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左近衛府少将橘友雅の就寝事情
仲秋 憬 




  つい先の夏、鬼、怨霊のもたらす災厄から、京を救った龍神の神子、その名を元宮

 あかねという。

  この異界より召還された神子姫を、役目を果たしたその後も京に引き留め、神子が

 身を寄せていた左大臣家から、さらうようにして自邸に連れ去り、周囲に事後承諾で

 己の北の方、つまり正妻としたのが、神子を守る八葉の内の地の白虎、最も年長で、

 それまで艶聞に事欠かなかった……要するに、今さら清らかな神子姫に入れ込むこと

 など絶対になさそうな、左近衛府少将、橘友雅であったことに、京の誰もが驚いた。

  しかし、数多の美姫才媛と浮名を流してきた色男の少将が、龍神の神子に執心のあ

 まり、その暮らしぶりを一変させたことは、今や以前の彼を知る全ての者が認めると

 ころである。

 「情熱とは桃源郷に輝く月」だなどと言っていた男が、生まれて初めての情熱を、十

 六という年の割には幼げな神子姫に見出してしまったものだから、男の変わり様たる

 や、並々ではおさまらない。

  まず一番に変わったのは、外歩き、ことに夜の外出が、激減したことである。

  理由は言わずもがな、少将にとって、自邸に囲う神子姫と夜を過ごすことが、彼の

 至上の時となったからだ。

  橘少将の夜、推して知るべし。

  それまでの彼の経験を考えると、いたいけな少女が、夜な夜などれほどの目に遭っ

 ているか興味をそそられないと言えば嘘になるが、触らぬ神にたたり無し。

  こと内裏で少将と関わる人々は、以前に比べて、物忌みだの持病だので屋敷に引き

 籠もることが異様に増えた彼を、夜宴や宿直(とのい)に引っぱり出すのに、かなり

 苦労するようになってしまったが、己の日常の平安を守るため、黙って構わず放って

 おくことが暗黙の了解になりつつあった。


  ところで、当の、龍神の神子姫を妻として、やりたい放題、幸せ一杯に見える左近

 の少将にも、物思いが無いわけではない。

  悩みというのは他でもない。彼の最愛の神子姫のことである。


  もともと彼女は神子として働いていた折、自ら怨霊を封印したり、穢れや呪詛を祓

 うために、男の八葉と連れ立って京中を奔走していた過去を持つ。生まれてから自邸

 の庭も歩いたことのないのが当たり前の貴族の姫君とは、まったく存在を異にする女

 人だ。

  そうでなくても神子姫の育ってきた異界の暮らしは、京の暮らしとは、天と地ほど

 に違うらしい。その人に、自分の妻になったことで、かなり窮屈な生活を強いている

 という負い目が少なからず少将にはあった。

  それゆえ、彼は、彼女を全身全霊で守り愛おしむのはもちろんのこと、できるだけ

 姫君の日々の暮らしを居心地の良いものにして、京の自分の元へと残ったことを決し

 て後悔させまいと、己に誓っているのである。


  そんな少将であるから、近頃、神子姫の夜の様子がおかしいことに気が付くのは早

 かった。この辺りの眼力は、さすが色好みで鳴らしただけのことはある。


  神子姫は、本来、溌剌として明るく風のように軽やかな人なのに、このところ心な

 しか大人しく、面差しもわずかに、やつれて見える。

  少将に見せる笑顔は変わらず暖かく優しいのだが、何かの拍子に、ほんの少し憂い

 の影がさしているように感じることもある。

  元々、華奢な体つきの人だが、その細い体躯を抱くと、どうも澱(おり)のように

 疲れがたまっている、という気さえする。

  何より、夜、ふたりで床に就く時に、とりわけそんなことを強く感じるものだから、

 少将としては気が気ではない。夜の事情は夫婦にとって、かなり重要な問題である。

  こう言っては何だが、二人の体の相性は、少将のこれまでの常より豊かすぎる経験

 を持ってしても、紛れもなく最上のものであったから、これをいやがってのこととは

 思えない。海千山千の少将は、恥ずかしがりの初心な姫を夜毎、翻弄しまくり、泣か

 せてしまうこともしばしばなのだが、そこはそれ、最後は、互いに睦み合う喜びを、

 体にも心にも、しっかりと刻み込んでいるという手応えがある。伊達に姫君の倍も年

 を重ねているわけでなし、これは間違いないと少将は思う。

  幼い人にありがちな、枕を交わすこと自体を厭うわけでないとすると、神子姫の、

 この憂いの様子、気怠げなぼんやりとした感じは、彼女の眠りの浅さによるものでは

 ないか──と、少将は思い至った。



  いずれにせよ、このまま放っておいては、姫が衰弱して病に伏してしまうとも限ら

 ない。一度、本人にきちんと確かめねばと、ある朝、少将は、まず神子姫に直接尋ね

 てみることにした。

 「ねえ、あかね。君はこのところ、ぼんやりしていることが多くないかい? お顔の

 色も良くないよ。私の気のせいでなければ、どうも夜、床に入るのを遠慮しているよ

 うに思うのだけれどね」

 「……そんなことないですよ」

  返事が返るまでのほんの少しのためらいは、当たらずしも遠からずといったところ

 か。

 「おや、本当に? 私に隠し事はしないでおくれ。誰より側にいるのだから、君の様

 子がおかしいのはお見通しだ。もしかして君は、私が仕事で留守にしている昼の間も、

 ろくに休んでいないのじゃないかな」

  これを聞いた神子姫がさっと顔色を変えたので、少将は自分の推測が当たっている

 ことを確信した。

 「え……どうして……」

  うろたえた表情の姫君に少将は微笑んで見せた。

 「夜、ゆっくり眠らせてあげられないのは私のせいかもしれないけれど、私が出仕の

 間は、のんびり昼寝でもしていてかまわないのだよ。私だって内裏や左近衛府で適当

 に力を抜いて休んでいるのだし」

 「えぇ?! ……大丈夫なんですか?」

 「ああ、もちろん」

  少将の仕事ぶりに文句のひとつも言いたい同僚や部下は少なからずいるだろうが、

 幸か不幸か、そのことを神子姫に告げられる者はいなかった。

 「なのに屋敷にいるはずの君の方が休めないとは困ったね」

 「あのでも、私、無理なんてしてないし……まだ、ここの生活に慣れてないだけじゃ

 ないかなって」

 「何か足りない物でも、あるのではない? 以前、過ごされていた左大臣家のように

 はいかなくても、私もそれなりの暮らしはできる身だし、まして君に不自由させるつ

 もりはないよ」

 「足りないなんて、そんな、もう充分です。むしろ体を動かしてないのがいけないん

 じゃないかと思うんです。ほら、龍神の神子だった時は、毎日外出して、あちこち出

 歩いていたでしょ? ……だったら、あの頃みたいに、お散歩でいいから外へ出かけ

 てもいいですか?」

 「ああ……、それは許してあげられないな。いくら鬼や怨霊の騒ぎが減ったとは云え、

 まだまだ京は物騒だ。もしも、ひとり歩きの最中に何かあったらと思うと、私は参内

 の間、心配のあまり気が変になってしまうよ。私の命を、これ以上縮めたくないなら、

 それは勘弁してくれまいか」

 「友雅さんが死んじゃうなんてイヤです」

 「そうだろう? 私だって、君を残して先立つなんて耐えられないよ。だから、教え

 ておくれ。何が君を悩ませているのか」

 「本当に何でもないですって。友雅さんの気のせいです」

  神子姫があんまりしっかり請け負うものだから、少将もそれ以上の追求はあきらめ、

 その日は、気がかりを残しつつ、そのまま参内することにした。





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