憬文堂
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 積恋雪関扉 

仲秋 憬






 松川依織が一度は捨てて、もう継ぐことはないと思っていた松川秀之介。


 この名跡をあらためて襲名することが遂に決まった。

 襲名公演は東京の歌舞伎座から始まって、その年の京都南座の顔見世はもちろん、歌舞伎の

海外公演にまで及ぶ。

 その海外公演先にアメリカのニューヨークが入っていたことに、依織は曰く言い難い思いを

味わった。

 ニューヨークには、むぎがいる。彼女は御堂一哉と共に暮らしているはずだった。



 彼らをめぐり合わせるきっかけになったとある事件により両親を亡くし、身よりは姉ひとり

だけのむぎを、家政婦の立場から一躍シンデレラ・ストーリーのヒロインにしてしまった御堂

一哉は、世界の御堂グループの頂点に立つにふさわしい働きをしているらしい。

 らしい、と言うのは、歌舞伎役者の依織にとって、それはもはや遠い世界であり、御堂の名

は、時折、ニュースや新聞で見かけるくらいの関わりしかなかったからだ。

 だが、一哉の祖父である御堂の御大は松川の後援会の名誉会長でもあったし、本当は依織に

しても御堂とまるきり無縁でなどいられない。何より一哉は、かつて依織が一時的に歌舞伎を

辞め、家を離れてふらふらしていた時期に居候していた際の家主である。



 あの頃、名門私立の祥慶学園で漫然と学生生活を送りながら、御堂一哉個人の私邸で暮らし

ていた四人の男は、血縁関係もなければ友人関係でもなかった。強いて関わりを上げるなら、

全員が祥慶学園に通学し、女子生徒の投票で選ばれたラ・プリンスと呼ばれる学園の人気者で

あったことくらいだ。

 その壮絶な男所帯に、ある日、一哉が気まぐれに据えた家政婦が、むぎだった。

 初夏にやってきた、たった十五の、訳ありで、とびきり前向きで健気な少女は、敢然と男達

の世話をやき、学園が夏休みに入る頃には、すっかり御堂家になくてはならない存在になった。


 依織が、彼女のかわいらしい恋心を打ち明けられたのも、その頃だった。

 御堂邸でひとり夏中留守番していた彼女に、一度は付き合うことを承諾して。

 しかしおままごとのような交際は、ほんのひと月と続かなかった。


 かけがえのない大事なものをなくしてから気付くのが愚か者。

 自分が彼女に抱いている気持ちが恋愛感情ではないと一方的に見切りをつけたのは依織。

 別れを切り出したのも依織。

 十六になったばかりの彼女が本当につらかった時に、過去に囚われ自分の痛みしか見えずに

逃げたのも依織の方だった。


 むぎは依織が彼女に恋愛感情を抱けなかったから、別れを告げられたのだと思ったろう。

 依織自身がそう思いこんで、そのように振る舞ったのだから当然だ。

「依織くんは優しいから……あたしバカだから勘違いしちゃったの……。ごめん……ね……」

 別れる間際に彼女は今にも泣き出しそうな顔で言った。

 そうではない。

 松川依織が嘘つきで愚かだっただけだ。

 つかみかけていた幸せに気づきもしなかった代償は大きい。 

 依織は、むぎと別れた時も、やはりこうなってしまったな、と思っただけだった。

 本当にそう思っていたのだ。

 
 まだ少年の頃に最初で最後と信じた本気の恋でずたずたになった自分の永遠の女性は、結局、

依織を夢中にさせて裏切った雪音その人なのだとあきらめた。

 雪音の残していった指輪や手紙をどうしても捨てられなかったのが、その証だ。




 ところが、梨園に戻り、空白を埋めるため死に物狂いで稽古をして、何もかも捨てて自分の

一切を舞台に捧げようと決めてから、依織が折にふれ思い出すのは、雪音ではなく、むぎの事

ばかりだったのだ。


「依織くん、おはよう!」

「うん、ありがと」

「おかえりなさい、依織くん」

「ジョーダン言わないでよ。まったく、もう……」

「どうしたの? 依織くん」

「はい、これ。頼まれていた洗濯物」

「そんなコトないよ」

「依織くん?」

「ほかのものがいいな」

「……依織くん」

「依織くん」


 むぎの思い出は、かつてあれほど依織をさいなんだ雪音の焼けつくような苦しさを伴う記憶

とは違い、どこかほのぼのとしたぬくもりがあった。しかし、そのぬくもりは、すでに過去に

しかなく、永久に遠ざかってしまった寂しさを同時に依織に運んできた。



「どうして今頃、あの子のことを、こんなに思い出すのかな……」


 雪音の時と違って、依織はむぎを思い出させる形見など何も持っていない。

 あえて探せば、彼女が洗濯してきちんとアイロンをかけてくれてから、その後、一度も袖を

通していないシャツや、取れかけたボタンをつけてもらった祥慶学園の制服くらいか。いくら

ラ・プリンスという称号に与えられた自分だけの特注品と言えど、卒業した高校の制服など、

もはや二度と着ることも見ることもないだろう。

 依織がなぞるのは自分の記憶だけだ。 


 ずいぶん後になってから、依織は自分が後悔しているらしいと気が付いた。

 自覚した途端、むぎの記憶は、なお鮮やかに蘇るようになった。


 御堂邸で赤の他人五人で暮らしていた頃のこと。

 何もできない男所帯の日々の果てに尋常でなく散らかり放題汚れ放題のとんでもない屋敷を、

あっという間に磨き立て、それまで一度たりとも同じテーブルで食事などしなかった同居人達

をそろって朝食と夕食の席に着かせるようにしてしまったむぎ。

 両親を亡くしたよるべなき少女が、たったひとりの身内である行方不明の姉を探すために、

どんなに頑張っていたか。

 心細さと寂しさに泣きたいことも、くじけそうになったことも、きっと何度もあったはずだ

が、彼女は、いつも元気に笑ったり怒ったり困ったりしていて、自然に彼らの笑顔を引き出し

ていた。


 そんな少女に好意を抱かない男がいるわけがない。

 突然出来た頑張りやでしっかりものの可愛い妹のような女の子。

 彼女を傷つけたくはない。だがやはり、これは恋愛ではない。依織はそう思っていた。


 けれど、それは──。


 むぎが告白してくれる少し前に一度、二人で海にでかけたこともあった。

 その時の依織はお世辞にも世間が信じるエスコートの上手い遊び上手な年上の男ではなく、

相手を思いやれず自分の物思いにかまけてばかりで、守るべき少女に気遣われている情けない

男だった。

 せめて何かプレゼントをさせてほしいと依織が申し出た時、彼女はみやげもの屋の商品には

目もくれず、別のものを欲しがった。

 彼女が喜んだのは波に洗われ丸くなったガラスのかけらだ。

 依織が初めて雪音の呪縛を離れて、むぎを強く意識したのは、おそらくこの時だったと思う。


 それが恋情だとは、思えなかったはずなのに。





「依織くん! 久しぶり! 襲名おめでとう!」

 ずいっと目の前に突き出された緋色のリボンのついた白い花の鉢植えには『松川秀之介丈江』

と筆文字の躍るカードがしこんである。

 ニューヨークの楽屋で胡蝶蘭を見られるとは思わず依織は呆然とする。

「むぎちゃん……」

「あははっ、驚いた?」

「ああ……とても……驚いたよ。……よく来てくれたね」

「依織くん、襲名のことも、公演でこっちに来ることも教えてくれないんだもん。もう忘れら

れちゃったかなーって、ここに来るのもすごくドキドキしちゃった。……迷惑じゃなかった?」

「迷惑なんて、とんでもない。ごめんね。忙しい君たちに声をかけて、役者風情の僕のことで

煩わせてはと思っていたんだよ」

「え〜っ! 忙しいのは一哉くんだけで、あたしは全然そんなコトないし」

 そうは言っても御堂グループの頂点に立つ事が決まっている御曹司の伴侶という道を選んだ

むぎが、暇を持てあましているはずはない。

 ただ持ち前の明るくのびやかなひたむきさは、何ら損なわれていないところを見ると、異国

の地でも、むぎはむぎらしく暮らしているのだなとすぐにわかった。

「依織くん……やっぱり依織くんは歌舞伎やるのがいいよ。あんまりステキで感動しちゃった」

「ありがとう。君にそう言ってもらえるのは何より嬉しいよ」

 依織が言うと、むぎは素直にうなずいて笑う。まるで花のように。一哉の丹精がしのばれる

笑顔だ。

「綺麗になったね。それに大人っぽくなった」

「またまた、依織くんってば口が上手いんだから!」

 ぱぁっと頬を染める彼女の可愛らしさは昔と同じだけれど、そこに昔にはなかった色と艶が

加わって、目がくらみそうだ。

「本当だよ。そう言われない?」

「全然。でも依織くんが言ってくれるなら少し自信持っちゃう」

「こちらで昔の君を知るなじみに会う機会がないからだよ」

「……そう言えばそう……かな」

 むぎの無意識の返事に一哉の執着が見て取れる。

「一哉は一緒じゃないの?」

「ロビーでつかまってるから、先にあたしだけ来ちゃった」

 御堂の跡継ぎはプライベートの観劇先でも完全に自由になどなれないのだろう。

 よく、むぎ一人を依織のもとへ寄越す気になったとも思うが、それだけ今の一哉は彼女との

絆に余裕と自信があるのか。それとも、むぎをとどめることなどできないだけか。



 依織が失ったものを、一哉は手中にした。

 それをうらやむことは、自ら手放して逃げた依織には許されない。

 むぎは幸せになる。

 御堂の家は、梨園という檻の中の松川家より、むしろずっと居心地がいいはずだと依織には

信じられる。

 一哉は命に代えてもむぎを守り愛するだろう。

 今、目の前にいるむぎが、何よりそれを物語っている。



「松川さん」

 御堂の家を離れる時、最後に一哉とかわした会話を、依織は今でも時々夢に見る。

「あいつ、みんな俺が初めてでした。……感謝しますよ」

 そう言って、一哉は名実共にむぎを自分だけのものにして、さらっていった。

 いやみでも嘲笑でもなく、一哉の心の底からの感謝を感じ取り、依織は衝撃を受けた。


 依織が、むぎとつきあっていたのは、半月ほどのほんの短い間だ。

 今となっては、実際つきあっていたとも言えないような時間でしかない。

 その間、依織は、むぎと口づけひとつ交わさなかった。

 芝居の演技どころか一夜限りの行きずりの男女関係でも、キスなどいくらでもしていたのに、

わずかなりとも彼氏彼女と呼ばれる関係であったはずのむぎとは、遂に一度たりとも唇を重ね

ないまま別れた。


 したくなかったからではない。

 できなかったのだ。

 触れることすらためらわれ難しいなんて、他の誰にも感じたことがない。

 むぎだけが依織を戸惑わせた。


 今になって思い知る。

 依織は自分の本気を恐れていたのだ。




 そんな依織に、一哉の手で美しくなったむぎは無邪気に話しかけてくる。

「依織くん、あたし本当に依織くんが好きだったよ。あたしの自慢なの。こんなに素敵な人と

ほんの少しだけど一緒にいたことがあるって」

「……ありがとう。それは嬉しい言葉だけれど、一哉に知られたら殺されそうだね」

「まさか、そんなコトないって!」

 はじけるように笑う彼女の笑顔は、あまりにもまぶしい。



 一哉が困っていたむぎを拾ったという祥慶学園の前で、最初に彼女に出会ったのが、一哉で

なくて依織であったら、きっとこの縁は生まれなかった。

 過去を悔やむのは意味がない。

 どんな道を選んでも、依織自身が動かないのだから、結果は変わらなかっただろう。


 だから依織は永遠に口をつぐむ。

 めぐりあえた幸運に感謝を。かけがえのない人の幸せだけを祈るべきだ。




 花がほころぶように笑うむぎの笑顔を胸に刻んで、依織は舞台に立つ。

 一度退いた舞台に戻る気になったのは、彼女と出会えたからだった。


 舞台の上には、すべてがある。

 なくした恋も。

 はかない夢も。

 虚構の中にある真実をすくい上げる。

 かなわぬ永遠を見ることができる唯一の場所だ。

 ゆれるまなざしの先にいるのは、十六の頃のむぎの笑顔。



 君はいつでも僕の心の一番きれいなところに住んでいる。



 むぎの存在は限りなく優しい思い出になり、依織を包んだ。


 降り積む雪に関の扉(と)は開かず、降る雪がいつしか散る花になる頃、彼女は遠い彼方

で幸福をつかむ。雪を溶かした彼女が残したぬくもりを抱き、越えられぬ関のこちら側で、

祝いの舞をひとさし舞おう。

 恋の夢は依織の舞う手の先に散る花にゆれて、見る者を魅了するのだ。 

 散りくる花に君を想う。



 ──まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで──



 松川依織の心の内に散り続けた花を知る人はなく、ただその舞だけが人々の胸に残った。





─まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで─
六代目尾上菊五郎・辞世の句




      

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