗を示すということは、それだけ彼女の純潔さを表しているのだろう。


  あかねが言うように、友雅は彼女が抵抗するから追わずにいられないのだろうか。

  そうではない。それをこの身でもって証さずにはおかない。


  ただ単に、彼女を抱くためだけなら、もっとたやすい方法があった。色事の手練手管を

 知り尽くした三十も過ぎた男の友雅と、世知らずの乙女であるあかねでは、はじめから勝

 負になどなりはしない。

  せつなさをはらんだ請い求め、甘美なささやきに罠をしかけて、どこまでも優しい愛撫

 と包容で周りも見えないほどくるんでしまえば、ずっと早くにさしたる抵抗もなく、彼女

 は彼を受け入れただろう。友雅にはそれを可能にするだけの経験と自信があった。

  なのにそれをせず、強引に求め追いつめてしまうのは、友雅自身が、生まれて初めて己

 の情欲に引きずられるまま、動いてしまっているからに他ならない。


  いくらかは伸びたといっても大人の姫君というにはまだあまりに短い髪をつかみ、頭を

 片腕で取り押さえて、唇を思うさまむさぼると、あかねは痛みに眉をよせ、首をのけぞら

 せた。

  白い首筋にも唇をはわせて舌で攻めると、あ、と小さくため息がもれて、羞恥と混乱で

 半狂乱になっているあかねの気勢をそいだのか、長く続いていた抵抗が一瞬やんだ。

  その隙を逃さず、あかねを軽々と抱き上げると、友雅は幾重にも立てられた几帳の影に

 すでに用意されてあった褥へ、あかねもろとも倒れ込んだ。

  今度こそ、あかねは悲鳴をあげようとしたが、友雅はそれを許さない。口づけひとつで

 やすやすと少女を拘束し、両手はひっきりなしに彼女の存在を確かめていた。

  あらがっていつのまにかゆるんだ衿もとから、半分乳房があらわれている。友雅は押さ

 えきれない欲情に駆られて、そのみずみずしい果実に唇を押しあてた。

 「いやっ、いやです! 許して、お願い、ともまさ……さ…ん…………んあぁっ」

  そんな言葉は友雅をかえって煽るばかりだ。あかねの着ているものを、いきなり肩から

 ひきはがし、友雅の手はどんどん彼女をあばいてゆく。

  力まかせに引っ張った衣の縫い目がひき裂ける音が、何かの悲鳴のように響いた。

  そうしてついには固くとざしていたはずの足の間に大きな白い手の進入を許してしまう

 と、あとはもう友雅の為すがままだった。

  どんなにその身をよじったところで、押さえ込まれた細い少女の躯に逃げ場はなく、い

 つのまにか男の頭がどんどん下がっていくのすら止められない。やわらかく体中をはう友

 雅の唇は、何も知らなかった初心なあかねの快感の芽を確実にすくい取っていた。

 「も…もう、かんべんして……くださ…い………やっ……こんな……もう……やめ……」

 「やめられるわけないだろう? ここでやめたらかえって辛いよ。ほら、もう、こんなに

 なっているのに……」

 「いやぁぁ」

  少女の中にも確かに存在していた肉欲を見せつけられる羞恥と恐れで、彼女は泣きむせ

 ぶ。その泣き顔を自分ひとりで独占しているのだと思うと、体中の血が沸騰し、内側から

 すべてが彼女に流れ込んでいってしまうような錯覚をおぼえて、友雅の背筋に例えようも

 ない興奮がはしった。

  なんとも、もどかしく己の衣の前をゆるめるだけゆるめて、ようやく絹の合間で、直に

 肌を合わせれば、互いの肌がすいついて、もう離れることはできないだろうとまで感じて

 しまう。

  男の舌と指ですっかり露に濡れた朱門をいよいよ開かされると、あかねは痛みに身を固

 くする。

 「唇をかまないで。息をすって、はいて……。そう……ああ……だいじょうぶだ……恐れ

 ないで……」

 「いたっ……い…や……」

  破瓜の痛みとともに流れた証が、じわりと互いの股をつたって絹に吸われていく気配が

 あった。

 「も……死んじゃ……う……やっ、いやです、いや」

 「このままふたり血を流し続けて、共にはかなくなってしまおうか……それもいいね」

 「うそ……ともまさサンっ、あっあんっ、やめて……」 

 「……何があってもやめないと言っただろう。ああ、熱いね……本当に……いいよ……と

 ても…………ね……もう離してあげられない」


  言葉にならない熱が二人を行き交って、あとは、もうどうなってもかまわないという、

 むき出しの快楽だけが、その場を支配する。

  友雅は目覚めてしまった内なる何かが、荒れ狂い欲望のままに振る舞うのを、はっきり

 と意識して解放した。

  あかねは、あまりに急激な変化が自分に起こったのが信じられないのか、しだいに目も

 うつろになり、いまや友雅のくびきにつながれて、薄れてきた痛みを覆いつくすような快

 感を追い始めていた。激しすぎる動作で息も絶えそうになっている彼女に、気を失わせる

 ような最後の一押しだけは与えない。


  友雅はあかねに狂っていく自分を、どこか楽しんで、ひたすらに契り続けた。まず一度、

 彼女の内に自らを解き放ったところで、それはなお狂おしい乾きしか呼ばず、求めても求

 めても際限のない修羅の森に踏みいってしまったようだった。


  はからずも激しすぎる新床を受け入れさせられた彼女こそは、自分を憎むだろう。

  それでもかまわなかった。

  愛と憎悪は表裏一体で、彼女が与えてくれる罰なら、望んで受け入れることができる。

  なんの返しもなく、感じられることもなく、何もなかったことにして、忘れられること

 こそ耐えられないことだ、と今更ながら友雅は思い知った。

  どうして「忘れてくれ」などと言えたのか。あかねが友雅を見限ったのは当然だ。

  今、この時、もうどうなっても、というこの時ならば、彼女に結末を、ゆだねることが

 できそうだった。この狂恋を断ち切ることができるのは、ただ、あかねだけだ。



  なぜ、そこに、そんな物騒なものを持ち込んでいたのか。

  脇にうち捨てられた衣の下から、友雅は懐剣と呼んだ方がいいほど小さな小太刀を手に

 取ると、天翔る龍の蒔絵のほどこされた鞘からそれを引き抜いた。

  枕上の灯りに抜き身の刃が光る。涙で曇ったあかねの目にもその光は届いただろう。

  友雅は自分の下で荒い息をついているあかねの手に小太刀を握らせた。

 「私を憎むかい? ならばいっそ私を殺しておくれ。こんな狂った物思いを、君の手で終

 わらせてくれるなら本望だよ」

  あかねは一瞬呆然として、それから激しく首を振って、小太刀を手放そうとする。

 「ひど……ひどい………そんなこと、私にできるわけな……って……知ってるくせにっ…

 ………」

  涙はあとからあとから、とめどなくあふれている。

  腰から下をつないだまま、己の首に刃先を向けさせようとしたが、あかねは握らされた

 小太刀を友雅の拘束からもぎ離すと、あらんかぎりの力で投げやった。小太刀はにぶい音

 をたてて部屋にあった屏風に当たり、紙の裂ける音とともに床に落ちた。

 「私を退けないの? 今ならできたのに……ならば、もう……」

  汗ですべる肌をさらに重ねあわせ、すり上げ、くねらせる。

  唇に唇を。手と手を。胸と胸もぴったり重ねて、舌も、足をもからませて。

  妄執といい、愛執という。このように断ち切れない狂った情熱を知ってしまったことが、

 決して良いことだとは思えない。けれど、知らなかった頃には、すでに戻れず、ただ踏み

 出すしか術がないのだ。


  あかねはとんでもないものを目覚めさせてしまった。

  その咎(とが)を、今、彼女は受けている。友雅は自分の罪、自分の情欲に、あかねを

 引きずりこんだ。

  きょうより先は、朝も夜も、いや夢の中までも、こうして開いてしまった彼女のおもか

 げが、友雅を追い続けるだろう。

  白雪の肌、紅梅の唇、宝珠のような乳首や、貝殻のような手足の爪、かがやくばかりの

 裸身がそりかえるさまも、あざやかに刻みつけられてしまった。

  そうして溶け合う快楽を確かに分け合った事実を、忘れることなどできはしない。


 「私は地獄に堕ちるかな……。それでも、かまわないよ。たとえ、この身を八つ裂きにさ

 れても…………」


  明け方の空に月をとどめて、なお求めようとするあさましいまでの情熱。

  その暗い焔をさらに煽るあえぎが、また友雅の耳に響いて、彼は、いつ果てるともない

 行為を繰り返した。





                   【 終 】




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