憬文堂
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花 嵐
仲秋 憬 




  時を隔てた何処の地よりか召還された龍神の神子、元宮あかねが、左大臣の娘で、神

 子に仕える星の一族の藤姫のもとへ身をよせてからというもの、神子を守る八葉に選ば

 れた左近衛府少将、橘友雅の土御門殿訪問が、毎日のように頻繁になったのは自明の理

 である。

  そのことを歓迎しない者は、とりあえず左大臣家にはいない、と友雅は踏んでいた。

  左大臣邸である土御門殿の内で寝起きしている八葉たちは、友雅と立場を同じくして

 いるのだから、内心はともかく、表だって不快を表すはずもない。

  唯一、友雅の遊びめかした態度にくってかかるのは、神子に一途に仕える藤姫その人

 くらいだが、彼女にしても例外ではない。


  たとえば、友雅が礼儀を無視して、藤姫に取り次ぎを頼まず、勝手に神子を訪ねると、

 彼女は、ことさら生真面目に憤りをあらわにする。藤姫のそのような様は、友雅にとっ

 て、いつもからかいの種のひとつであったが、頬を紅潮させて友雅に不満を言う裏に、

 彼への好意と関心が息づいていることを、友雅は知っていた。


  藤姫とは、友雅が八葉となる前からの知り合いである。

  精一杯背伸びをしているいとけない姫が、存在すべてで向かってくるのを、突き放す

 ような友雅ではない。

  彼の女性への心遣いというのは、表面的には、幼女だろうが老女だろうが、わけへだ

 てをするような類のものではなかったし、まして、からかえばからかうだけ素直に反応

 する可愛い子供相手だ。

  藤姫の憤りなど、友雅にすれば、まだ遊びたいざかりの子猫が、じゃれついてちょっ

 と爪をたてたくらいのものである。

  自分が、年相応に真っ当に妻を持って、娘がいたら、こんな感情を抱くだろうか? 

  それとも歳の離れた妹がいたら?

  まだつぼみとはいえ、花に好かれて悪い気がするはずはない。その花は友雅の表面し

 か知らないとしても、だ。


  女性が無意識に自分に期待する言葉や行動をなぞってみせることなぞ、たやすいこと。

  友雅が心の奥底に抱えた虚無に触れてくるものは、誰ひとりいない。

  ならば、その場その場での気まぐれな言葉の応酬を、ただ楽しめばよかった。

  そう、今までは。



  この日、友雅は常になく早い時間に土御門殿を訪ねた。

  まずうかがうべきは藤姫である。

 「おはよう、姫君。神子殿はもうお目覚めかい?」

 「友雅殿! お早いですね。このような時間に来られるなんて」

 「そうかい? まあ、これでも八葉だからね」

 「こんなに熱心に八葉のお勤めを果たしてくださるようになるなんて、わたくし友雅殿

 を少し見直しましたわ」

 「それは、うれしいことだね。きょうは私が一番かな?」

 「ええ。辰の刻に来られれば間違いなく一番だと、この間お話したではありませんか。

 その辰の刻より早く来られたのですから」

  友雅にとって藤姫との会話で尋ねたいことの答えを引き出すのは造作もないことだ。

  左大臣家には三人の八葉が身を寄せている。自分の屋敷からここへ通ってくる身の上

 である友雅が、少しばかり策を弄したところで、彼らの有利は動かない。

  だが彼らは自分たちが偶然享受している恩恵を、まったくわかっていないのだ。友雅

 の敵としては、いささか物足りないかもしれないが、油断は禁物である。

  どんな相手でも全力で立ち向かい、これを殲滅する。

  利用できるものは、すべて利用して確実に手に入れる。失敗は許されない。

  かつて、友雅がこれほど本気になったことはなかった。生まれて初めて感じる情熱の

 行く末は、友雅自身にも、どこへ向かうか判断ができないでいる。


 「頼久と天真殿は剣の稽古で夜明け前から出ているようですし、詩紋殿もまだですわ。

 少し早過ぎたくらいです」

 「早ければ、こうして貴女ともゆっくりお話できるのだから、早過ぎるなどということ

 はありませんよ、姫」

  そんなことを言って友雅がやわらかく微笑んでみせると、藤姫はみるみる頬を赤らめ

 る。

 「友雅殿! わっ、わたくしにまで、そのようなことをおっしゃらなくても、よろしい

 んです!」

 「また、つれないことを」

 「そんな風に見ないでください!」

 「おやおや、ご機嫌を損ねてしまいましたか。……神子殿は?」

  少しだけ身をかがめて、藤姫の大きな瞳をのぞき込むようにして尋ねると、彼女は、

 我に返って立ち上がった。

 「ええ、そろそろお目覚めですわね。まいりましょうか。友雅殿、神子様に失礼な態度

 は慎んでくださいね。神子様は友雅殿のお戯れのお相手ではないんですから」

 「肝に銘じていますよ」

  幼い藤姫を先導にして龍神の神子のもとへと易々と渡る。

  敵は少なければ少ない程いい。残された時間には限りがあるのだから。



 「神子様、おはようございます。きょうは朝早くからお迎えにいらした方がいますわ」

  藤姫の案内に素直にしたがって、とりあず懐に入り込んでさえしまえばいい。

  藤姫は友雅を神子の前に残して下がっていった。

  部屋にいるのは神子と友雅のふたりだけだ。

  決して焦ってはいけない。

  慣れない小鳥を安心させるように、ことさら優しく言葉を重ねる。

  彼女の方から近寄ってくるのを待たなければいけない。おびえさせてはいけない。

 「神子殿、私に声をかけたりしてはくれないかな? 今日一日、君のお供をさせていた

 だきたいものだが……。どうだい?」

  いつもならば、こうして誘うと、打てば響くように「はい」と返事が返るのに、この

 日のあかねは違っていた。

  あきらかに何かにとまどっているのが、揺れるまなざしに現れている。

  そんなあかねを前にして、友雅は自分でも信じられないほどの焦燥に駆られる。

  彼女の細い肩をつかんで問いただしたい激情を、どうにか押さえ込む。

 「どうかしたのかい? 何かあったの?」

 「いえ、ご、ごめんなさい。なんでもないです。えっと、きょう……そう、きょうは、

 ちょっと……」

 「おや、だめなのかい? それでは私は退散しなければならないのかな」

 「あ! どうかここにいらしてください。朝早く迎えに来ていただいたのにすみません。

 人を呼んできますからっ」

 「神子殿、何を……」


  引き止める間もなく、ぱたぱたと彼女は友雅の前から駆け出して行ってしまった。

  ここにいろと言われたからといって、主のいない部屋でひとりたたずんでいても、ど

 うにもならない。


  あかねの様子が、妙だ。

  自分は何か間違いを犯しただろうか。彼女に避けられるような間違いを。

  彼女を追う前に、ここしばらくの己の行動を振り返ってみるが、わからない。


  思いがけないあかねの態度に、友雅の方が惑わされていると、小さな足音が近づいて

 きた。

 「まあ、友雅殿、おひとりですか? 神子様はどちらに……? 頼まれた白湯をお持ち

 しましたのに」

  女房ひとりを伴って、藤姫が現れた。

 「神子殿に頼まれた?」

 「ええ」

  不思議そうな顔をする藤姫を見て、友雅は、ひとつの答えを導き出した。

  ことを進めるにあたって、やはり友雅にも少し焦りがあったのだ。少女同志の結びつ

 きとでもいうものを、軽く見ていたかもしれない。あかねが、人の痛みや想いに敏感で、

 そのくせ、自分に向けられる気持ちには今ひとつ鈍いことは、よくわかっているつもり

 だったのに、そこまで気がまわらなかったことが悔やまれる。

  笑みに隠した心の奥底にある本心が、じりっと焦げ付いたような気がする。


  しかし、もちろん藤姫にそんな内心を悟られる愚を犯す友雅ではなかった。

  ことさら、何気ない風を装って言葉を重ねる。

 「藤姫、昨日、神子殿は外へ出られなかったね。久しぶりのお休みだったのかな。ご一

 緒にお話などされましたか? 姫君二人で楽しくすごされたのでしょう」

 「えっ? ええ……そうですね」

 「可愛い姫君がおそろいで、どんな話をされたか気になりますね。恋の話でもしました

 か?」
 
「と、友雅殿には関係ございませんわ!」

  明らかに図星をつかれたのだろう藤姫の口調と表情を見て、友雅は己の推測が正しい

 ことを感じ取る。


  失策だ。

  橘友雅ともあろうものが詰めをあやまった。


  しかし、まだ取り返しのつかないほどではない。むしろこれはいい機会だ。
 
 友雅がずっと待っていた、前へ一歩踏み出すためのきっかけにすることも可能だろう。

  光の照り返しでようやく見えるようなごく細い糸で編んだ網を、ひとつずつ仕掛けて、

 からめとり、引き寄せる。手にした機会を逃がしてはならない。


 「……いけないな」

 「何がですか?」

  友雅がほんの少し深刻さを見せると、藤姫はすぐに反応した。

 「神子殿の物忌みは明日でしたか」

 「ええ、そうです。よく覚えていらっしゃいますね」

 「どうも、すでに物忌みの影響が表れていたご様子で、気になったのです。京に積もる

 穢れに毎日のように当たられているのだから、無理もない。何やらお体の具合が悪いの

 を押し隠されているようで、急に席を立たれてしまわれた」

 「なんですって! 神子様が? 大変! どこへ行かれたんです? 友雅殿、神子様は

 どちらにっ」

 「探してお連れしますよ。ですから藤姫、きょうは他の八葉にもどうぞお引き取り願っ

 てください。神子殿はお人払いをしてゆっくり休まれた方がいい」

 「あ……は、はい。そうですわね」

 「大丈夫、八葉が神子殿の側近くにあれば、穢れの影響は受けないのでしょう? なら

 ば私がついていましょう。きょうから明日にかけて、外へ出ずに、こもっておられた方

 が安心だ」

 「え、ええ……。あ、それじゃ頼久や天真殿にも声をかけますから、一刻も早くお探し

 して……」

 「いや、そんなに大事(おおごと)にすると、神子殿が気にされるでしょう。あの方は

 優しい方だから。大丈夫ですよ。どちらの方に行かれたかは見ていましたから、すぐに

 見つかります」

 「……では、お願いいたします。友雅殿」

 「そのための八葉です。おまかせください」

  藤姫を安心させるように微笑むと、友雅は、あかねの気配を追って部屋を出た。




  すぐ近くの間に控えていたはずの藤姫が気付いていなかったということは、神子の部

 屋から寝殿を通って東門へ至る渡殿の先には、行っていないことになる。門を通って、

 外へ出たわけではないのだ。

  ならば彼女は、まだ土御門殿の中にいるはずだ。広い屋敷には、少女ひとりが隠れる

 ところなど、いくらでもある。


  ふと、透渡殿からこぼれんばかりに咲き誇る藤の花が目に入った。美しい庭は盛りの

 花であふれんばかりだ。乙女を隠すのにこれ以上ふさわしい場所はあるまい。

  友雅は、南の釣殿へ伸びた渡殿にしつらえられた階を駆け下りると、何かに引き寄せ

 られるように庭の花々を分けて歩みを進めた。


  藤棚の先、常磐の松のその奥の、香り立つ橘の木の影に、あかねは立っていた。

  ぼんやりと立ちつくす彼女を見つけた途端、友雅は突然、言いしれぬ怒りにも似た熱

 に襲われた。

  彼の想いはまったく届いていなかったのだろうか。幼い姫にゆずってしまえるほどの

 関わりとされたのだとしたら、友雅の魅力も落ちたものだ。

  彼女の心は、すでに友雅以外の他人にとらわれているのだろうか。

  いや、おそらく、あかねは、どこまでも無自覚なのだろうと、自分に言い聞かせる。

  重ねての失敗は許されない。


 「こんなところでひとりで花見かい? 私をさんざん心配させて、残酷な神子姫だ」

 「友雅さん!? なんで…………」

  あかねは、誰かが追ってくるとは思ってもみなかったのだろう。驚きに目を丸くして

 友雅を見る。そんなあかねを見るにつけ、自分の至らなさを思い知らされるようで、友

 雅は心の中で歯噛みする。

 「あんな風に目の前から去られて、私が君を放っておくと思ったの? ずいぶん私は信

 用がないんだな」

 「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

 「では、どんなつもりなのかな? 私ひとりを置き去りにして、藤姫を呼び出して」

 「え……と、」

  口ごもるあかねの前に、友雅は足早に歩み寄る。

  うつむいてしまった彼女の様子を見れば、なにをどう言おうかと思い惑っているのが

 手に取るようにわかる。

  彼女の口からどんな言葉が紡がれるのかを待つ間までもが、もどかしく狂おしい。


  桜の咲く頃にやってきた龍神の神子は十六という歳の割には幼げな少女だった。

  少しは退屈しのぎになってくれるか、程度に思っていたのだが、それはとんでもない

 思い違いであることに気がつくのに、たいして時間はかからなかった。


  友雅の前に突然舞い降りてきた彼女は、周囲を巻き込むほどの風を起こして、彼の胸

 の内にも、さざ波を起こしてみせた。

  最初は確かにさざ波だった。しかし気付かぬ内に揺り返される波は、みるみる大きく

 なり、うねりを持って、嵐を呼びつつある。


  何かに本気になったことなどなかった。この現世(うつしよ)に身を置いて、何ひと

 つ情熱を傾けるものとて無く、日々をその場限りの享楽に浸してきた友雅だ。

  義務も使命も、どれほどのものでもない。

  友雅の周囲を彩ってきた花々は、彼の胸に小石ひとつ投げて波紋をおこすことすらで

 きなかった。


  なのに、どうして、あかねだけが、こうもたやすく友雅を揺さぶり続けるのだろう。

  彼女はまだそのことをわかっていない。友雅が常々浴びせてきた聞きようによっては

 立派なくどきである甘い言葉を、ただからかわれていると思って、本気にはしていない。

  それは友雅が故意に、そう思わせてきたということもあるのだが、そろそろ、わから

 せてあげなければいけない。

  ないと思っていた友雅の情熱を呼び覚ましたのは、誰なのか。


 「今の私の世界の中心は君だよ。君から遠ざけられたら、もう息もできない」

 「……友雅さんってば、また、そんなこと……」

 「本当だよ」

 「あのっ……友雅さん、藤姫、可愛いでしょう?」

  予期せぬあかねの突然の切り返しに、友雅は確かに一瞬、虚をつかれた。

 「なんだって?」

 「私、この京に来て、藤姫を最初に見たとき、あんなお人形さんみたいな、可愛いお姫

 様が目の前にいて、本当に驚きました。そんなお姫様が、私に一生懸命に色々尽くして

 くれて、最初はとまどったけど、なんだかうれしくて」

 「神子殿、それは……」

 「友雅さんは藤姫とは、ずっと前からの知り合いなんでしょう? 友雅さんも可愛いと

 思うでしょう?」

 「可愛い、というなら、私に言わせれば、神子殿、誰より君が可愛いし、天真や、詩紋

 や、他の八葉たちだって、可愛いと思うよ」

 「藤姫は?」

 「…………そうだね、藤姫も」

  あかねが、どうしても言わせたいらしいので、友雅も逆らわず付き合ってみせた。

  我が意を得たりとばかりに、あかねは大きく頷いた。

 「そうでしょう? 私の世界では見ることもかなわない、本物のお姫様なんですよね。

 その子にあんなに慕われたら、私にできることは何でもしてあげたいって気になります

 よ。友雅さんみたいな大人は、そう思わないのかなって」

 「私がかい?」

 「ええ」

  あかねが真剣なので、友雅もいつものように混ぜ返したりはしなかった。ひとつ間違

 うとあやういところに、今、彼女はいるのだ。

 「まさか藤姫が私を好きだと言ったりしたかい? そんなことはないだろうに」

 「い、言いませんよ! 藤姫はなんにも。……でも、話してたらすぐわかっちゃいます。

 藤姫の口から、いろんな人のことを聞いたけど、友雅さんに対してだけ反応が違うんだ

 もの。友雅さんのお話をする時は、怒ったり笑ったり、いつものしっかりしてる藤姫と

 違う顔を見せてくれるんです。ああ、好きなんだな……って。友雅さん、もしかして、

 知っていて、私にそういうこと聞いてるでしょ?」

 「なるほどね……」



  姫君ふたりで友雅を話題にはしてくれていたわけだ。今の友雅にとって、あかねは本

 当に他意が無く、無邪気で、容赦なく残酷だった。まぶしいほどの純粋さだ。

  彼女は友雅を本気にさせたつけを払わなければならない。


 「しかしだね……そりゃ藤姫は可愛いが、私の娘かもしれない子だしねえ」

 「えっ!?」

  あかねは二の句が継げないほど驚いた様子で、友雅の顔を見上げた。

 「いくらなんでも恋の相手に幼子を選ぶのは無理な相談だよ。まあ、花のつぼみには違

 いないから、気が向けば子守のまねごとも、しないではないけれど」

 「む……娘って……だって…………ええっ?」

 「私が二十のころ、ここの左大臣様もまだ公卿の席に連なったばかりで、星の一族の総

 領姫にも、時折通っていらした。けれどそれは数ある通いどころのひとつでしかなかっ

 たから、姫は寂しく過ごされていたよ。私もまだ若くて無謀だったから、そんな人の目

 を盗んで契る、忍び逢いの恋もできた。それくらいのことでもしなければ退屈は紛れな

 かったんだよ。かりそめの恋とはいえ、もうこの世にはいない相手だ。……その形見か

 もしれないと思えば、そう無下にもできないだろう」

 「………………」

  あかねは驚きすぎて反応できずに、まばたきもせず目を見開いて友雅を見つめている。

  友雅はあかねから視線を外さずに真面目な表情のまま、ゆっくりと問いかけた。

 「どうしたの? 姫君」

 「あっ……えっと……じゃ…………とっ、とっ、友雅さんが、藤姫の、お、お父さんか

 もしれないってこと……ですか? ここの左大臣様じゃなくて?」

  彼女が明らかに狼狽しているのを見て取った友雅は、混乱からうわずった声を出すあ

 かねとは逆に、ますます落ち着いて微笑みを浮かべる余裕があった。

 「別に不自然でもないだろう?」

 「ふっふっ不自然でもって……あのっ…………でも…………」

 「…………ふふっ、……はははは、ごめん、ごめん。うそだよ」

 「……うそ…………」

  驚きと混乱の渦から思いがけず引っぱり出されたあかねは、我に返ると、今度は頬を

 染めて怒った。

 「友雅さん、ひっひどい、ひどいです! 本気にしたじゃないですか! もうっ!」

  両手でこぶしを作って形ばかりに叩こうとするあかねを、友雅は笑いながら、軽くい

 なした。

 「悪かったね、許しておくれ。でも君があんなことをするものだから、つい、いじわる

 したくなってしまったんだよ。私にとって藤姫は、そのくらいの幼子でしかないと、わ

 かっていただかなければね」

 「あ……」


  友雅がすんなりとあかねとの間を詰めてしまうと、彼女はそれ以上後ずさりもできず

 に橘の木の幹に背中を預け、目の前の友雅の表情に息をのんだ。今まで見せたことのな

 い男の顔に、あかねは自分が怒っていたことも忘れて見入っている。

 「神子殿に、ひとつ伺いたいのだが」

 「な、なんですか?」

 「藤姫が話した私の印象で、君が知らなかった私がいたかい?」

 「え? どういうことですか? 友雅さんのお仕事のこととかは藤姫に初めて聞きまし

 たけど……そういのとは別にですよね?」

 「そう」

 「印象……って、えっと」

  あかねは、ほんの少しためらいを見せてから、たどたどしく言葉をつむいだ。

 「藤姫の話してくれた友雅さんは……、なんだか友雅さんらしいなって、そういうお話

 ばかりでしたけど……。でも……っ、あの、本当に時々ちらっとなんですけど、私が感

 じていた、友雅さんが笑ってるのに淋しそうだったり、何か……私には届かないどこか

 で苦しんでるみたいな、そいういうことの理由がわかるお話は、藤姫からは聞けなくて。

 だから友雅さんが私を試してるみたいなことを言うのが、どうしてなのかは、やっぱり

 わからなくて……。私がまだ未熟だからなんだろうな……って。龍神の神子としても、

 まだまだなのは、仕方がないのかな……って……」


 「神子殿」

  友雅は、いきなり彼女の両肩をつかんで、彼女が背にしていた橘の木に、きゃしゃな

 細い体を押しつけた。友雅の今までにない乱暴な動作に、あかねは小さく声を上げた。

 「君はもうわかっているはずだ」

  友雅はあかねの耳元に唇を寄せてささやいた。彼女の肩を押さえる両手に、あかねの

 体がぞくりとふるえたのを感じて、理性のたががはずれそうになるのを、強く意識して

 押さえこむ。

 「私が誰にも見せなかった、悟らせなかった私を、君だけが感じるんだろう? それは

 君が私にとってかけがえのない、この世でたったひとりの特別な存在だからだ。君だけ

 が私を本気にさせる。そういう私を見ているのは君だけだよ。今まで私が関わってきた

 友人も、花々も、藤姫はおろか、肉親ですら、誰も知らない私を知っているのは」

 「え……っ?」

 「君はそれと知らずに私を魅了するね。だから恋せずには、いられない」

 「あの……、え? こ……恋っ?!」

 「そんなに純粋で、いったいどうやって、これから先を渡っていくのだろう……。君が

 傷つけられるのはいやなのに、傷つけてしまうのが、他ならぬ私なのかもしれないと思

 うと、たまらない。……あのね、君は知らないだろうが、私だけでなく、他の八葉も、

 藤姫も、みんな神子殿にだけ見せている顔があるんだよ。それが君の存在故に自然とそ

 うなることに、優しい君だけが気がつかない。いや、君は私たちが他の者にどんな風に

 相対しているかを知らないから、無理もないけれどね」


  あかねの体を押さえこみ、ほとんど抱きしめて耳に口づけるようにしてささやく友雅

 に、彼女は顔を真っ赤にして、それでも逃げずに彼の言葉を聞いている。

  真剣な、これ以上はないほど真剣な、生まれて初めての真摯な告白で、友雅は彼女を

 呪縛しようとしていた。心の底から相手を欲するということが、どんな行為を促すのか、

 友雅は初めて思い知った。

 「私の想い、私の情熱は、受け入れていただけないかい?」

 「あ……」

 「神子殿、答えて。返答いかんによっては、このまま君をさらってしまうよ」

 「あの……っ、私、私は……ただの元宮あかねで……」

 「神子殿」

 「友雅さんは……私を本当の私以上に勘違いしてますよ。私はそんなに優しかったり、

 純粋だったりしません。龍神の神子になってるのも、どうしてなのかわからなくて……

 そうしなきゃ帰れないから、こうしているだけかもしれないです。でも……」

 「でも?」

 「藤姫も……私なんかに一生懸命によくしてくれて。たまたま、私が神子に選ばれただ

 けなのに、あんなに親身になってくれて。まだ小さくて可愛い子供なのに大人みたいな

 口きいて……そんなの違うって気がするんです。でも友雅さんといたら、そんなでもな

 いのかなあって……それだけのつもりだったの。楽にしてあげたかった」

 「ああ」

 「私も友雅さんとお話していると、力が抜けて楽になってるから……だから」

 「君も? それは本当かい?」

  友雅は自分らしくもなく早くなる鼓動を意識したが、つとめて表に出ないように、彼

 女に聞いた。あかねはこくりと頷いた。

 「ええ、友雅さんといると、自分が龍神の神子としてしなきゃいけないこととか、自分

 の世界に帰らなきゃってこととか……、気がつくと、そういうこと全部、忘れてたりし

 て、ちょっとだけ…………怖いんです。友雅さんがじゃなくって、自分が……こわい。

 みんなは、私を神子として扱ってくれているんだから……だから……私が……私が……

 わたし……」

 「神子殿!」

  友雅は耐えきれなくなって押しつけていたた木の幹ごと彼女を抱き込んだ。

  友雅とあかねがたきしめていた香が花咲く橘の香りと溶け合って、ふたりを包んだ。


 「藤姫も、他の八葉も、関係ない」

 「友雅さん!」

 「鬼の侵略も、京の行く末も、龍神の力も、四神の守りも……本当のところ私は、どう

 でもいいんだ」

 「そんな、そんなのって」

 「──わが恋は 一昨日見えず 昨日来ず 今日おとづれなくば 明日のつれづれ い

 かにせん── 本当にね、君が私のすべてになってしまったんだよ。こんな男は、君は

 嫌いかもしれないな……これは許されない想いだろうか……」

 「ともまさ……さん……」

 「そんなに頑張らなくてもいい。全部を引き受けて、重荷にしなくていいんだよ。君が

 ここにあることが救いなのだから……私に君を守らせてほしい」

 「あ……」

 「こんなところで、ひとりで立ちすくむのは、これきりにしておくれ……。お願いだ。

 私を遠ざけるようなまねをしないで。ここ何日か共に過ごせなかった間、私は自分でも

 信じられないほど、つらかったよ」

  今にも唇が触れそうな距離で、友雅は哀願した。

 「私が嫌い?」

  あかねは首を横に振る。

 「……よかった。明日は神子殿の物忌みだったね……。その影響がもう表れているよう

 だよ。疲れているだろう? 無理もない。部屋へ戻って休もう。私に君を守らせて……

 ね?」

  すべてを飲み込むかのような友雅の懇願にまきこまれたあかねは、もはや陶然として、

 ゆっくりと頷くばかりだ。

 「それでいい……私の……神子殿」


  友雅はあかねのあごをやわらかくとらえると、初めて彼女に口づけた。

  相手をしっとりと包み込む優しい口づけ。

  あかねは、抵抗しなかった。




  張りつめていた緊張の糸が切れ、ぼうっと力が抜けてしまったあかねを、抱きかかえ

 るようにして、友雅は神子の部屋へ戻ってきた。部屋には女房ひとり控えてはおらず、

 誰もいなかった。

  ずいぶん不用心に思えるが、友雅にとって、かえって好都合というものだ。

  まだ高い日を遮るように、上げてあった御簾を下ろしてしまう。


  几帳を分けて、部屋の奥へとあかねをいざない、いつも床(とこ)にしているのだろ

 う、屏風を背にした畳の上に彼女を座らせると、自分もすぐ側に控えて、あかねを真正

 面から見つめた。

  昼でも薄暗い部屋の中で、彼女はどこか心ここにあらずといった風情だった。

 「神子殿、大丈夫かい? 白湯でもいただいてこようか」

 「あ、いえ、大丈夫……です」

 「そう? 私に遠慮は無用だよ。君にすべてを捧げているのだから」

 「友雅さん……」

  あかねのうつろな目を見て、かつてない不安が友雅を襲った。今のあかねは、友雅の

 告白にうかされているだけではない。

 彼女は確かに友雅以外の何かにとらわれている存在なのだった。友雅には聞こえない

 音を聞き、見えない何かを見る。彼女の内なる呼びかけが何なのか考えるまでもない。


  あかねは龍神の神子なのだ。

  それだからこそ星の一族である藤姫が尽くすし、八葉がその身を守る。

  しかし、今の友雅にとって、あかねが龍神の神子であることは、むしろ苦く狂おしい

 事実でしかなかった。


  友雅は、不安に駆られて、性急にあかねを引き寄せ、抱き取った。

 「なっ……友雅さん、何っ」

  あかねが驚いて友雅から身体を離そうとするのもかまわず、両腕で囲い込んで離さな

 い。

 「こうして腕の中に抱きしめていても、君はどこかに行ってしまいそうだ。何を見てい

 る? 私を見てごらん」

 「……そんなこと……。鈴の音、聞こえませんか?」

 「聞こえない。私には聞こえないよ」

 「気のせい……なのかな。でも、もうずっと……」

 「神子殿!」

  抱きこむ腕はそのままに頬に手をあて、額を合わせるようにして、瞳をのぞきこむ。

 「だめだ、行かせはしないよ。どんなことをしてでも──」

 「いますよ、ここに……」

  ごく小さな声で返事をするあかねの額に友雅は唇を落とした。あかねの眠りを誘うか

 のように額からまぶたまで唇でなぞっていくと、彼女は目を閉じて、それを受け入れた。


  現実から遊離したような、もの憂さがふたりを取り巻く。

  うとうとと寝入ってしまいそうなあかねを、起こさぬように、友雅はひたすら優しく、

 愛撫を施し始めた。

  右手で彼女を抱き込んだまま、むきだしの素足に左手をはわせ、ゆっくりとなでても、

 彼女は抗わない。

  じわじわと脚の間まで手を進めてしまうと、あかねは目を開けた。彼女を抱きしめて

 いる彼の唇が半分開いていて、笑みを浮かべていることが、わかるだろうか。

  友雅がとろけそうな視線を投げかければ、あかねは魅入られたようにじっとしている。

  彼から逃れる術を持たない彼女は、本当に初心な乙女だった。


 「ただ触るだけだよ」と友雅は言った。「そっと触るだけ」

  あかねはふるえていたが、それでも動かずにいる。こんなふうにそうっと、やさしく

 肌を愛撫されるのも、おそらく初めての経験だろう。太腿の間をはいまわる彼の掌は、

 ときどき柔毛の先をかすめたりしたが、それ以上先へは行きつかない。

  うやうやしく丁寧に白い指先でうぶ毛の先をなでる。

  その手が少し伸びた。谷間をまさぐると、あかねの躯はしだいに溶けて、しどけなく

 なっていく。友雅は頭を下げて、あかねの唇を吸った。羽毛のような軽い口づけに、彼

 女の躯が反応し出したようだ。その反応を見すまして、少しずつ友雅の舌があかねの口

 の中に差し入れられ、彼女の舌の先にたわむれる。


  彼の手はまだ動いている。探りつづけている。静かな動きで、まるで焦らすかのよう

 にゆっくりと。あかねの奥底に眠っていた快感を呼び覚まし、自分の問いかけに反応す

 るように繰り返し刻み込む。もう少し奥へ進めば彼女が声を上げてしまう、そのほんの

 少し手前で行きつ戻りつさせてみる。

  体中が熱を帯びはじめ、溶けていく。彼の舌が彼女の舌にからむ。それと同時に、あ

 かねの躯の中に隠れた別の舌がちらりと先を突き出すかのようだった。その舌も確かに

 触れてもらいたがっているのだ。あかねの口から吐息ともあえぎともつかぬものが漏れ

 だして、友雅を喜ばせた。

 「あっ……やぁ……!」

 「逃げないで。ただ触って可愛がってあげたいだけだから……」

  ひたすら甘やかに友雅の声が繰り返す。

  その刹那──。

  友雅の耳に、この秘められた室への侵入者の気配が届いた。


 「神子様、友雅殿、お戻りですか? お加減はいかがです? 神子様……?」

  高く澄んだ声が近づいてくる。

  友雅は軽く眉をひそめたが、愛撫の手を休めることはなかった。あかねはすでに朦朧

 として、うつつの声は聞こえておらず、友雅の掌が語る言葉だけに反応している。

  ならば、ここで引くのはおろかなことだ。身勝手で暗い思考が友雅を支配した。


  星の一族という血を継ぐ母親を早くに亡くした幼い子供は、有事にそなえて、大人で

 あることを強いられている。

  友雅が藤姫と初めて出会った時には、彼女はすでに裳着(もぎ)をすませていた。

  そのいびつさ、不自然さが、藤姫を押さえ込んできたのだろう。友雅に向けられてい

 た彼女の好意は、保護されるべき存在を断ち切られ、保護者以外で初めて相対した異性

 に、救いを求めてしまっていたようなものだ。

  龍神の神子、あかねが京に降臨した今、藤姫の鬱屈を開放できたのは、やはりあかね

 であって、友雅ではなかった。

  ならばどこに遠慮が必要だろう。仕えるべき主のもとへ裳を引いてやってくる娘に、

 友雅は容赦するつもりはない。

  この情熱を友雅から引き剥がすことは、すでに不可能なのだと知ればいい。

  一人前に扱ってほしいというなら、それなりの覚悟が必要だ。友雅の哀れみや同情な

 ど、藤姫も欲しくはないだろう。


 「神子様、お褥(しとね)を……?」

  御簾をくぐり、器用に袴をさばき、すべるようにしてやってきた藤姫は、ついに友雅

 とあかねがからみあう場から、几帳ひとつ隔てた前までたどりつき、そしてぱったりと

 歩みを止めた。

  几帳に映る影を、確かに藤姫は見ただろう。友雅はこの闖入者に見せつけるがごとく、

 いっそうあかねにのめりこんだ。今、あかねが正気に戻るようなことになれば、きっと

 羞恥で月へ逃げ帰ってしまう。そんなことは絶対に許せない。

  友雅の手があかねの脚のつけねのまわり、腰のまわりを動く。その手はあかねの血を

 吸い寄せて、自由自在に流れの向きを変えていた。指がそうっと彼女の一番敏感な芯に

 触れ、花弁にそって下っていく。雫に濡れたあかねを知って、ふふ、と小さくもれる笑

 い声も、静まり返った部屋に、恐ろしいほど響く。

  あかねに自分だけしか感じさせないと決意した友雅の愛撫は留まることを知らなかっ

 た。

 「呼んでる……の? ……だれ……? あっ……あ、ああっ」

 「私だよ……神子殿……こうして…………さっきからしてあげているだろう? いいよ。

 もういって…………。声を聞かせて……ああ、私の……」

  音をたてた口づけも、乱されていく衣擦れの気配も、何もかもを隠さない。


  ついには、友雅が、あかねの上に自らの重みを重ねてしまうと、その動きで、ふわり

 と風にあおられる帳(とばり)。

  几帳を隔てた先に立ちすくむ影は、凍りついたように動かないままだ。

  柔らかな体のそこかしこへ落とす接吻で、あかねを酔わせることに、ひとしきり執心

 しておいてから、友雅はあかねの首筋にたどりついていた顔をゆっくりと上げた。

  几帳のほころびから、ぎらりとした抜き身の刃の輝きにも似た視線を投げかける。

  これ以上かいま見を続けるつもりなら、この現実を受け入れて祝福するがいい。

  藤姫の瞳も爛々と妖しいまでに輝いていたが、友雅の刺すような牽制をまともに浴び

 ると、紙のように白くなっていた面に、一気に血を上らせた。

  絹の帳のほころびのはかないすきまからからむ視線に、限りない緊張感をたたえたま

 ま友雅の口元は勝ち誇るかのように笑みを形作る。


  さすがに友雅の暗い情熱を映した視線を受け止めて、返せるほどの覚悟はなかったの

 だろう。藤姫は呪いを解かれたように、にぶい動きで一歩、後ずさったかと思うと、背

 を向けて脱兎のごとくその場から逃げ去っていった。


  それを見とどけた友雅は声を上げずにあでやかに笑うと、また目の前の情熱をかき立

 てる行為に舞い戻る。

  花芯の周りをはい回る彼の指を感じて、あかねの小さな丘を彩るつぼみがふくれて硬

 くなる。敏感な肌に表れる情欲のしるしが愛おしくて、過剰に求めてしまいそうだ。

  彼の舌は容赦なく彼女のありとあらゆる部分をなぶっていく。

 「あ……んっ、も……やぁ……あああぁっ!」

  友雅の引きも切らない誘惑に、不意に彼女のなかで種がはじけたかのようになって、

 乙女の躯は彼の下でのけぞった。なんとも言えない快感が、体躯を走り抜ける。


  この愛欲を妨げるものを友雅は許さない。契りあう行為そのものによって、一切から

 解放され、この世の支配者となる気持ちを味わう時、魂は救済される。

  その救済は、すでにあかねからしか与えられることがないとわかっているのだ。

  失うことなど考えたくもない。ならば、すべてをかけても落としてしまおう。


 「誰にも邪魔はさせないよ……。それが神であろうともね」

  すでに聞こえていないだろうあかねの耳元で、友雅はささやき続ける。


  突然の嵐の中で、友雅はあかねがまだ有していた羽衣を引き裂き、彼女の帰路を断つ。

  そんな彼の表情は、かつてない陶酔に、冴え冴えと美しく輝くのだった。




                   【 終 】




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