憬文堂
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◆   新月の夜、松尾大社で、忍びこんだ友雅が
 秘密を知っておどされたようだね……
 ◆

色にや見えし
仲秋 憬 




 新月の闇夜は物騒なので、従者も夜歩きを歓迎しない。遠出ならば尚更だ。

 しかし主である左近衛府少将、橘友雅が行くと言えば、従者がそれに逆らうはずも

なく、今宵は洛西の外れまで出た。野宮に人を訪ねてのことだったが、女のもとで夜

を過ごしたわけではないので、戻りが深夜になった。牛車の足を速めさせようとして、

友雅は車が松尾大社まで来ていることに気づいた。

「もう山吹の盛りも過ぎる。松尾大社ならば丁度いい……最後の花を少しいただいて

来よう」

 ならば自分が取ってくると言う従者を、自ら行きたいのだと抑えて、友雅は暗い社

へと一人向かった。

 月の影なし。人影もなし。

「花盗人になるなら、こんな夜がいいね」



 しかし、誰もいないはずの忍び込んだ境内に、何者かの姿があった。

 霊水と言われる亀の井の泉あたりにたたずむ長身の影を認め、友雅は恐れもせず近

付く。その影は泉にかがみこみ、水でも汲んでいるようだった。

「こんな時間に水くみかい?」

 背後から声をかけると、影の動きは凍りついた。水がはねる音の後、影はゆらりと

立ち上がり、友雅の方を振り返る。

 飛び抜けて高い背丈。月明かりもなく顔は確かめられない。

 しかし友雅には、わかっていた。

「まったく……鬼も楽ではないのだね」

「…………この身をひそめるには闇がふさわしい。いや、追われた者は他に手だてが

ない」

 低い声が返った。

 影は隻眼の鬼だった。名をイクティダールということを友雅は知っている。

「そう。しかし姿が見えないからと言って新月を無きものとはしないさ。時に、その

水の霊験をあてにせねばならぬ者でもいるのかな」

「そちらには関係のないことだ」

「効かないよ」

 冴えた声で友雅が言い切ると、イクティダールの気配が一瞬、殺気を帯びた。

「なるほど美酒をかもす霊水だ。穢れを祓い、病を癒すと評判の……しかし、与えれ

ば直ちに薬効があると言うものじゃない」

 返事はない。しかし友雅はかまわず話を続ける。

「私は、これでも水には、うるさくてね。身の穢れを清めてくれる心地がするから。

確かに亀の井は名水だ……しかしそれは幻に似ている。一時のどを潤しても、必ず後

に乾きは来る。こういうものは霊験を心から信じる者でなければ効かないのさ」

 イクティダールは口も開かず背を向けたまま、微動だにしない。

 友雅が一歩二歩と近付いても、彼は動かず、暗闇に立ちつくしている。

「そう……信心あれば効くだろう。君が渡すものを信じている相手ならね。近場の井

戸や泉を穢しておいて、求める相手に密かに霊水を渡す……鬼の所業には恐れ入るよ」

「……そのようなつもりはない。巡り合わせだ」

 ようやく苦々しくつぶやかれたその声を聞いて、友雅は小さく笑った。

「まだ坊やの八葉の一人がね、尋常でなく鬼を憎んでいて、おそらく身内に関わり合

いがあると見える。ご存知かな」

 友雅の声はおだやかだ。

 夜風が吹いて、辺りの山吹がざわりと鳴った。

「名をイノリと言うのだよ」

 イクティダールは初めて向き直り、正面から友雅に相対した。表情は見えずとも、

友好的な筈はなく、向けられたのは敵意に近い、張りつめた気だ。

「何を知っている?」

「イノリが憎んでも飽きたらずと敵としている鬼と、よりによって私が知り合うとは

思わなかったよ。偶然とは言え、奇妙なことだ。イノリの姉君をたぶらかす鬼がいる

そうだね。しかし恋は女人を変える……時には男もね。鬼の男が、美しくもはかない

人の娘を気遣い、我が身を省みず、手を差しのべる。恋の哀れと歌おうか」

「そのような事はない」

 感情をできるだけ排除した返事。

「ではイノリに知らせて姉君をどこかへ匿うか。土御門の屋敷で神子殿付きの下働き

でもしてもらうのはどうだろう」

 そう告げた途端、友雅の喉元へ手が伸ばされた。しかし、友雅は自分の喉をしめら

れる前に、向かって来た手首をねじり上げるべく、反撃した。

 相手も素早くそれを避ける。

 両者の足が激しく地面を蹴る音、互いを避けた体がぶつかってたわむ山吹の枝が鳴

らす音があたりに響く。

 無造作に散らされる花の色は見えない。

 二人の男は相手の喉に手をかけようとしていた。共に譲る気がないのは、わかって

いた。

 剣も弓も武器らしいものは無く、身につけていた衣は、袖も裾もたっぷりとした袍

であっても、友雅の動きは素早かったが、イクティダールの動きは、度々それを上回

る。まともに組み合うことなく、山吹の茂みをかきわけ踏み荒らすようにして、相手

の位置を探ろうと動く。

 遂に両手で喉を押さえたと確信した時、双方共に自分の喉元にも相手の手があった。

 どちらも一瞬動けなくなり、気配を読みつつ、じりじりと指先に力をこめた。

 息が詰まる。

「もう一度だけ言う。手遅れになる前に神子をこちらへ寄越してほしい」

 抑揚のない声で絞り出したようなイクティダールの願いを聞いて、友雅はくっと喉

を鳴らした。

「まだ、あきらめていないのか。……面白いことを言う。だが今更、無理な話ではな

いかな。神子殿をどうされるものだか」

「霊験を目の前で見せられれば信じる。龍神の神子の力は真のものだ。何度か目の前

で戦ったことで我らも確信している。神子の力が救いになる」

「いったい誰の救いなのだろうねえ。こうして罪なく咲く花を散らす私達を救ってく

れと願ってみるかい? ……虫のいい話だ」

「勝手は承知。それはそちらも同様のはず。互いの言い分を聞き、話し合うのが筋だ

ろうと言った」

「以前はね。しかし、幾度か会いも話もした上で、神子殿ご自身が、鬼の元へは行か

ないと決めたものを、八葉が守らない訳がないだろう」

「……では仕方あるまい」

「どうするつもりかな」

「八葉を排除し、力づくでも来てもらう」

 イクティダールが体重を乗せるように姿勢を傾け、友雅の首にかかる手に力をこめる。

 しかし友雅もむざむざと、させはしない。どちらかが息の根を止めるには、状況が

それを許さなかった。肘を使って相手の拘束を外そうとしながら屈強な男の喉を締め

上げられるほど、力を込め続けることは叶わず、二人は大きく体勢を崩して離れた。

 ざわりと鳴る茂み。山吹がたわみ乱される。

 友雅は息をつきつつ、誰にともなくつぶやいた。

「名残の花を……散らせたくはないのだけれどね。折角……差し上げようと……」

「神子にか」

 ぽつんと本当に何気なくイクティダールが返した言葉に友雅は衝撃を受けた。

 今の今まで、山吹をどうするかなど露ほども気にかけていなかった。

 けれど言われてみれば確かに、友雅は松尾大社に足を向けた最初の気まぐれの場で、

すでに可憐な名残の花を龍神の神子であるあかねに贈るつもりでいたことに気付かさ

れたのだ。

 まるで言い当てられたことを脅しと受け取ったような己の心の乱れを、友雅はいぶ

かしむ。

 この一瞬の隙に、そのままでいる鬼ではなかった。

 イクティダールは、気配を殺して後ずさりしたかと思うと、完全に闇にとけ込み消

え去って、後には友雅だけが残された。




「隠れていた思いが重なった……か。新月の闇に姿を現すとは……さて」

 友雅は亀の井の脇で、まだかろうじて散らされずにゆれていた山吹を、一枝、折り

取った。

 素手で水をすくい、枝に霊水をかけて揺らすと、黄金色に輝く明るい花を、闇の中

でも感じられるような気がした。

 ほんのりと心を暖める花の気配に、友雅は、まだ幼げな龍神の神子である少女の笑

顔を思い出していた。


 ──いはぬまは つつみしほどに くちなしは 色にや見えし山吹の花──


 時ならぬ対峙に乱れた衣も気にかけず、友雅は濡れた山吹の花をそっと袖に包んで

胸に抱くと、待たせている己の牛車に向かって、暗闇の中をためらうことなく、ゆる

ゆると歩き始めた。






                 【 終 】





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