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李 も 桃 も
仲秋 憬 



  その日は日曜日だった。

  数年ぶりに、この春の節句を祝う主役が戻ってきた森村家では、来客を迎える準備に

 余念がなかった。

  そしてこの会の当の主役である一人娘の蘭は、腰まであるまっすぐな黒髪を古風に三

 つ編みにし、普段はめったに袖を通さない赤い絣の着物姿で、朝から人待ち顔だった。

  彼女にとって、主賓である親友の元宮あかねが、今日、無事に一人でやって来るかど

 うかが大問題なのである。約束している休日だからといって油断はできないのだ。招待

 した時間である正午は、もうすぐだ。

  台所で彼女が手伝えることもあらかた終わると、後はいつ呼び鈴が鳴ってもいいよう

 に、インターフォンの側で立ったり座ったり、あげく、表の通りが見える窓辺にはりつ

 いて外をながめては、ため息をつくことを繰り返した。

  兄の天真はそんな妹を見て、呆れたように声をかけた。

 「もう半月も前からOKもらって念押ししてたんだろ? 約束やぶるようなヤツじゃな

 いから、少しは落ち着いて待ってろよ。客間には、もう詩紋も来てるんだし」

 「のんきね、お兄ちゃんは。そんな風だから出し抜かれるのよ」

 「……ほっとけよ」

  辛辣な妹の言葉に、年子の兄は小声で返して肩をすくめた。

  ちょうどその絶妙なタイミングで呼び鈴がなった。

 「来たわ!」

  ぱっと華やかな笑顔になった美少女は、インターホンも取らずに、扉の前に立ってい

 た兄を軽く突いてどかすと、大事な女友達を出迎えるためにパタパタと玄関へ駆け出た。



  蘭が待ちかねていたあかねは、Aラインのすんなりしたオフホワイトのワンピースに

 サーモンピンクのニットのボレロという姿で、上に淡い若草色のスプリングコートをは

 おった、清楚ながらも女子高生としてはそれなりのおめかしをして、森村家へとやって

 来た。

 「お招きありがとう! わぁ、蘭ちゃん、かわいい」

 「そう? なんだか子供っぽくない?」

 「ううん! 蘭ちゃん着物似合うね。うらやましいな」

  蘭を見るなり、目を輝かせて賛辞を口にするあかねに、蘭はほんの少し照れた。

 「カッコだけだぞ、こいつは」

 「お兄ちゃん!」

  後ろからずかずかと入り込んできた兄の天真を、蘭はにらみつける。

 「ほら、ケンカしないで。天真くんは身内だからわからないんだよ」

 「いいのよ。お兄ちゃんなんか、どう思ってたって」

 「蘭ちゃんてば」

  あかねがすかさず取りなそうとするのに、蘭は、はっとして玄関に立ちんぼのあかね

 の手を取った。

 「とにかくあがって。お母さんはりきってるの。高校生にもなって、ひなまつりだなん

 て、小学校や幼稚園じゃないんだからって言ったのに」

 「年は関係ないって。お呼ばれなんて、うれしいよ」

  あかねの言葉に、彼女の脱いだコートをハンガーにかけながら、蘭はにっこり笑った。



  森村家にたったひとつある和室の八畳間には、蘭やあかねの背丈ほどもある緋毛氈の

 段々に美しいひな人形が飾られていた。一人娘の蘭のための雛飾りは、その心入れがわ

 かる見事さで、部屋へ案内されたあかねは思わず歓声をあげた。

 「すごーい!! なんてきれい……。立派なおひな様だね」

 「あぁ、あかねちゃん、来た来た!」

 「詩紋くん、もう来てたんだ」

  ひな人形ばかりに目がいって、その横で、きちんと正座していた後輩の詩紋に、あか

 ねが、ようやく気がついた。

 「これでお客様がそろったわね。じゃあ白酒で乾杯しましょ。お兄ちゃん、お母さんに

 言ってお料理運ぶの手伝って」

  蘭が、てきぱきと段取りを指示して、仲良し四人のひなまつりの会は幕を開けた。




  白酒こそお子様向けのアルコール分のない甘いものだったが、食事の方は本格的で、

 春を告げるさよりの菜種和え、白魚の卵豆腐には京人参や菜の花、筍、木の芽があしら

 われ、香ばしく焼かれた甘鯛の幽庵焼に、粟麩と合鴨、ほうれん草のたき合せ、はまぐ

 りの潮汁は言うに及ばず、大きな貝殻につめられたまき海老の手毬寿司に、緑がまぶし

 い蕗新青煮、はじかみを添えた蟹の酢の物まで、子供のひなまつりには過ぎるほどの献

 立が並んだ。

  天真と蘭の母は懐石の心得もあり、ずいぶんと料理上手だった。お呼ばれされたあか

 ねと詩紋は、すっかりこの美しい食事に夢中の様子だ。



 「おいしい!! こんなにちゃんとお家で和食のごちそういただくなんて初めて。今度、

 おばさまに作り方教わりたいなぁ」

 「あかねちゃんとこのお母さんだって上手じゃない。いつだったか、ごちそうになった

 クリームシチュー、すごくおいしかったよ」

  蘭が言うとあかねは首を振る。

 「うちは普通だよ。こんなお料理屋さんみたいには、できないもん。私が手伝える程度

 だし」

 「へぇ、蘭なんか普段はろくに手伝わないぜ」

 「うるさいわよ、お兄ちゃん」

 「幸せー。こんなにおいしいお料理作れる人がお母さんや奥さんだったら、いいよねえ」

  あかねは、青々とした蕗を口に運んで味わってから、うっとりとため息をつくように

 して言った。

 「お料理は、おいしいって食べてくれる人が身近にいるとうまくなるから、あかねちゃ

 んだったら、すぐ上手になるよ。ボクだって、お菓子作るの好きになったのは、みんな

 がおいしいってほめてくれたからだもの」

  詩紋の言葉にあかねが頬を染める。

 「そ、そうかな」

 「うん、きっとね」

  詩紋とあかねの、このやりとりに、蘭は少し顔をしかめた。

 「今から嫁入り修行すればなんて言うわけじゃないわよね」

 「そんなつもりじゃないって」

  詩紋が慌てて否定する。

 「ならいいけど。好きでやるならともかく、人に合わせて無理しないで。今度選ぶ進路

 コースだって自分のやりたいことを選ばないとダメよ」

 「ありがと、蘭ちゃん」

 「何で、そこで礼なんか言うんだ?」

  天真が心底不思議そうにつぶやくと、あかねは笑って答えた。

 「蘭ちゃんは本当に私のこと気遣ってくれてるでしょ。だから」

 「これだもの。あかねちゃんの心配なんて、いくらしたってしたりないわ」

  蘭は、やれやれという風に両手を上げてみせた。



  たっぷりしたひなまつりのごちそうの最後には、桃の実や菱餅をかたどった和菓子と、

 あかねが手みやげに持参した草餅、詩紋のお手製の和風ロールケーキ、それからお決ま

 りのひなあられが出され、蘭が少しあぶなげな手つきで、盆略点前を披露して薄茶を点

 てた。

 「日本人っていいよね」

  異国の血が入っていることが見ただけで明らかな金髪碧眼の詩紋が、抹茶をすすりつ

 つ、しみじみとつぶやくのは、知らない者が見れば、なかなか面白い光景であるかもし

 れない。

  天真が、自分の家でも一年に一度の飾り付けの前で、どこか遠くを見る目をした。

 「このひな人形だって、昔の帝やお后を人形にしてるんだよなあ。あそこにいた奴らは、

 こういう格好してたよな。道具もこんな感じだった」

 「ボクたちが呼ばれた京は、日本史で勉強した平安時代そのまんまとは違ってたみたい

 だけどね」

 「不思議だな」

  天真と詩紋のやりとりには、共通の感慨があった。




  ここに集まっている四人は、ちょうど一年前の春、遙か彼方の異世界である京の都に

 あって、一時、運命を翻弄された仲間であった。

  あかねは、京の危機を救う龍神の神子として。

  天真と詩紋は、神子を支える八葉として。

  そして、蘭は彼ら三人より先に鬼の手によって召還され、心ならずも敵として相対す

 ることになってしまった、つらいいきさつがあった。

  最後には、あかね達がその蘭をも助け出し、自分たちの世界へ帰ってこられたことは、

 彼らにとって、幸運だった。



  立派なひな飾りをながめつつ、京でのあれこれに思いを馳せていたのか黙っていたあ

 かねが、ふいに声を上げた。

 「蘭ちゃんところのお内裏さまも、髪はたらしてないよね」

 「どういうこと?」

 「うん、うちの人形は、こんなに大きくないんだけど、お内裏様はね、髪をたらしてる

 の。お姫様より少し短いだけでね。烏帽子はかぶってるんだけど……」

 「それは、わりと珍しいかもね」

 「私、小さい時から、ひなまつりの時はずっとそれを見ていたから、お内裏さまって、

 こういう格好なんだって思ってたんだけど」

  あかねがくすりと笑った。

 「あのね、今、思うと、京での友雅さんみたいだったなって」

  長い髪を結い上げずになびかせていた優雅な都人の面影がよぎる。

  それを聞いた途端、あかね以外の三人は、笑うべきか呆れるべきか迷った複雑な表情

 になったが、自分の回想に思いだし笑いをしていたらしいあかねは、この微妙な空気に

 気付く様子はない。

 「あかねちゃん……それって重症」

  ようやく絞り出すように蘭が言った言葉に、あかねは「何が?」ときょとんとした。



  橘友雅は、京にあっては左近衛府少将というれっきとした貴族であり、龍神の神子を

 守る八葉のうちでも最年長の大人の男だった。

  華やかで艶麗で、どこか人をくった態度の男。暑苦しいのは苦手だと言ってはばから

 ず、何でも適当に力を抜いて当たる様は、見ようによっては随分いいかげんにも感じら

 れ、天真などは、同じ八葉でも、ひどく反感を抱いていたと蘭は後から聞いた。普段は

 後腐れのない女性とちゃらちゃら遊んでばかりいたようなのに、それでいて武術にも長

 け有能で、いざという時は、しっかりあかねを守っていたのも勘に障ったらしい。

  そんな男が、何も知らない初心なあかねと本気の恋に落ちるとは、彼らが京に飛ばさ

 れたばかりの頃、いったい誰が想像しただろうか。

  そう、友雅は本気だった。

  何と言っても彼は確固たる身分にある自分の世界をあっさり捨てて、あかねの暮らす

 この現代へとやって来た程なのだから。



 「大体ね、たまにあの人がいない時くらい、忘れたっていいのよ」

  話題の主である友雅は、今ここにいないのだ。いない時まで親友の心を独り占めされ

 るというのは、女友達でも何となく面白くないものだ。心なしか蘭の声もとがる。

 「忘れる……」

 「毎週毎週、都合がつけば週末にデートしてるでしょ。平日だって部活にも入らないで、

 暇ができれば家に行って世話やいてあげて……。そんなことまでしなくたって、向こう

 に譲歩してもらったらいいんだわ。あっちは気楽な一人暮らしの大人で、私たちは、ま

 だ学生なんだし」

 「私が、やりたくてしてるんだって。友雅さんの役に立ってるかどうかあやしいもん」

 「愛しい恋人が、自分のためにしてくれてるのよ。いい思いばかりしてるのに決まって

 るわ」

 「私わがままだよ。こんな所まで友雅さんに来てもらっちゃったでしょう」

 「だから……!」

  蘭がさらに言い募ろうとした時、あかねの膝元にあったバックの中の携帯電話がオル

 ゴール音のようなメロディーで鳴った。

 「あ……、友雅さんだ」

  その着信メロディーは友雅のものだったらしい。

 「ごめん、ちょっと話するね」
 
 あかねが急いで電話を取る。

 「……うん。そう蘭ちゃんのところ。天真君と詩紋君も一緒。…………え? 今から?

 今どこですか? 今週ずっとお仕事じゃなかったの? ……もう駅?!」

  あかねの言葉だけで、電話の向こうの相手が何を言ってるかわかるようなやりとりだ。

 蘭の機嫌は、ますます急降下していく。天真と詩紋がちらちらと蘭を見ているのは、お

 そらく蘭の機嫌を気にしてのことだろう。

 「あのね、友雅さん、これからこっちに来てもいい? 迷惑かな」

  電話の途中であかねが顔をあげて尋ねた。本当にすまなそうな顔だ。

  もともと京での経験を共有しているこの仲間の集まりに、都合さえつけば友雅も加わ

 ることはよくある。今回彼がこの席に来なかったのは、ただ単に仕事のせいで、彼の出

 張は、それほど珍しいことではない。



  友雅のこちらでの職業、それは雅楽の演奏家であった。

  彼が蘇らせた(友雅にとっては特に蘇らせたわけでもなく、京で身につけていた奏法

 でそのまま弾いていただけだが)すっかり絶えていた琵琶の奏法や古曲は信じられない

 ほど注目された。巨匠の映画音楽に使用されたことや、彼の華やかな容姿も手伝って、

 あれよあれよという間に邦楽界はおろか、世界的にも話題の音楽家になってしまった友

 雅は、なかなか多忙な日々を過ごしている。



 「……迷惑じゃないけど。でも、あの人が来るって、あかねちゃんをさらいに、でしょ」

  仲間の集まりの後やひどい時は途中でも、友雅があかねを連れて抜け出してしまうの

 は、彼が仲間入りする時に、頻繁に起こることだった。

 「ひな祭りで集まっているなら、差し入れしたいって」

  あかねが言うと、天真が答えた。

 「いいから来いって返事すりゃいいさ。だめだって言ったって、あかねがいれば来ちま

 うんだから同じだろ」

 「ボクもそう思う。それに大勢の方が楽しいじゃない」

  詩紋の言葉に、蘭も仕方なさげに頷いた。




  あかねの携帯が鳴ってから三十分も立たずに、友雅は森村家にやってきた。

 「やあ、お邪魔するよ」

 「……ようこそ。でも本当に邪魔だと思ってるなら来るものかしら」

  蘭がすかさず憎まれ口を聞いたが、それくらいは柳に風と受け流す友雅だ。男として

 は長い髪もそのままに、黒のハイネックに焦げ茶のジャケットとパンツというラフな洋

 服も嫌みなくらい似合っていて、かつての雅な風情とはまた違った色男の姿である。

 「おや、せっかくの勢揃いに、ご機嫌が悪いのかな」

  特に気を悪くした風でもなく、友雅は手にしていた大きな包みを蘭に手渡した。

 「桃の節句のお祝いだそうだね。ちょうど、きょう仕事先で見事な生け花に使われてい

 たのを分けていただいてきたのだよ。姫君たちに差し上げたくてね」

 「……ありがとうございます」

  あかねではなく、招待した側である蘭に渡すところが、友雅の心配りであったかもし

 れない。さすがに蘭も素直に礼を言った。

  何かを、大きく覆っている包みを解くと、中からあらわれたのは、ふくらんで今にも

 開きそうな薄紅色の花のつぼみと、純白のつぼみを、それぞれいっぱいにつけた、花の

 枝の束で、それは実に見事なものだった。

 「わあ、桃の花……と、この白い方は何ですか? 梅とはちょっと違うし。白い桃の花

 ってあるの?」

  広げた包みをのぞきこんで、あかねが尋ねた。

 「白い方は、李(すもも)だよ。こちらでこの季節に目にするのは桃ばかりで、李の花

 は珍しいようだね」

  友雅が答えた。

 「これがすもも……。綺麗ですね。とても」

  蘭が感心したように言った。

 「気に入っていただけて何よりだよ」

 「でも、これで、身代わりにあかねちゃんを連れて行こうっていうのは無しよ」

 「ら、蘭ちゃん、何を……!」

  あかねが慌てるが、もちろん友雅は余裕だ。

 「一週間ぶりなんだけれどねえ」

  悪びれずに言う友雅に、赤くなるあかね。

  蘭は大げさにため息をついてみせた。



 「桃と言えば……確かに食べ物ばかりは、京とこちらでの違いはあまりにも明らかだね。

 こちらで最初に白桃をいただいた時は、まさに西王母の桃だと思ったよ。奇跡の実だ。

 三千年に一度実るという仙果だね。命が延びるような思いがしたよ」

  後から来て、お菓子とお茶だけを相伴にあずかりながら、友雅が言った。

 「京じゃ、ちょっと食事では苦労したよなあ。味はなんでも淡泊な感じでさ」

  友雅の話に、天真も京での食事情を思い出したようだ。

 「京では桃って食べる機会なかったけど、全然違うものですか?」

  詩紋が尋ねる。

 「ああ、あんなに大きく甘いものではないね。もっと小振りでかたくすっぱい果実だっ

 たよ。李なら、なおさらにね」

 「ふーん」

 「花も別の風情があるね。どちらも可憐だけれど」

  さっそくひな飾りの横に大きめの瓶を据えて生けられた桃と李の花を見て、友雅が目

 を細めた。

 「……そう、あかねが桃の花なら、天真の妹御は李の花かな。似ていて、そして違う」

  あかねは白龍の神子で、蘭は黒龍の神子。ふたりは京で敵対を余儀なくされたが、対

 のような存在だったのだ。

 「言いたいことは、わかってるわ。あかねちゃんは西王母の桃で、私は食べられないく

 らいすっぱい李よね」

 「そうではないよ。──李下に冠を正さず──と言うからね。李の下では疑わしい行い

 などしないように気をつけなければと思うだけだよ」

  蘭が友雅の言いたいことなどお見通しだとばかりに断言したが、友雅は笑ってやり返

 す。あかねは二人の応酬の微妙な空気を読むでもなく、思いがけない声を上げた。 

 「私、すもも大好き。赤くてかわいいし」

  あかねは本気で言っている。蘭は、驚いてあかねを見た。

 「花だって初めて見たけど、ピンクの桃と白い李が並んで咲いてるときれい……。その

 きれいな花みたいだなんて言われたら照れちゃうけど嬉しいね。それに……」

  あかねは悪びれずに言う。

 「見かけで言ったら、蘭ちゃんは絶対友雅さんのタイプだと思うんだけどなぁ。キリッ

 とした美人が好みだと思うもの。花だって白くてシンプルなの好きですよね、友雅さん」

  笑顔を向けるあかねに蘭は絶句したままで、友雅は少女二人を見て苦笑する。

 「おやおや、君はそんな風に思っていたのか」

 「だから蘭ちゃんがうらやましかったんだもの。本当に。でも似てるところもあるなら

 嬉しいな」

 「花を愛でるのに分け隔てはしないさ」

 「ただの花ならね」

  友雅の言葉に蘭が含みを持たせて言い返したところで、あちこちに飛ぶあかねの思い

 つきは止まらない。

 「ああ、そうだ! ねえ、こんなのもあったね。すももも、ももも、桃のうち!」

 「何だい? それは?」

 「あ、友雅さんは知らないか。早口言葉ですよ。李も桃も一緒なの!」

  あかねが蘭に抱きついて得意げに言う。

  天真が耐えきれず吹き出した。

 「あーあ、かなわねえな。おい、蘭、勘弁してやれよ。仕方ねえって。今夜のあかねの

 アリバイ作り、どうせ協力するしかないだろ」

 「…………お兄ちゃん」

 「罪作りだよなあ」

 「本当にね」

  こればかりは友雅も納得して頷いた。後ろで詩紋もうんうんと首を縦にふっている。

 「えっ? 何が罪作り?」

  知らぬはあかねばかりなり、なのは、京で過ごした日々から、変わらない日常だった。



  ひとしきり笑った後、友雅が言った。

 「この世界はめまぐるく変化して、なかなか楽しいね。京とはあまりに違う……そう、

 絶対に生きてたどり着くことのないと思っていた桃源郷とは、正にこんな世界だったか

 と思えるよ」

 「でもいくら便利で安全で物があふれているからって、豊かだとは限らないです。私に

 とって、京の方が夢みたいに美しい世界でしたよ。あちこちに咲いてる花やまぶしい緑

 や、月も星も風も、こことは全然違ってて、私が穢れを祓えるのがうれしかったな」

 「神子殿……違うよ」

 「え?」

  京で過ごしていた頃のように「神子殿」と呼ばれたのと、思わぬ否定の言葉に、あか

 ねは目を見開いた。

 「こちらの世界が京に比べて暮らし向きが豊かだから桃源郷だと言ったわけではないよ」

  友雅を見上げるあかねに、彼は包み込むような笑顔を向けている。輝く瞳が、わから

 ないかと問いかけている。向き合う二人に、おそらく周囲の仲間は目に入っていない。

 「君のいるところが私の桃源郷だ。君にめぐり逢わなければ、本来、私などが足を踏み

 入れることのない仙境だよ」

  友雅が真面目な調子で言うと、あかねは頬を染めた。

 「友雅さん、美化しすぎです。私はもう龍神の神子じゃないし……、こっちに来て充分

 わかったでしょ? 普通の高校生だもん。私」

 「何を持ってして普通だと言うのかな。君の心映えの美しさや、優しい慈しみ、何物に

 もとらわれない風のような軽やかさ、まったく他に似る物などありはしないのに」

 「似てない……ですか?」

 「君だけが私を本気にさせる。信じないの?」

  このまま人前でラブシーンになだれ込みそうな友雅に蘭は黙っていなかった。

 「それこそ、あかねちゃんは、三千年に一度の桃と同じだって言うんでしょう。元々の

 好みなんて関係ないわよね」

 「頭のいい女性は物わかりが早くていいね」

  あかねを抱き寄せつつ鮮やかに蘭に微笑む友雅。

 「それはどうも」

  あまり有り難くなさそうに蘭は礼を言う。

 「──三千年(みちとせ)になるてふ桃の今年より花咲く春にあひにけるかな──」

  友雅がつぶやく歌は、京の名残香だ。



 「蘭ちゃんもあかねちゃんも可愛いよね」

 「……蘭もかぁ?」

  一番年下の詩紋がしたり顔で言うのに天真が眉をひそめた。

 「天真先輩こそ、蘭ちゃんが可愛くってしょうがないくせに。シスコンだよね」

 「うん、そうよね」

 「そのように見えるね」

  あかねと友雅が頷き、蘭が兄を恨めしく見上げると、天真は拳を作り、苦々しい様子

 で震えていた。

 「詩紋〜〜っ、てめえ!」

 「えー、本当のことじゃない」

  笑い声がまた大きく響いた。

  暖かな部屋で、桃と李の花がふわりと開き、花びらを散らせた白酒は、ことさら甘く

 幸福な味がした。





                   【 終 】




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