憬文堂
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長 春
仲秋 憬 




 元宮あかねは、その日、少なからず憂鬱だった。

 いくら前向きで、明るく元気なのが取柄と言っても、そうそう空元気ばかり続けて

いられれるものではない。まして龍神の神子などという分不相応な立場に置かれてい

る身としては。

 今日は怨霊の封印をあと少しのところで失敗し、場所を変えて試みた五行の力の具

現化もうまくいかず、新たな札を手に入れることもできなかった。

 いつものように夕刻には土御門殿へ戻ってきたが、正直、気持ちが沈んでしまって、

作り笑いも精一杯。早々に一人になるべく、送ってくれた八葉に礼を言い、世話を焼

こうとする藤姫と周囲を取り巻く女房たちに、疲れたので少し横になるからと言い置

いて、やっと自分の空間とも言える几帳の陰を確保した。ひざをかかえて畳に座り込

む。短いスカートも気にしない。誰もいないからできる格好だ。

 一人になるのがこんなに大変だなんて、考えたこともなかった。

 この京は、あかねの育った世界とは違い過ぎる。

「パスタ食べたい、少女マンガ読みたい、CD聴きたい、テレビ観たい……なぁ」

 側に人がいれば口にできないことをわざと言ってみる。

 せめて鞄のひとつも持って来ていたら、何か気が紛れるものや自分を慰めてくれる

ものがあったと思うのに、あかねは文字通り身一つで、こちらへ飛ばされて来てしま

った。

 寝起きしている左大臣家の屋敷は寝殿造りで時代劇でだってろくに見られないほど

広大だし、ベッドどころか布団もない。着物が布団を兼ねているのだ。屏風や几帳や

御簾に囲まれ、周りに控えているのは十二単のお姫様と、時代がかった貴族だの侍だ

の陰陽師だのである。言葉が通じているのが、むしろ不思議なほどだ。

 かと言って、月や星をながめて、自分の世界の夜空と同じだなどと、あかねは思え

ない。外灯などない真っ暗な京の夜、スモッグに邪魔されずに白く輝く天の川を自然

に見るのは生まれて初めてだったし、そもそもあかねは十六年の人生において月や星

をながめて愛でるなんて、ろくにしたことはなかった。懐かしい郷愁も何もありはし

ない。

「……だめ、考えちゃ……」

 無理矢理ぶんぶんと頭を振って気を取り直す。御簾の奥にいるよりは、庭にでも出

た方がいいかもしれない。龍神の神子に仕えるのが至上の役目とばかりに幼いながら

も張り切っている星の一族の末裔、藤姫が、神子のために用意していた庭は、それは

見事なものだった。

 あかねは立ち上がり、御簾をかき上げ、簀子の階から庭へ出た。

 京へ来たばかりの頃は、桜が咲いていた。桜なら、まだ学校や公園でなじみがあっ

た。今は春の終わりを告げる藤がこぼれんばかりに咲いている。足下には桃色のなで

しこが。池の近くには、かきつばたが咲き始め、卯の花や橘もつぼみをつけている。

松の緑が瑞々しく立派な枝振りだ。名前はわからないが、凛として美しい草木と花々。

流れる水。よく手入れをされた自然を模した立派な日本庭園だ。

 あかねはそんな庭をゆっくりと歩きながら、まったく気分が晴れないことに、気が

ついていた。

「みんな……うちには無かった花ばっかり」

 左大臣家の庭は、あかねの脳裏にある庭の姿とかけ離れている。

 座っていても全部が見渡せるほどの広さだったけれど、ここ数年、すっかりガーデ

ニングにはまっていた母は、季節の花々を代わる代わる植え替えて育てていた。朝夕

の水まきを何度手伝わされただろう。

 三色すみれにチューリップ。マーガレットにゼラニウム。マリーゴールドにカンパ

ニュラ。手入れにとりわけ手がかかる赤いバラ。ミントやバジルやローズマリーのハ

ーブも植えて、時々料理に使っていたっけ。あの夕方の庭では──。

「お母さん…………」

 いけない。あかねは思わず両手の指先で自分の口を押さえた。

 懐かしくすがれる心のよりどころになるものが全く無いと、むしろ病がひどくなる。

今まで、草木や花は、現代とそれほど変わらないように思えて慰められていたのだが、

今日はそれも効果がないらしい。重傷だ。

 一人でいるのが、かえっていけないのかもしれない。

 でも、今日はもう、みんなの龍神の神子でいるのがつらいのだ。

 かと言って同じ世界から飛ばされて、神子を守り戦うのが役目という八葉になって

しまった、友人の天真や詩紋を呼び出して頼るのも、ためらわれた。彼らにもそれぞ

れやることがあり、何より巻き込まれたのは、神子に選ばれてしまったあかねのせい

らしいのに、当の本人であるあかねが彼らに向かって弱音をはくわけにはいかない。

「だめだめだめーっ!!」

 あかねは思わず叫んで、池に背を向けると、バタバタと自室へ駆け戻り、几帳で隔

てた寝間へ飛び込むと、畳の上で袿を引きかぶってうずくまる。もうこのまま寝られ

るものなら眠ってしまいたい。

 自分は運がいいんだ。めったにできない経験をしてる。

 かわいいお姫様や芸能人顔負けのかっこいい男性達に囲まれて、自分にしかできな

いらしい、やりがいのある役目をもらって。こんな夢、見ようとしたって見られない。

だから頑張れ。もっと頑張れる。まだ大丈夫。……大丈夫だ。……たぶん。

「神子様、何かございましたでしょうか?」

 几帳の向こうから、いつも世話をしてくれるなじみの女房の声がする。こんな時で

も、いや、こんな時だからか、放っておいてはもえらえないようだ。あかねは袿から

顔だけ出して返事をした。

「何でもないの。ごめんなさい。もう今日は休むから、呼ばない限り、放っておいて

ください」

「……左様でございますか」

「お願いします。急用じゃなければ取り次がないで欲しいんです」

「かしこまりました。……あ、でも……あの、つい今し方、神子様にお文が参りまし

た。こちらは、いかが致しましょうか」

「私にお文? 藤姫を通さないで?」

 あかねは首をかしげた。物忌みについていてもらうお願いの文を八葉に出すのだっ

て、いつも藤姫を介して出している。

 そもそも京の常識で和歌などもらったところで、流麗な筆文字など、あかねにとっ

て英語よりも解読不可能な宇宙語に等しい。誰かの手助け無しで読むことは不可能だ。

意味のわからない文を他人に読んでもらい、返事をするなら代筆を頼んで……といっ

た一連のやりとりをこなす気力が今のあかねにはなかった。

「ごめんなさい……今、見ないとだめですか?」

「そのようなことはないと存じますが……」

 相手を困らせていることがわかり、あかねはため息をついた。

「じゃあ置いといてください。後で見ます」

「承知いたしました」

 何やら物を置く気配と衣擦れの音がして、しばらくすると、また静寂が戻って来た。

 本当は寂しいなら人を呼んで、他愛のないおしゃべりでもして気を紛らわせた方が

いいことは、あかねにもわかっている。

 しかし、そうやって一時はしのいでも、京を救うことができなければ、何の解決に

もならないのだ。今日はもうそんな気持ちになれないのだから仕方がない。

 せめて懐かしい夢でも見たい。そうしたら早く帰るために頑張ろうという気になる

かもしれない。

 だが、無理に眠ろうとすると、ますます目は冴えてくる。体の疲れはそれほどでも

なく、ただ気持ちばかりが鬱々とするだけだ。

 それでもしばらくは数を数えたり、ごろごろと寝返りを打ったりしてみたが、眠気

を誘う効果はなかった。いっそ読めない文でもながめれば眠くなるかもしれない。

唐突にそんな気分になった。



 あかねはぱっと跳ね起きると、畳を降りて、几帳で囲まれた寝床を出た。まだ御簾

の向こうの蔀は下ろしていないようだが、すでに部屋の中はすっかり暗くなっていた。

 きょろきょろと見回して、部屋の片隅の文台に、文が置いてあるのが目に入った。

早足で近寄ってみて、あかねは驚いた。

「これバラじゃないの!?」

 細長い文箱の上に添えてあった一輪のひらきかけた濃い色の花が、あかねに我を忘

れさせた。

 あかねは躊躇なく花を手に取る。幾重にもかさなる花びらといい、しっかりした茎

の堅さといい、えもいわれぬ香りといい、まぎれもなく薔薇の花のようだ。

 もっとよく見たくて、あかねは花を手にしたまま、御簾をくぐって、廂の間から外

へ開いている簀子に出た。

 黄昏の薄暮の中で見る花は、どう見ても紅い薔薇だ。

「やっぱりバラだ……どうして……」

「──我はけさ初にぞ見つる花の色をあだなる物といふべかりけり」

「友雅さんっ!!」

 すぐ脇で思っても見ない声を聴き、あかねは腰が抜けそうになった。

 廂の間と簀子を隔てている妻戸に寄りかかるようにして座り、片手で扇をもてあそ

んでいたのは、八葉のうち、地の白虎にして左近衛府少将、橘友雅だった。

「やあ、雲居に隠れていた月の姫がお出ましになられたね。お加減は、もうよろしい

のかい?」

「なんで、友雅さん、こんな所にいるんですか?」

「しーっ。そう大きな声を上げないで。まあこちらへ座るといいよ」

 友雅はゆっくりと手にしていた扇で、あかねに腰を下ろすよう指し示す。あかねは

言われるままに友雅の隣にぺたんと座った。

「神子殿は本日の散策でひどくお疲れで、夕刻にお目通りはかなわないと言われてし

まったからね。それでも気配なりとも感じたくて、こうして妻戸の外に忍んでいたの

だよ」

 ふっと微笑む男に、構えたところは何一つない。それは倍の年の差からくる余裕と

言うよりは、友雅がそういう質だからだろう。

 本気を見せず、常にゆったりと優雅で、恋多き人だという艶めいた大人の男を、あ

かねは苦手に思うこともあった。しかしそれでいて近寄りがたい雰囲気にはならない

のが友雅の不思議なところだ。

「そうびはお気に召したようだね」

「そうび? この花は『そうび』って言うんですか? バラじゃなくて? 友雅さん

が私にくださったんですか?」

「唐渡りの珍しい花でね。今朝ちょうどつぼみが美しくほころんだというのを譲り受

けたから、君に差し上げたかったのだよ。残念ながら朝のお出ましには間に合わなく

て、君が他の八葉と連れだって出かける後ろ姿を見送るはめになってしまったがね。

ばら……という花は、存じ上げないけれど、この花は『そうび』と呼ばれているね」

「ありがとうございます。バラじゃないんですね。……でもそっくりだから呼び名が

違うだけかも。……あ、この花には、とげがないですね。バラってとげがあるんです

よ。じゃあやっぱり違う花なのかな。よく似てるから同じ仲間って気もしますけど」

「そうかもしれないよ」

 友雅が微笑む。

「私のうちの庭にもバラがあったんです。こんなお屋敷の広い庭じゃなくて、ほんと

に小さい家の庭だけど……お母さんがいつも……」

 そこまで言ってあかねは黙ってしまった。

 ぱたぱたっと、そうびの花に露が落ちる。

「あ、あれ……っ、ご、ごめんなさい、おかしいな」

 あわてて目をこすろうと上げた片手を、友雅に取られて、あかねはそのまま固まっ

てしまった。

 息がかかりそうなほどの近さ。友雅が体を少しあかねをのぞきこむようにしただけ

で、あかねの視界は友雅だけになってしまう。

「かまわないから、そのままでね。無理にこすったりしてはいけない。よかったら、

ばら……という花のことを聞かせてくれまいか。私が花に興味があるのをご存じだろ

う?」

「あ……あの…………」

「うん?」

 友雅に取られたままの手が急に熱を帯びたようで、離してほしいのだけれど、友雅

はしっかり握って離してくれなかった。

「そうびって、どんな字を書くんですか?」

「どんな……って、ああ、君の国では女人も真名を使うのだったね」

 友雅は、握りこんでいたあかねの左手を自分の膝の上で広げると、少女の手のひら

に人差し指でゆっくりと複雑な二文字を書いてみせた。

「やっぱり! 薔薇って同じ字です。こっちは、そうびって読むんだ」

「そう。では神子殿の言われる通り、同じ花なのではないかな」

「そうですよね。この京と私のいた世界って、ちゃんとつながってるんですね、きっ

と……」

 あかねは嬉しくなってきた。

「友雅さんって花だったら木蓮とか橘が好きでしたよね? その着物の模様は牡丹で

しょう? そういう和風な花が京の友雅さんには似合ってますけど、もし、友雅さん

が私の世界の人だったら、バラの花束が似合うなって思っていたの。普通、あんまり

男の人が花を持つところなんて想像しないんですけど、友雅さんだったら似合いそう」

「お褒めの言葉と受け取っていいのかな」

「もちろん!」

「ありがとう。うれしいよ」

 正面から礼を言われて、あかねは頬が熱くなるのを感じたが、照れ隠しも手伝って、

さらに話し続けた。

「……このそうびは赤い花ですけど、バラってたくさん色があるんです。桃色とか黄

色とか白とか。でもやっぱり赤が一番いろんな種類があるかなぁ。一番華やかでバラ

らしい感じがします。そうそう、でも青いバラってないんですよ。作ろうとしている

人が大勢いますけど、まだできてないみたい。紫のバラは、あるんですけどね」

「咲く花の色を変えるようなことができるのかい?」

「みたいですよ。白い花と赤い花を側に植えておくと、桃色の花の株が育ったりする

ことあるから、そういうのを最初から目指してやるんじゃないかな。木だったら接ぎ

木をするとか……。私も詳しいやり方は知らないんですけど」

「なるほどね」

「花の色ごとに花言葉っていう意味があって、贈り物にする時は調べたりして」

「それは気になるね」

「でしょう? こちらだったら自分で歌を作って合わせるんだから、そっちの方が難

しいし大変だけど、でも友雅さんだったら、決まった花言葉だけじゃ、つまらないっ

て感じるかもしれないですね」

「どうだろうねえ」

「赤いバラはプロポーズ……っと、結婚の申し込みによく贈られるんです。つぼみだ

と恋の告白で……。男性が女性に赤いバラを贈るなら恋人とか特別に好きな人でない

と。誤解されちゃまずいでしょう?」

「確かに誤解はされたくはないな」

「ええ、そうですよね……」

 しゃべり通しで、ふっと息をついたあかねが横を見ると、友雅が思いがけず真面目

な目をしていたので、少し驚いた。好奇心から面白がってくれているのだと思ってい

たのに、いつもと感じが違って見えるのは夕暮れのほの暗さのせいだろうか。

 何を話そうかと一瞬ためらうと、今度は友雅が口を開いた。

「そうびの花は、季節を問わず繰り返し咲くので『長春』とも呼ぶのだよ。永遠に続

く春など、私も信じてはいないけれど……そうびを眺めていると、そんな希有な花も

あるのなら、手に入れたいものだと初めて思ってね」

「友雅さんがそんな風に思うのって珍しいんじゃないですか?」

「そうだね。異国の可憐な花だ。執着してはいけないとわかっているのだけれどね」

「じゃあ私がもらったりしちゃ」

「君に差し上げたかったのだから、いいのだよ。ひととき神子殿のなぐさめになった

なら、どんなにか花も嬉しいだろうしね」

「私より……友雅さんの方が……」

「私の方が?」



 気がつくと必要以上に友雅が側にいる。互いの袖が重なり、瞳をのぞきこまれるよ

うにして、これでは、まるで──。


 あかねは思わず薔薇の花を両手で口元を隠すように捧げ持つ。

 甘い香りはめまいをさそう。たそがれのかすかな薄紫の光の中で何かの呪文にかか

りそうだ。

「何にも代え難く、どうしても欲しい物が私にできたら……今まで、そんなことは決

して起こらないと思っていたけれど、もしも……」

 友雅が何を言おうとしているのか、あかねにはわからなかった。

 ただ胸の鼓動がおそろしい速さになっている。

 目を閉じることも、それ以上、何かを言うこともできなかった。

 唇と唇の間に薔薇がある。

 あかねの唇にも友雅の唇にも、その花びらがふれていた。




 どれくらいそうしていたか、わからない。すっかり頭がしびれて、物が考えられな

くなったあかねに、友雅の方から声がかかった。

「神子殿」

「ははははははいっ」

 魔法を解かれたように、勝手に口が動いて、あわてて返事をすると、友雅は小さく

笑った。二人の間は、並んで座っているだけの距離に戻っていた。

「ひとつ確かめたいのだけれど、神子殿の国のばらの花と、このそうびが同じ花なら、

私は神子殿に妻問いをしたということになるのかな」

「えええええぇーっ!!」

 あかねは大声を上げてしまった。

「そんなに驚くことかい?」

「だって友雅さん、そんなつもりがないの、わかってますもん。誤解されたくないっ

て言ったじゃないですか!」

「お送りした文を、まだ見てくれていないね、君は」

「文って……歌ですか? あ、ごめんなさい。え、でもっ。……ああ、またからかっ

てるんですね? ヤダなぁ……もう……」

「──我はけさ初にぞ見つる花の色をあだなる物といふべかりけり」

 友雅は、さらりと歌を詠む。

「どういう意味か……聞いてもいいですか?」

「──私は今朝、初めて『そうび』を見たよ。この花の色はこれまで見たこともない

艶なるものと言うべきものだね──」

「恋愛とは……関係なさそうですけど」

「そういうことにしておこうか」

 友雅がよく見せる、少し意地悪な面白がっている笑顔になった。

「友雅さんっ!!」

「ああ、そんなに大きな声を出さないでおくれ。せっかく人払いをしていたのに」

「は? 今なんて?」

「もうすっかり日が暮れるよ。夏とはいえ、こんなところに姫君をいつまでも座らせ

ていてはいけなかったね。さ、中に入ってお休み。何なら添伏して差し上げたい処だ

けれど」

「添伏って……」

「ともに夜を過ごして枕を交わそうかと」

「遠慮しますっ」

 あかねが力いっぱい断って、おもむろに立ち上がるのを、友雅は笑ってながめてい

た。

 向かいの簀子の先から、蔀戸の格子を下ろしに人が近づいて来ていた。釣り灯籠に

も火を入れている。もう、あたりはすっかり日が落ちて暗くなった。



「もう聞いてしまったからね。今度、私が君に花を贈る時は心構えをしておきなさい」

 御簾を上げて中へ入ろうとしていたあかねは、そう言われて、思わず振り返って友

雅を見た。

「あの、この薔薇を、いただいたら……」

「返すくらいなら捨てておくれ」

「捨てたりなんてしません!」

「もちろん神子殿は、そのようなことをなさるわけがない。信じているとも。この次

に贈る花の話だよ。安心しておいで」

 そう告げる友雅の顔が今まであかねの見たことのない心から楽しそうな笑顔だった

ので、あかねもついつられて笑ってしまった。

 友雅は本当に不思議な人だと、あかねは思う。

 嘘とも真実ともつかない言葉が入り交じり迷路になっているような人なのに、時々

とても近くにいて、口に出さない彼の気遣いが、すうっとこちらの胸にしみるように

伝わるのだ。

 彼の心の奥底も、その時、ほんの少しだけ見えるような気がする。

 あかねのホームシックは、いつのまにか、どこかへすっかり消えていた。

「おやすみ、神子殿、よい夢路を。長い春の夢を見られるように」

「おやすみなさい、友雅さん」

 友雅のつややかな美声でそう言われると、素直に返事をしないといけない気持ちに

なってしまう。

 今夜は、この薔薇を枕元に置いて寝よう。




 友雅があかねに、この次いつ、どこで、何の花を贈るつもりなのか、誰も知らない。

 あかね自身も何を言われたのか、気づいていない。

 龍神の神子が京に降臨して三月が経とうという頃。

 季節を越えて繰り返し咲く薔薇が、中でもとりわけ美しく咲く五月の夕の話である。



                 【 終 】





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