憬文堂
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◆   内緒でコトを進めようと思った日、モナコのカジノで、
 友雅が退屈しのぎを探していたようだね……
 ◆

 

前 奏 曲  Prelude
仲秋 憬 





 華やかなりしベル・エポック。

 十九世紀末、洞窟だらけのただの岩山にすぎなかったところへ人々を集める

ために生み出された贅を尽くしたグラン・カジノ。

 モンテカルロはヨーロッパの中でも指折りの社交場で、金さえあれば日々、

享楽と快楽をむさぼることができる。

 モナコにカジノは三つある。夏場なら四つだ。しかし、ここモナコで、ただ

『カジノ』と言えば、それはグラン・カジノのことである。

 カジノ広場と紺碧の海に張り出したテラスに挟まれた青銅色の屋根のかかっ

たクリーム色の宮殿のような建物は、夜になればなお一層光り輝き、着飾った

男女が次々と一時の享楽に身をひたしにやってくる。

 華麗にして豪奢。

 アトリウムのあるエントランス・ホールから左手奥に向かって並ぶ四つの大

ホール。最初の部屋はルーレットとポーカー。次の部屋はスロットマシン。

そのさらに奥ふたつの部屋は、人を選び、掛け金も一桁跳ね上がるプライベー

ト・ルームだ。

 今でこそ気楽なアメリカンスタイルのカジノクラブに人気の中心が移ってい

ても、グラン・カジノが、かつて世界のギャンブラーが憧れた格式も最高の賭

博の舞台であることに変わりはない。

 高い天窓からの柔らかな光。琥珀色にきらめくクリスタルのシャンデリア。

 壁を覆い尽くす彫刻の優美な曲線。頭上を飾る美麗な天井画。

 その舞台に負けじと美しさを競うように着飾ってさんざめく美女に囲まれて、

一人の男が、プライベート・ルームの部屋の中心に位置するルーレット台につ

いていた。

 あでやかな舞台にあって、彼は主役にふさわしい容貌である。男としては長

い、波のようにゆるくウェーヴした黒髪が肩より下へ流れ落ちていて、それだ

けでも強い印象を与える。はっきりした目鼻立ちはオリエンタルな風情もただ

よわせていて、いったいどこの国の男なのか一瞥しただけでは判断がつけられ

ない。

 淡い青のドレスシャツに、光の加減で角度によっては不思議な碧にも見える

モダンな黒のやわらかいカッティングのジャケットスーツにひきしまった見事

な体躯を包んだ姿は、並み一通りでないだろう男の出自を物語っていた。少し

くだけた衣服でも品を失わず、むしろ遊び心とセンスを伺わせる。

「ノアール・プリモ(黒の8)」

 男は目の前に積み上げていたジュトン(チップ)すべてを示して、そう告げた。

 周囲が一斉にどよめいた。男の座っている台は、もう長いこと、その部屋の

ほとんどの客の目を集めており、彼の遊びぶりがひとつの芝居のようになって

いたのである。

「一点賭け? おやめなさいな。いくらなんでも無謀だわ! 一点賭けに積む

金額じゃなくてよ」

 菫色のカクテルドレスに身を包んだ人の良さそうなマダムが男に声をかける。

「ご心配ありがとうございます、マダム。優しく賢明な貴女に、さげすまれる

のは本意ではありませんが、どうせ遊びですから」

 優雅に微笑み、男は答えた。

「遊びですって?! あなた、今、自分が何ユーロ賭けたと思っておいでなの」

 彼が目の前に積んでいるのは、パリの郊外に家一軒が買える金額のチップだ。

「いかに愚かな私でも、まさか数も数えられずに遊んではいませんよ」

 男は笑って答えた。

「そう……少なくとも36まではね」

 クルーピエがまわるルーレットに銀色の玉を落とした。

 シャンデリアの光をはじき輝きながら軽快に玉がまわる音を聞きながら、周

囲の者は固唾をのんで見守った。

 自分の賭けた金の行方を思うのではなく、誰もが、この無謀な美丈夫が一瞬

にして一財産を無くす瞬間に立ち会おうとしていたのだ。

 カラカラカラと次第に速度を落とし、まわる盤上でまだ銀の玉は行く先を決

めずにいる。

「勝ったとしても……今さら小金をふやしたところで意味がないと知っている

のに我ながら愚かだな」

 男のつぶやきを聞いた者はいなかった。

「ルージュ(赤)が出ようが、ノアール(黒)が出ようが、勝つのはいつもブラン

(白)……か」

 その昔、モナコに巨富をもたらした王室に招かれたカジノ経営者フランソワ・

ブランはもういない。

 ルーレットの回転速度が次第にゆるやかになっていき、銀の玉が最後に運命

を告げた時、その場は大きなどよめきで支配された。

 悲鳴を上げているのは周囲だけ。

 勝利を手にした帝王は、まるで何事もなかったかのようにおだやかな微笑を

浮かべたまま、目の前に集められたジュトンを平然と見下ろして、その場を支

配した。





「ムッシュウ・トモマサ! こんなところにいたんですか。内緒で逃げようと

したってそうは行きませんよ。いい加減にしてください」

「ああ、君か、鷹通。とうとう見つかってしまったね。日本人は勤勉だな」

 遊びの場にはふさわしくない、きっちりしたダークスーツにメガネをかけた

生真面目そうな若い男が、プライベートルームから今日の勝利をつかんだ帝王

を引きずり出していた。

「もうチームの連中はモナコ入りしましたよ。予選前でピリピリし出す前に、

やることは山積みです。カジノで遊んでいる場合じゃない」

 カジノ内のフロア移動にあるまじき速い足取りでエントランスへ向かう彼に、

トモマサと呼ばれた男はぎりぎり見失わないテンポでついていく。口にする言

葉も穏やかなままだ。

「私には、大事なレース前にパドックへしゃしゃり出て、しのごの言うつもり

はないというのに。……実はF1にだって、それほど興味がないのだよ。まっ

たくみな熱心で結構なことだね。どうしてそんなに熱くなれるのか教えて欲し

いな」

「あなたに興味がなくても、世間は違う。伝統あるモナコグランプリです」

「暑苦しいねえ。……ああ、いや、私には無い情熱をながめているのも決して

嫌いではないがね」

「誰かの全財産よりも大金を、一瞬で儲けたのに、興奮するどころか顔色ひと

つ変えずに醒め切っている不感症のあなたにわかりはしないでしょう。どうし

てあなたのような人がモータースポーツに関わるセクションにいるのか不思議

です」

「たまには仕事もするさ。食いはぐれたくはないからね」

「食うや食わずやの人間がカジノで一点賭けなんざするものですか!」

「刺激が欲しかったんだよ」

 ほとほと愛想が尽きたという顔で振り返る男に、笑って答える。常に笑顔を

絶やさない物腰おだやかな者ほど油断のならない人間がいるだろうか。

「……度し難い方ですね」

「つれない言い方だ。退屈で窒息しそうでね。まるで足下から立ち腐れていく

ようだ」

「なら少しは真面目に仕事をしてください!」

「いっそ君の国を尋ねるのもいいかな……遙か彼方の東の国へ……ね。私の第

二の故郷でもあるのだし」

「日本に行かれるなら秋です! 秋の鈴鹿にしてください!!」

 メガネの男は、爆発寸前だ。そこへふいに真面目な口調でつぶやかれて、ふ

と足を止めた。

「待っているんだ」

「何をです?」

 問わずにはいられない真摯な響きが、そこにはある。

「……私を本気にさせるような、何かをね」

「言っておきますが──、待っているだけで飛び込んでくるものに、あなたが

満足することなどあり得ませんよ。ご自分でもわかっているのでしょうに」

「救いがたいと自分でも思うよ。おそらくこのままゆるゆると朽ち果てるのだ

ろうね」

「朽ち果てるなら、レースを見届けてからにしてください。あなたはチーム・

フジワラの筆頭スポンサーなんですよ。最大のビジネスチャンス、モナコグラ

ンプリで仕事をせずに、いつするんです!!」

「私がレースに出るわけじゃなし。君のような優秀なサポートがいれば大丈夫

さ。まかせるよ、鷹通」

 婉然と笑い、ふいっと男はきびすを返した。プライベートルームに戻るでも

なく、エントランスに出るでもなく、しかし後を付いてくるのも、引き戻され

るのも許しそうにない背中は、あらゆるものを優雅に拒絶していた。

「ムッシュウ! どこへ──」

 かけられる声に片手をわずかに上げて答えただけで、倦怠に満ちた艶やかな

男は姿をくらました。




 宮殿のようなグラン・カジノの外では、世界が一変して、週末のレースの準

備が始められている。

 世界一贅沢な公道を使ってのカーレース。ひっきりなしにうなり響いてくる

エキゾースノート。耳栓無しでは過ごせなくなる数日間。

 美しい五月のコートダジュールに、新しい出会いの予感はあるだろうか。

 気まぐれな運命の女神は、この男が倦怠の海で溺れ死ぬことを許さなかった。

 仕事、仕事と追いかけてくる者を要領よくまいて、男がサル・ガルニエを後

にしようとした時、カジノ広場の前で、幼げな少女が途方にくれているのが彼

の目にとまった。

 少女のつぶやく日本語が、男の興味を引いた。モナコで日本人は珍しくない

が、どう見てもカジノに不似合いな少女がたったひとりで困惑しているのなら

話は別だ。

 ごく淡い薄紅色のAラインのドレスのすそが風にゆらめいている。



 それは、男にとってほんの退屈しのぎの気まぐれだった。

「失礼、姫君。道に迷っているのなら、手をお貸ししましょうか?」



 どんなロマンスにも出会いという名の始まりがある。

 運命は、いつでも目の前にあり、己が手を伸ばして選び取るもの──。






                【 終 】




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