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忘らるな忘れやしぬる春霞けさ立ちながら契りつること
大和物語





 元・現代人のあかねにとって、夜明けが別れの時というのはなじみにくい

感覚だった。

 しかし京の貴族、左近衛府少将である橘友雅の恋人となった今は、そうも

言っていられない。

「友雅さん、もう出かけないと……斎宮様のお供をして伊勢まで行くのに」

「まだ星も瞬いているし、鳥も鳴いていない。大丈夫だよ」

「明るくなってからじゃ間に合いません。いつもの参内とは違うんでしょ?」

「しばらく逢えなくなるというのに、そんなに早く私を追い出したいの?」

「もう! 困らせないでください。そりゃあ私だってできるだけ友雅さん

と一緒にいたいです」

「その言葉が真であるならば、少しは救われるよ。我が身の半身とも思う

君を置いていく、この引き裂かれるような苦しみも分かち合えるのならば

耐えてみせよう。私を忘れやしないね?」

「忘れませんって。いつも都合の悪いことを忘れちゃうのは友雅さんでしょ」

「ひどい濡れ衣だ」

「どっちが! いつも私ばっかりいっぱいいっぱいで、何回、好きですって

言って抱きついても何遍も……その……恥ずかしい事させるじゃないですか!」

「それは仕方ないよ。繰り返し契らずには不安でたまらないのだもの。ほら、

この春霞の中で何もかもがおぼろげになって、この約束も忘れられて、君が

月に帰ってしまったら……と思うと、おちおち離れてもいられやしない」

「じゃあ友雅さんは私が不安じゃないって思うんですか? 友雅さんは偉い

左近の少将で、綺麗なお姫様や女房さんたちがたくさんいる……友雅さんに

一番ふさわしい、私の行けないところへ出かける時に、もうこれっきり私を

訪ねてきてくれないかも、とか、夢から覚めて私のことなんて気にかけなく

なるかもとか、ひとつも心配したり悩んだことないと思いますか?」

「すまない。君を疑ったり嘆かせたりしたくはないんだ。許しておくれ。

恋はこんなにも人を愚かにすると知らなかっただけなのだから。

私は、ただ君に溺れているんだよ」

「友雅さん」

 くすんと小さくしゃくりあげたあかねを、友雅はそのまま、かき抱いて

立ち上がると、恋人の頬に手をあてて、瞳をのぞきこんだ。

「信じるよ。私を忘れないでおくれ。私も決して今朝の契りを忘れない。

約束したよ」

「はい。大好きです。友雅さん。行ってらっしゃい……お気をつけて」

 暁の別れと約束は、次に逢う夜を、さらに鮮やかに彩るのだ。






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