憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


鬼 刻
仲秋 憬 






 三十年を長いと言うか。短いと言うか。


 男は最初、それだけあれば充分だと思い、己を鍛え、出会いを待った。

 その時の流れは、ある時はひどく緩慢で、とても目指す先にたどり着く日が来

るとは考えられない程、のろのろと淀むかと思えば、果たしてこんなことで間に

合うのかと焦りを感じるほど飛ぶように過ぎていく。

 その間、決意がにぶることも、迷うことも、一切ない。

 自分に命をくれたあの人を救うという目的だけが、男を生かしていた。



 始まりの記憶は、いつも鮮やかで、決して消えることはない。

 業火の中を命の危険も省みず、幼い自分を救い出してくれた、あの人。

 彼女の長い髪が、ゆらめく炎と、はぜる火の粉の中で踊るのを見た。

 膝に抱き上げ髪を撫で、怨霊と業火の恐怖におののく子供を守ってくれた。

 名も知らぬ強くて優しげで美しい人から、彼は命をもらい、愛をもらい──

 そんな人を、どうして忘れることができるだろう。

 それは魂の刻印で、たとえ死んでも輪廻の輪から繰り返し蘇る記憶だ。



 人が一定の時の流れに逆らわず歩んでゆく忘却の生き物なら、何度も時を渡り

歴史を変えようとあがく男は、確かに人ではないのだろう。

 それは真に『鬼』と呼ばれるにふさわしいのかもしれなかった。




 たったひとつの祈りが男を生かしてきたが、初めて彼の人を救う機会を得た時

に、彼は過ちを犯した。


 白龍の神子として別の世から召還されて来た、何も知らない少女のあの人と、

神子を守り戦う使命を帯びる八葉となったあの人の倍も齢を重ねた鬼の自分。

 彼女を守るのに、これほど恵まれた立場はない。

 そんな八葉と神子の日々の中、長くその魂に焦がれていた人に真正面から好意

を向けられ、男は我を忘れてしまった。


「私から離れてはいけない。お前は私が必ず守る」

「心配性ですね。私そんなに頼りないですか?」

「いや……お前はよくやっている。だが、ここは戦場だ」

「命があぶない時に、どうしよう、こうしようなんて、いちいち考えたりしませ

んよ。とっさに本能で動くでしょう? どうするかなんて、わかりません」

「そうだな」


 信頼や尊敬をあふれさせ、自分にまっすぐに向かってくる素直な少女を愛しく

感じない男がいるだろうか。

 まして物心ついた時から憧れ続けてきた人が、自分に好意を寄せてくれている

と気付いてしまったのだ。

 そのめまいのするような幸福感を避けることなど考えもしなかった。


「好きです。……あなたのことが、とても」

「神子……」

「八葉と神子だとか、生まれ育った世界が違うとか、そんなことは関係なくて、

ただ……」

 言葉をためらう少女の震える唇に何を感じているか気取られるのが恐ろしい。

「いつも助けてくれるのは……こんなに近くにいるのは……、神子と八葉だから

ですか? 源氏の陣に私がいないと……」

「違う」

 彼女の瞳に映る自分を見据えて告げる。

 源氏と平家が何だと言うのだろう。戦に巻き込まれ命を落とす寄るべ無き者に

は、いずれが勝利しようと意味はない。

「私が欲しているのはただひとり、お前だけだ。お前が生きてあるためだけに、

私はここにいる。お前の命だけが私のすべてだ」


 想い想われ、枕を交わし、高みへ上り詰める一刹那、それを求めることが悪夢

を産むなどと思いも寄らない。

 おそるおそる差しのべられる手を取り、引き寄せて抱きしめる。

 熱くやわらかい身体に溺れるのは、あまりにもたやすかった。

 この人のために生きることが望みだった。

 身にまとうものをすべて取り払い、唇を重ね、互いの息を吸い、肌を合わせて

存在を確かめる。それは至高の悦びだ。


「……ずっと、こうしたかった」

「ずっとって……出会った時から……?」

「おそらくお前が生まれる前から」

「えぇっ?」

 褥の中でくすくすと笑い、男の首筋から顎をなでる白く優しい手。

 その手のぬくもりは、昔、幼い彼を撫で癒してくれた思い出と同じ温かさだ。

「気味が悪くはないか?」

 火傷の痕は彼女に救われた印であったけれど、決して見目の良いものではない

から普段は隠している。しかし彼女は躊躇せず、その刻印に唇を寄せた。

「全然。……触られるのは嫌ですか? だったらごめんなさい」

「嫌なものか。嬉しい」

「好き……大好きです。……どこもかしこも……全部……」

 告げられた途端に身体に火がつき、狂おしい情欲を抑えられず解き放つ。

「離しはしない」

 愛撫に狂うあえぎまじりに何度となく誓った言葉。


 それが不可能だと思い知るのに、時はかからなかった。



 源氏の陣には、戦女神の白龍の神子と、片時も離れず神子を守る一騎当千の鬼

がいる。


 そんな噂は、命を危うくするだけだ。

 どんなに誓ったところで、言葉通り本当に一瞬たりとも離れず生きていくこと

などできはしない。

 ほんのわずかな隙をつかれ、彼女は死んだ。

 炎に包まれた鬼の里で、彼女が鬼の子供を助けて背後を取られる一瞬を避け、

不遇の死から守ることができたと安堵した、その数日後だった。




 その時から、男は時を越える力を持つ白龍の逆鱗を握りしめ、彼女が生きのび

る運命の時空を求めて彷徨った。


 多少のことをしても運命は変わらない。

 一度経験した歴史に刻まれるような出来事を変えるには、より大きな変動の力

を必要とすることがわかった。どの道をたどってもたどり着く場所がひとつなら、

目的地そのものを変えさせる荒技がいる。

 通る道をひとつ変えただけ、問いかけの返事をほんの少し変えたくらいでは、

その結末はゆらがないのだ。



 いつも関わることになる九郎義経を早くから鍛え、神子を必要とせぬほど源氏

を強くできないかと試みた。


 運命の発端である鬼の里が、炎に包まれ滅びるのを止められないかと奔走した

こともある。


 どこかに戦を終わらせる術はないのか。

 鬼の自分に出来得ることなど限られていた。


 さらなる修行を己に課し、その身を何としてでも守ってほしいと彼女の剣をも

鍛え続けて。




 しかし運命は変わらない。

 認めたくない恐ろしい事実があった。


 ─八葉となる己が神子であるあの人と深く関わることが常に彼女を死へ導く─


 ならば彼女と共にあることは許されない。

 彼女を遠ざけて運命を変えよう。




 一度きりだからこその運命ではないのか。

 上書きを重ねて、やり直せる人生。それを運命と呼べるのか。

 そうして命がつながる運命を引き当てたなら、今まで己の前で亡くなった幾多

の少女の生き様は、すべて消えて無くなるのか。


 そんなことはあり得ない。


 運命を上書きするたびに、またひとり、またひとりと、愛しい人を葬る。

 それを無かったことになど、できはしない。

 哀しみだけが、雪のように降り積もり、決してとけることなく凍りついてゆく。

 果てしない孤独が、その身を苛む。



 少女が平家の武将になぶられたあげく無惨に屠られた時は、怒りで何もわから

なくなり、彼女を切り刻み首級を抱こうとした平家の男を彼は許さなかった。

 しかし本当に許せないのは、それをとどめることができない己自身だ。

 こんな救いのない死に様をさせるくらいなら、いっそあっけなく散った最初の

運命の方がましだったとは言えないか。

 血を流し、激痛に苦しみもだえ、魂も凍るような恐怖の中で絶命させる運命を

たどる少女を生み出したのは誰だ。



 どのような死に方をしても、死は死だ。

 人はいずれ死ぬ。

 ならば与えられた死を悼み、そのまま受け入れることが救いではないのか。


 それをどうしても認められない。


 ならばいっそ共にと愛欲に身をゆだね、その場で命を投げ出すこともできない

男に、神仏は見えない。

 神とは決して全能ではなく、この魂を救える神はこの世にいない。

 男を救えるものは、闇に輝く少女の命だけだ。




 今度こそはと願い、己に罪を刻む。

 またひとり、男を慕う少女が男の腕の中で命を落とす。

 こうして愚かな歴史を繰り返すことが、自分を怨霊よりもあさましい鬼にして

いるのだとしても、不毛な運命の螺旋を断ち切ることができない。

 いったいこの艱難辛苦(かんなんしんく)を身に受ける罪業は何だろう。


 ただ助けたい。助けるために、ここにある。

 あの人が微笑んで行く末に命をつなぐことだけが望みだ。

 それが叶うならば、どんな罪でも背負ってみせよう。

 あきらめないことが男の選択だ。誰に強いられたものでもない。


 人に許されない機会を与えられている。

 苦しみが何ほどのものだ。

 繰り返す時の長さなど問題ではない。

 三十年でも、百年、千年、未来永劫くり返しても、変わらぬ、命の選択を。


 これは逆鱗にやどる白龍の意志だろうか。

 そうではない。逆鱗を使うことを選ぶのは、それを手にした男の意志だ。

 彼女をこの呪われた運命から解き放つことができたら、その時は、この逆鱗も

役目を終える。



 今度こそ。

 鬼の慟哭は人の耳に届かない。



 繰り返し。

 繰り返し。

 刻まれる呼び声。

 彼女が駆けてくる足音。


「先生!」


 私の運命──。




                 【 終 】







遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム
憬文堂