憬文堂
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 生まれいづる日 

仲秋 憬





 荒い息をつき、楽屋に戻ってきた依織を、浴衣、黒衣の松川の弟子たちが出迎える。

「若旦那、おめでとうございます」

「おつかれさまです!」

「おめでとうございます!」

 さっきまで舞台の上で振っていた身長よりも長い毛の白頭(しろがしら)を注意深く外し、

大きく息を吐いて座る。それでもうほとんど息は整った。化粧した顔にうく汗を押さえる

ことをせずに言う。

「羽二重、ある?」

 弟子の手で真っ白な絹の布が持ち出され、目を閉じ上を向いて座る依織の顔にふわりと

かけられると、手早く布を顔に押しつける。

 一回の舞台で一枚きりしか取れない押隈を取った。

「ああ……悪かないね。獅子になっていた……かな」

 獅子の隈取は、さほどにぎやかに派手なものではなく、実にシンプルだ。

 くっきりと太く力強い黒い眉、鼻筋とまなじりを大きくひいた紅は燃え上がる炎の穂先

のようだ。目元口元をひきしめる墨の黒。それと重なり、きりと結ばれたへの字の上唇の

紅が、どこか無垢な獣の愛らしさを感じさせて美しい。

 ぼんやりと白布ににじむ隈を見ながら、獅子の精からゆっくりと松川依織に帰ってくる。


 白い布に映し取られた、さっきまでの自分が演じていた獅子の隈取をながめていると、

楽屋のれんがゆれて、白い百合の花束をかかえた彼女がやってきた。

「依織くん、おめでとう! すっごくかっこよかった!!」

「ありがとう、すず。観てくれたんだね」

「当たり前じゃない!」

「大歌舞伎の興行ならともかく、一回きりの勉強会の舞台だってのに、ずっと稽古で会え

ずにいたから……振られやしないか心配だったよ」

「そんなこと、あるわけないのに〜」

「フフ、だといいけど」

 楽屋にやってきた少女、鈴原むぎは、依織の恋人だ。

 彼女は、修行中の若い歌舞伎役者との恋愛から逃げずにいてくれる、依織にとって唯一

の人だった。


「それ、なあに?」

 弟子の一人に掲げさせていた羽二重に気づいたむぎが尋ねた。

「ああ、押隈を取ったんだ。今日の舞台は気持ちが入っていたから」

「きれいだね」

「……そう?」

 くつろいだ浴衣姿になって、残っていた化粧を落としながら依織が返事をする。

「さっき観た獅子は、もういないのに……、まだそこに魂が残っているみたい。あんなに

何度も背より長い毛を振るなんて、すごい踊りだよね。びっくりしちゃった。最初は綺麗

でかわいい女の子だったのに……」

「面白い踊りだと僕も思うよ。前半と後半でまるっきり変身するものね」

「やってて楽しい?」

「……楽しめるところまでは、まだ……かな。一度、投げ出してしまった役だから……」


『鏡獅子』は昔、依織が襲名公演ですっぽかした大きな役のひとつだった。

 たとえ復帰しても、そうそう演じることが可能な演目ではない。主役は、可憐な女小姓

の弥生と勇壮な獅子の精。途中から、かわいらしい胡蝶の精をしたがえて、たった一人の

役者が踊り抜く難曲である。

 まして一度、襲名のため初役で教わったものを放り出した依織に、再度『鏡獅子』を舞

う機会は、もう一生訪れないかもしれなかった。


 それでは先へ行けない───。


 そう思って勉強会として一回だけの自主公演をしたのだ。

 歌舞伎座や国立の大劇場ではなく、御堂百貨店が持っている小さな劇場でのものだった

が、それでよかった。御堂の祖父は芝居好きの粋人で、もともと松川ひいきであり後援会

の名誉会長であったから、本興行では、まだとてもつかないような大役を若手が演ずる自

主公演を、気前よくさせてくれたのだ。

 依織の父も祖父も、若い頃は同じ御堂の劇場で勉強会の舞台を持った経験がある。

 それに習うようにして、依織は、今日、九月二十三日に『鏡獅子』を踊った。

『若松会』と名付けた勉強会は、弟の皇と共に、それぞれ、普通の興行ではできない演目

をやろうと決めた。皇は『鷺娘』を。依織は『鏡獅子』を選んだ。

 話題の花形兄弟の大役を観られると、小さな自主公演なのがかえって話題を呼び、切符

は前売りで、熱心なファンやひいき筋だけで完売した。

 この一回にかける依織の執念はすさまじく、恋人のむぎとも、ほぼひと月の間、まった

く会わずに稽古ばかりしていた。よくぞ、あいそをつかされなかったものだと思う。

 だが、むぎは放っておかれてすねるでもなく、楽しそうだった。


「鏡獅子って江戸城の大奥が舞台なんだよね。将軍様が、踊りを見たいからって舞わせる

設定なんでしょう? ちょうどお客様が将軍様ってことなんだってね」

「よく知っているね」

 依織が感心してみせると、むぎは花のような笑顔になった。

「あのね、実はあたし、ちょっと予習したの」

「鏡獅子をかい?」

「依織くんとつきあうまで歌舞伎って、全然、知らなかったから、でも本や写真だけじゃ、

やっぱり、よくわからなくてさ。それでねー、見せてもらっちゃった!」

 得意そうに告げるむぎ。

「……何を……?」

 仕舞い支度の手を止めて、依織は、むぎをまじまじと見た。

「子どもの頃の依織くんと皇くんが胡蝶の精で〜、お父さんの秀之介さんが弥生と獅子の

ビデオ!」

「一体どこで?!」

 思わず声が大きくなる依織に、むぎは無頓着だ。

「かわいかったあ。あれって依織くん小学3、4年生くらいかな? 真っ赤な着物で胸に

しょった太鼓たたく振りのとことか、蝶々の衣装になって獅子の肩に、ふわぁってとまる

みたいなところとか、もうたまんない! 歌舞伎ってすごいねえ。ほんとにちっちゃい時

から舞台に立ってるんだね」

「すず……それどこで誰に……」

「ふっふっふー、どこって内緒だよ。あたしだって依織くんのコト色々知りたいんだから。

ね〜!」

「君には、かなわないな」

 依織は降参した。むぎは本当に得意げで、それがまたひどく可愛い。


 むぎに自分の過去を洗いざらい知って欲しいと思ったことはない。そうでなくても過去

の恋愛をいつまでも引きずっていた依織は、以前さんざんむぎを傷つけた。泥沼のような

澱の中でもがいていた依織を救い出してくれたのは、むぎだ。逃げていた舞台に立ち向か

う勇気をくれた。

 むぎと一緒に歩いて行く未来こそが今の依織のすべてだ。

 けれど好きだから知りたい、と何のてらいもなく伝えてくれるむぎの気持ちは、いつも

安心できるぬくもりで依織を包み、あまりにも心地よく愛おしかった。


 君を失ったら、今度こそ本当に、僕は狂うか死ぬかするだろう──。


 でも、それは言わない。

 むぎのことは、ゆっくり時間をかけて大事に愛したいと心底、依織は思っている。


「ねえ、むぎ……この押隈、もらってくれないか?」

 依織はさっき取った隈取の布を指して言った。

「え……」

「君に持っていてほしい。表装は僕がさせるから、そうしたら」

「だって、これって記念の……普通はごひいきとかに差し上げたりするんじゃないの? 

一回の舞台で一枚しか取れないんでしょ? あたしなんかがもらったら悪いよ」

「君がいなかったら、今日、僕は鏡獅子を踊っていない。だから君にもらってほしい。

いやかい?」

「まさか! ……でも……でも……」

「むぎサン、若旦那がこう言うんだ。もらってやっておくんなさい」

 さっきから側にいた依織のお目付役の松川の高弟である老役者が脇から声をかけた。

「ほんとに、あたしがもらっちゃってイイの……?」

「そう言ってるだろう。ああ、名前を入れておかないとね」

 依織は用意させた筆に墨で、押隈の右下に、さらりと名を書き、朱の落款を押した。

 むぎは依織の隣にぺたんと座って、そのよどみない筆さばきを見守っていた。

「きれいな字……」

「ありがとう。名前くらいはね」

「そんなこと言っちゃって。墨絵だって色紙とか描けるように練習してたって聞いたよ」

「松と鶴くらいだ。あとは椿とか。決まったものしか描けない」

「すごいなぁ」

「君も少し練習すればすぐに描けるよ。なんたって元美術教師だもの」

「ニセモノのね! やーだ、もう」


 出会ったきっかけのスパイ顔負けの日々を思い出して、二人は顔を見合わせて笑った。

 御堂家で暮らしていた日々。昼は女教師。夜は家政婦。はっきり言って無茶苦茶だった

が、家主の御堂と知り合い、同居していた祥慶学園のラ・プリンス達と過ごした数ヶ月の

時間は、今となっては大事な思い出だ。


「何だかおかしい。だって依織くん、今日お誕生日じゃない! あたしが何かプレゼント

したいのに、素敵な舞台見せてもらって、こうして特別に隈取までもらっちゃって」

「おや、僕に何かお祝いをくれるのかい? 嬉しいな」

「うーん、あんまり大したものじゃないんだけどね。あたしが依織くんにあげられるもの

なんて知れてるし……。本当は何か依織くんが一番欲しいものをあげられたら、よかった

んだけど」

「その気持ちだけでも嬉しいよ。君がくれるものは、いつだって僕の宝物になる」

「それじゃあんまりだよ、依織くん」

 むぎは不満そうだ。


 楽屋で帰り支度を手伝っている周囲の弟子たちが、恋人たちを忍び笑いで見守っている。

「むぎサンが早く若旦那と一緒になって、跡継ぎを、こしらえてくれたらいいんですよ。

その子が踊れるようになったら胡蝶を教えるんだ。親父さんの獅子を間近で見ながら胡蝶

を踊って芸を覚えるんですよ。そうやって芸は伝わっていくんさね」

「そりゃいいや。早く若旦那に子宝でもプレゼントしてやってくださいよ!」

「えええぇーっ」

「こら、気が早いよ。彼女が驚いて逃げ出したら、どうしてくれるんだい」

「そりゃ若旦那の日頃の心がけでしょう」

「しっかりつかまえておかなけりゃ」

「そうそう! 若旦那、むぎサンが見に来てくれなきゃ本気になりゃしないんだから」

「うそーっ」

 むぎは真っ赤になってあわてている。

 そんな彼女を見て依織は唐突に自分の衝動を我慢できなくなった。

 もうあきらめたくない。

『鏡獅子』の成功が自分の気持ちをひどく高揚させているのはわかっていたが、止められ

なかった。


「ひとつだけ欲しいものは……あるよ」

 こっそりと依織がつぶやくと、むぎは顔を上げた。

「ずっと僕の……僕だけのものにしたかったけれど我慢していたんだ」

「ほんと?! なになに?」

 膝を乗り出して聞いてくるむぎの好奇心むき出しの幼い表情を見ていると、自分がずい

ぶん罪深い男だと思う。

 けれど依織をそうさせたのは彼女自身だ。だからどうか僕を許して。


「たぶん、君をとても困らせると思うけれどね」

「えー、なんだろ? あたしがあげられるものだよね?」

 むぎはしきりに首をかしげる。

「僕が歌舞伎をやるのを見るのが好きだって言ってくれたね」

「うん」

「歌舞伎は、きらいじゃない?」

「うん、もちろん」

「じゃあ、むぎには、一生……僕の演る芝居を全部見て欲しい」

「……え?」

 むぎが大きく目を見開いた。

 依織はとっておきの笑顔で微笑むと、むぎを引き寄せて、彼女だけに聞こえるくらいの

吐息のような声で、耳元に唇をつけるようにしてささやいた。

「俺は松川依織でいることをやめることはできないから、むぎ……君をこっちへ引っ張り

込むよ。苦労かけるかもしれないけれど……俺のすべてで守るから。──君が欲しい」

「依織くん……」



 一世一代の告白の返事を。

 めくるめく恋人の夜を。

 共に歩く未来への約束を。


 松川依織は、その誕生日に、最愛の人から一番欲しいものを得たのだった。






      


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