憬文堂
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◆  何かに追われていた時、白梅の咲く北野の梅林で、
 妙に機嫌のいい友雅がしかられちゃったようだね……
 ◆

宵 闇 梅
仲秋 憬 




 睦月の内裏は毎日が行事続きで貴族たちは忙しい。

 殿上人たる左近衛府少将、橘友雅も多忙を極める。

 龍神の神子に仕える星の一族の末裔である藤姫から前もってそのことを聞いていた

あかねは、だからお正月のひと月は、あかねが身を寄せている左大臣家の土御門殿に

友雅がほとんど顔を見せなくても当然だと思っていた。

 現代の女子高生だったあかねは、神子を守る八葉の一人であった友雅と恋に落ちて、

役目を終えた後も、この異世界の京に残ったけれど、一方的に友雅を頼って困らせる

ことを良しとしたくなかった。

 少しくらいさみしくても、友雅の北の方として覚えなければいけない事はたくさん

あるので暇はない。

 和歌も手習いも琴も裁縫も、新年から勉強、勉強だ。

 むしろ勉強するなら、友雅の訪れは間遠な方がいいくらいだ。彼が来れば、終日、

寝間にこもりっきりになることも多いのだから。


 しかし、その睦月も半ばを過ぎた頃、久々に午後の明るいうちに友雅が通ってきて、

あかねの顔を見るなり、こう告げた。

「最近は忙しさにかまけて君と過ごすのもままならかっただろう? 初春の白梅でも

愛でに出かけようか?」

「え、いいんですか?」

「もちろん、二人きりで、そうっとだよ。姫君を外歩きに連れ出したなどと知れたら、

皆が許してくれないだろうから」

 この時ほんの少し後ろめたくためらう気持ちもあったのだが、もともと生涯、庭先

すら歩かず、ひたすら御簾の奥で恋人の訪れを待つだけの京の姫君生活が、あかねに

送れるわけがない。

 友雅が、なるべくあかねを窮屈な思いばかりをしないようにと気遣ってくれている

ことはよくわかるし、何よりあかねも久しぶりに昼間に友雅と出かけられることは、

とびきり嬉しいのだ。

 そんなわけで、あかねは下がっていた女房たちを呼び返さずに、一人で手早く身軽

な衣に着替えると、友と二人で、土御門殿を抜け出し、白梅の咲き乱れる北野の地へ

と向かった。



「うわぁ、梅の香りで苦しいくらいですね!」

 紅梅に白梅。少し小ぶりな木々の枝にかわいらしく咲く梅は、まだ厳しい寒さが残

る中で可憐に春を告げる木の花だ。満開の梅林を初めて目の前にするあかねが歓声を

あげると、友雅は笑って、駆け出さんばかりのあかねを彼の胸に引き寄せた。

「苦しいだって? それはいけない。こうして私に寄りかかっておいで」

「ああ、そんなんじゃないです。あんまりいい香りで胸がいっぱいで」

「梅の香りくらい気高いものはないね。桜をこそ一の花と言う人は多いけれど、この

香りの前では色あせるように感じることもあるよ」

「そうですね……どちらもステキで比べられないけど、でも、本当に梅の匂いは特別

ですね。梅花の香を合わせて同じようにしようとしても、とてもまね出来ない気がし

ます」

「まずはお手本を感じることができれば、あとは少しずつでいい。そっくり同じなら

いいと言うものではないからね。たいたときに梅香を思い出させる香ならいいのだよ」

 最近は香を合わせることも習っているあかねに、友雅は丁寧に説いてくれる。

 梅の木々の間をゆっくりと歩きながら、美しい花を目で楽しみ、芳しい香りをたっ

ぷりと吸って、あかねは晴れ晴れとした気分にたゆたっていた。

「そう、梅がとりわけ香るのは、このような昼日中ではないのだけれどね……」

 友雅の言葉に、あかねは興味を抱いた。

「じゃあ、いつなんですか?」

「姫君はご存じないかな?」

「ええ」

 真面目にうなずくあかねに、友雅はにっこり笑っておもむろにあかねの手を取った。

「他ならぬ私の神子殿に問われては、お教えしないわけにはいかないね」

「あのぉ、友雅さん……?」

 首をかしげているあかねの手を引いて、友雅はどんどん足を速めた。小柄なあかね

は、ほとんど小走りになって引っ張られていく。こんな性急な真似は、いつも優雅な

友雅に似つかわしくない。

「ちょっと、ねえ友雅さん! どうしたんですか?」

「幸い、この梅林の先に、私の乳母(めのと)の家があってね」

「は?」

 唐突な話の展開にあかねはついて行けない。

「もうすぐ日が落ちるけれど、すっかり闇に包まれるには、まだ時があるから」

「だったら帰らないと……黙って来ちゃったから、みんな心配しますよ」

「──春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる──」

 友雅が得々と歌を詠んだ。

「梅の香りは闇夜にこそ香るのだよ。君が知りたがったのだから、大人しくついてお

いで」

 友雅のこの妙な機嫌の良さに、あかねは覚えがあった。

 いつも夜、几帳を分けて床に入る時、燈台の火を落としてあかねの衣に手をかける

前の───。

「友雅さんっ! 何考えてるんですかっ!? だめです、だめーっ!」

「何が?」

「ここをどこだと思ってるんですか? こんな、こんな……」

「だってねえ、宵闇の梅を愛でたいと思し召したのは君だろう?」

「そんなこと言ってません」

「どんなに艶な香りがするか、知らずにいるということはないよ。その身で直に感じ

なければね」

「いいですっ、もう充分ですから!」

「方違え先で物忌みになった──ということにしようか」

「友雅さんっ!!」

「そんなに恐ろしい顔をしないでおくれ。私と一緒にいたくはないの?」

 あかねは知っている。

 この表情と、とろけるような声に騙されて、何度、死ぬほど恥ずかしい目にあった

ことか。

 骨身に染みて、わかっているはずなのに。

 梅の甘い香りに、あかねは頭がくらくらしてきた。たぶん友雅はお見通しなのだ。

「君と一緒に初めて迎える春の宵夢を……梅ヶ香に寄せて過ごす悦びを私に与えてく

れるね?」

 この言葉にどうやって抵抗すればいいのだろう。

 色めいた口説に持ち込まれては、しょせん、まだまだ初心なあかねに勝ち目はない。

 友雅の唇が、あかねの抵抗をあっさり奪い、龍神の神子であった少女は陥落した。



 ついさっきまで火がなくても明るかったはずなのに、いつ抱き合う互いも見えない

ほど暗い時間になっていたのか。冷たい外気から守るように、友雅はあかねを自分の

内に引き寄せて離さなかった。

 あかねはそのまま、濃密な梅の香りで満たされた闇の中の官能を、さんざんあばか

れるはめに陥る一夜を余儀なくさせられる。

「友雅さ……ん……もう、もう……っ」

「ほら……こうすると…………いい匂いだろう……? 梅……かな、いや……これは

君の…………」

「ああっ……ん」

 衣擦れの音、互いを求めるあえぎも何もかもが、闇に薫る梅に塗りこめられ、友雅

によってあかねの白い肌に散らされた紅梅の花びらのような跡とともに、確かな実感

を伴って深く刻み込まれたのだった。



 さて、こうして甘い一夜が明け、朝と言うにはもうずいぶんと日の高くなった時分。

 内裏からわざわざ、左近の少将の不在に困った近衛府の者たちが、この北野にまで

訪ねてきたのだ。

 乳母の家までやって来て、籠もっている友雅に言付けを残していったことで、その

たくらみは明るみに出た。梅の香りもかくやの甘いたくらみだ。

 びっしりと予定されている行事を放り出して追われる身であった友雅の陰謀に気づ

いた幼妻のあかねが、夫を見事にしかりつけて出仕させたことは、その後、長い間、

気まぐれな友雅の訪問にも快く世話をした乳母一家の、笑い話になったのである。




                 【 終 】




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