憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


◆   門限を忘れて夜遊びしたあと、リゾートホテルで、
 メガネをなくした鷹通が厳しく指導するようだね……
 ◆


間 奏 曲  Intermezzo
仲秋 憬 





 齢三十一にもなる大人の男に門限など無意味だが、十六の少女には必要だ。

 藤原鷹通は、そう考える。


 鷹通が仕事上、仕方なくお目付役をせざるを得ないはめになった男は、イタ

リアのミラノに本社を構える世界的なファッション・ブランド、アランチャー

ノ社で重要なポストについていた。彼ときたら、広告関係で人と会ってコネク

ションを強くする遊撃部隊のような立場をいいことに、日がなふらふらと遊び

歩くので、真面目で几帳面な質の鷹通は、ほとほと困り果てている。

 母国語のイタリア語、日本語は言うに及ばず、フランス語、スペイン語、英

語にドイツ語と語学に堪能で、モデルか俳優のような容貌。肩より長いゆるく

波打った黒髪をなびかせ、六カ国語を操り艶のあるテノールで囁けば、どこの

国だろうと落ちない女はいないと噂の美丈夫は、未だ独身だ。

 彼と鷹通は、アランチャーノが日本のF1チーム、チーム・フジワラのスポ

ンサーになるプロジェクトが立ち上がった頃からの付き合いで、知り合って、

もうかれこれ四年になる。

 藤原という姓でも、鷹通は自動車メーカーであるフジワラ本社の創設者と直

接血縁はない。そのことを彼は、ずいぶん面白がっていた。

「フジワラは世襲の会社ではないそうだね。でも、君がいつかフジワラの社長

になったら面白いと思わないか。君だって頂上を目指しているから、ヴァカン

スも取らずにそんなに働いているのだろう? ぜひ頑張ってくれたまえ」

「それには、今現在、あなたが本気を出して、きちんと仕事をこなしてくださ

らなければ、社長どころか、役職付きへの出世もおぼつかないですね」

「……おや。これはヤブヘビと言うやつかな」

 肩をすくめて笑ってみせる彼を前にして、いつも鷹通は、引きずり込まれな

いように心して対処している。

 鷹通自身、語学には自信があったので、彼と鷹通が話す時は、その時にいる

場所の言語を使うことにしていた。

 ミラノでならイタリア語。パリでならフランス語。ロンドンなら英語。

 しかし彼は、周囲に人がいない場合、鷹通と二人の時には、しばしばその約

束を無視して、日本語で話しかけてくることが多かった。

「言語は使っていないと錆つくからね」

 というのが、その理由だそうだ。彼があえて仕事に直接関係ない話題にスラ

イドさせようとする時、ことさら日本語で話したがっているように鷹通には思

えた。

 芸術もスポーツも、もちろん仕事も、あらゆることをそつなくこなし、多才

で、能力はあるくせに、いつだって本気は見えない。もっと人生を謳歌してい

ていい立場にいるくせに、いつも退屈しているような。柔らかい物腰の後ろに

人の悪さを抱えた底の知れない冷静な趣味人──というのが、鷹通が彼に抱い

ている印象だった。

 しかし、今年の五月、そのとらえ所のない色男に異変が起こった。

 最初はただ単に、またいつもの気まぐれなサボタージュだろうと思ったのだ

が、そうではなかった。

 彼は、モナコグランプリというF1スポンサー最大のビジネス・チャンスを

放り出して、まだやっと自分の半分の年齢の少女と初めて会ったモナコで恋に

落ちたのである。



「彼女を連れて行くですって? 冗談じゃありませんよ。──元宮あかねさん

と言いましたか……あの少女は、日本の女学生でしょう? あなたが気まぐれ

に引っ張りまわしていい相手とは思えません」

「気まぐれだなんて失礼な事を言うね。私は、この上なく本気だよ」

 そう答えた彼の声が、鷹通が今まで聞いたこともないような調子の声だった

ので、思わずまじまじと見返す。

 ……やればできるじゃありませんか。

 熱意あふれる真摯な態度。

 目の前の者すべてを屈服させる力のある王者の眼をした男が、そこにいた。

「彼女を悩ませる立場に追いやりたくはない。だから君に相談しているんだ。

私が今まで、こんな面倒なお膳立てをしたことがあったかい? それが何より

の証拠だよ」

「ええ……それは確かに」

 鷹通は内心驚きつつも、きわめて冷静を装って答えた。

「わかりました。隠れて彼女と遊び回られては困りますから譲歩しましょう」



 ニースの豪奢なホテルに彼に連れられてやってきた弱冠十六歳の少女である

あかねに、三間続きのデラックス・スイートの中の一番広く居間にあたる部屋

で向き合った鷹通は、ごく真面目な調子で提案した。

「必ず、夜の10時にはホテルに帰ってきてください。お願いしますね」

 あかねは素直にうなずいてから、鷹通を見つめてわずかに表情を曇らせた。

「鷹通さん、寝不足じゃないですか?」

「そんなにひどい顔をしていますか」

「とてもお疲れに見えます」

「ご心配かけて申し訳ありません」

 外出の身支度をすませた彼が傍らへ来て、鷹通をねぎらう。

「無理をさせてすまなかったね。君のおかげで私たちはこれから出かけられる

から、その間、ゆっくり休みたまえ」

「そういうわけには……」

「体が資本だよ。こんなところで倒れられてもこちらが困るからね」

 同じスケジュールで動いていたはずの彼は平気で恋人と外出しようと言うの

に、それもどうかと思ったが、常に緊張して気を張っている鷹通と自分のペー

スで余裕を忘れない彼では、疲労度が違うのは仕方がない。

 指摘された途端、睡魔に襲われる。

「確かにご迷惑をかけてはいけませんね。では、お二人が出かけた後は一眠り

させていただくことにしましょう」

 鷹通が眼鏡を外し軽く眼をこすってそう言うと、大きくうなずく二人。

 休める時には休むもの。

 スイートの中で自分にあてがわれた寝室の遮光カーテンをきっちり引いて、

鷹通は、しばしの眠りについた。



 自覚はなかったのだが、鷹通はよほど疲れていたらしい。ようやく目覚めて、

窓から外をながめるとすでに黄昏てきている。食事もせず、ほとんど午後いっ

ぱい眠り込んでいたわけだ。夏の欧州は日本と違い、夜のはずの午後7時や8

時では、まだまだ明るい。

「まだ帰っていないか……仕方ないな」

 鷹通は手早く着替えて、眼鏡をかけようとした。

 ──ない。

 確かにベッド脇のサイドボードに置いたはずの眼鏡が見あたらないのだ。

 かなり度の進んだ近眼である鷹通は、眼鏡がないと目の前の人の顔すら、ぼ

んやりとしかわからない。ノートパソコンのモニターも携帯電話の文字も、ま

ともに読むことができないほどだ。

「なんだって、こんな時に」

 念のためあたりの床をさぐってみても、眼鏡が落ちている様子はない。

 鷹通は大きく溜息をつく。

 おそらくこのスイートのどこを探したところで眼鏡は見つかるまい。

 恋人達は、まだ帰らない。

 門限を忘れて遊び歩くつもりなら、鷹通にも考えがあった。




 すっかり暗くなった夜22時45分。

 ホテルのロビーで、鷹通は遊び疲れた恋人達が帰ってくるのを待っていた。

 視界がおぼつかないが、玄関とフロントが正面からよく見える位置にある椅

子に座って待つこと一時間。

 恋に我を忘れているらしい足取りも軽やかな二人が帰ってきた。

「……お帰りなさい」

「ただいま戻ったよ」

 鷹通が椅子から立ち上がって出迎えると、彼は一向に悪びれずに返した。

「鷹通さんっ! どうしてロビーにいらっしゃるんですか? まさか、ここで

ずっと待ってらしたんですか?」

 驚く少女の肩を抱いている男の表情は鷹通にはわからないが、そんな事は、

どうでもいい。

「お話があります」

 厳格な態度を崩さず、寄り添う彼と彼女の間に割って入ると、あかねの正面

に鷹通は立った。

「鷹通さん、眼鏡どうしたんですか?」

 心から心配そうな少女の声に、鷹通もほんの少し気を取り直す。

 悪いのは男の方だ。いたいけな少女に罪はない。しかし、この大きな事業の

前には、彼女に犠牲になってもらうしかないのだろう。

 一人でヨーロッパまで来て、大人の事情に振り回されて──。

 鷹通の良心は痛んだが、それでも世界は回るのだ。ロマンスを司る神がいる

なら、これは、その神のちょっとした気まぐれなのかもしれない。当人同士が

幸せなら、それもいいだろう。

 しかしやるべきことはやってもらう。

 そして、できることなら自分と同国人の少女の一生を台無しにするような真

似は避けねばなるまい。それは成人している大人としての良識を持つ鷹通なら

ではの覚悟である。


「あかねさん」

「はい、鷹通さん。なんですか?」

「あなたはムッシュウとは違う。まだ学生です。学生の本分は勉強です」

「……ええ、そうですね」

「彼のわがままにことごとく付き合っていては、あかねさんの身が持ちません」

「野暮なことを言うね……鷹通」

「あなたは黙っていてください!」

 鷹通は振り向きもせず彼を一喝すると、話を続けた。

「門限を決めましたね。夜の10時。十六のあなたにとって、これでも大変な譲

歩です」

「10時だなんて、今の季節、ようやく日が落ちたところじゃないか……」

 背後で愚痴る男を無視して鷹通はあかねに告げる。

「規則を破ったなら罰が必要です。わかりますね」

「はい。心配かけて、ごめんなさい。鷹通さん」

「大人の私がついているのに、どうして門限破りになるのかねぇ」

 彼は納得しない。

「反省されるのは良いことです。彼と一緒に堕落してはいけませんよ。あなた

のような未来ある女性に、彼はまだ毒だ。約束を守るために同室は避けてくだ

さい。こちらが今夜のあなたの部屋です」

 鷹通は、リゾートホテルではめったに用意されないシングルルームのカード

キーをあかねに渡すと、はやく行けと背中を押した。

「あかね! 行かなくていい!」

「友雅さん、鷹通さん、お休みなさい。また明日……!」

 彼らにぺこりと頭を下げて、少女はエレベーターに乗りこむと、用意された

一人の部屋へ行ってしまった。

 ロビーに残されたのは、リゾートに不似合いなダークスーツの鷹通と、可愛

い恋人と引き離されてご機嫌斜めな色男だ。

「ムッシュウ、私の眼鏡はどこです?」

「……さぁてね」

「とぼけても無駄ですよ。眼鏡が見つからないくらいで、私を足止めできるお

つもりでしたか? これ以上こそくな真似をなさるなら、あかねさんを日本か

ら来られないようにしても構いませんが」

「君は有能だよ。その事は誰より私が知っている。……やれやれ。弱みができ

てしまうのは、やっかいなものだ」

「その割には嬉しそうですね」

「一生、退屈しないですむのが、わかったからね」

 彼はジャケットの内ポケットから眼鏡を出すと、鷹通に渡して、ぽんと軽く

肩をたたいた。

「休暇は必要だよ。どんな人間にもね」

「今夜中に十五件ほど決裁を片付けていただければ、明日も休日にできますよ」

「……狂気の沙汰だな」

「部屋に入れたパーソナルコンピュータはオンラインにしてあります。あかね

さんが同室でなければ可能でしょう」

 彼は降参、と両手を上げた。

 男二人はリゾートに似合わない仕事を片付けに、ホテルのロビーを後にした。






                【 終 】




遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂