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 幸福の輪郭 

仲秋 憬





 二年休学した祥慶学園を二十歳で卒業した後、松川依織は休学した時期を含め三年ほど

のブランクを経て、歌舞伎の世界に舞い戻った。空白を埋めるように稽古にも熱心に取り

組み、大人の芝居を身につけた彼を周囲は歓迎し、松川右京─依織の芸名だ─は、瞬く間

に若手でも有数の花形役者の一人として数えられるようになった。

 自分の誕生日だろうが、家族の命日だろうが、役者は舞台に乗っていることが全て。

「親の死に目に会えるような役者になるな」というのが祖父、三代目松川秀五郎の教えで

ある。

 歌舞伎役者として梨園に復帰すれば、どうしたって恋人との時間を作るのは難しくなり、

個人としての松川依織でいられる時間は、削られていく。


 現在の依織の私生活上の気がかりは、恋人の鈴原むぎのことだった。

 まだ十代の愛すべき少女であるむぎなら、もっと恋人同士の時間を共有できる相手に疎

ましいほど愛されて当然なのに、依織の手を取ったことで、何かにつけて我慢を強いてい

るのではないかという焦りが、常に依織にはつきまとう。

 例えば、毎年夏休みにあたる彼女の誕生日にも、依織は舞台に立っていた。芝居がはね

た後の夜は、かろうじて共に過ごせたが、夏芝居で若手を集めた座組で思いがけず大役の

初役を与えられた舞台の公演中。しかも初日からまだ五日目の7月9日では、用意周到な

誕生日デートなどできるはずもない。

 それでも彼女はいつも嬉しそうに明るく振る舞い、彼に不満を見せたことはなかった。

「えー、そんなの、依織くんの舞台を特等席で観られるのが、あたしにとって一番のプレ

ゼントだよ!」

 そう言って笑ってくれるので、救われるのは、いつも依織だ。



 大事な彼女の誕生日ですら、そんな具合なのだから、まして自分の誕生日など二の次、

三の次になる。

 依織の誕生日にあたる今年の9月23日は、役者、松川右京にとって九月の大歌舞伎

公演の千秋楽まであと四日という日。最後まで気を抜かずに役を務めねばならない。

役者としての生活に不満はないが、彼女が自分を祝ってくれようとしていたらと思うと、

そんな楽しい計画もはっきりと約束できない自分の立場が歯がゆかった。

 こんな事のくり返しが、いつかむぎを失う日につながらないとも限らない。

 依織は密かに怖れを感じ、自分の誕生日のことは一切、口に出さなかった。

 だが彼女が依織の誕生日などというイベントを忘れてしまうわけがない。


 案の定、誕生日の少し前に、楽屋見舞いにやってきたむぎが、依織に尋ねた。

「依織くん、もうすぐお誕生日だよね」

 ついに来たかと依織は内心の不安を押し殺し、平静を装う。

「覚えていてくれたんだね。嬉しいよ。なのに……ごめんよ。公演中だから、ろくに二人

の時間も取れなくて」

「ううん。それはいいの。依織くんは歌舞伎役者なんだから、役がついて舞台にいるのが

最高だと思うもの。その日は特別な差し入れするから期待してね! ……それは別として

……ちょっとね、ずうずうしいお願いがあるんだけど……」

「言ってごらん、お姫様。僕にできることなら何でもするよ」

「ええっと……何て言うか……、あたしこんな風に、すっかり依織くんの婚約者みたいに

なってるけど……依織くんのお母様に会ったコト……ないでしょ?」

「ああ……、そうだったね。あの人は、もうめったなことで松川に顔は出さないから」


 なかなか自由に会えないもどかしさをはらすように、依織は頻繁にむぎを劇場へ呼び寄

せ、身内同然に楽屋へ入れた。その甲斐あって、むぎはすでに松川一門にとって『依織坊

ちゃんのいい人』だと周囲に認識されていたし、実際、ただの恋人と言うより婚約者めい

た扱いになっている。祖父や父、弟の皇とも、半ば強引に顔なじみにさせれば、むぎが彼

らに気に入られるのはあっという間だった。

 依織に歌舞伎の世界へ戻る決意を促したのが、彼女の存在であることを、松川の人間は

皆、認めている。

 ただ、そこに依織の母の姿がないので、むぎは不安を感じていたのかもしれなかった。


「うん……でもね、もし迷惑じゃなかったら……依織くんの誕生日に……当日じゃなくて

もいいから、お話とかできないかな」

「僕の母とかい?」

「うん」


 依織と弟、皇の母親である松川真弓は、やはり歌舞伎役者である父と離婚こそしていな

いが、依織が幼い頃から別居状態で、ほとんど親子としての生活を送らずに来た。彼女は

母としても、役者の家のおかみさんとしても、依織と関わることはなく、前に会ったのは

いつだったか、すぐに思い出せない程、疎遠になっている。

 そんな戸籍上だけの母という存在に会いたいと言われて、依織は困惑を隠せない。


「あの人は、歌舞伎の世界が合わなくて小さい頃から別居しているから家族という意識も

僕にはないのだけれどね。君と僕のことに口を出すこともないと思うよ」

「依織くん、お母さんのこと『あの人』なんて言っちゃダメだよ」

 むぎが笑って首を振る。

「あのね、依織くんの誕生日は、お母さんがすごく大変な思いをして、依織くんをこの世

に産んでくれた日でしょ。……だからね、依織くんのバースデーは、依織くんのお母様に

一番に感謝したいなって、あたし思うの」

 依織は信じられない気持ちでむぎを見つめた。彼女の発想は、時折こうして軽々と依織

の予測を飛び越えてくる。

「あたしの誕生日にお母さんにありがとうって、もう言えないから……依織くんのお母さ

んには言えたらなって、ずっと思ってて……、あっ、ごめんね! 依織くんが嫌だったら

遠慮するけど、でもほら、あたし達もうすぐ一緒に暮らすなら、まるっきり他人じゃなく

なるから、一度お話できたらなー……なんてね」

「……ああ……むぎ……君は……」


 歌舞伎の家に生まれた娘だった母のことを、これまで依織は思いやったことがなかった。

 梨園の跡継ぎに女はいらない。

 どんなに才能があろうと女は歌舞伎役者になれない。望まれるのは、まず息子だ。

 母の兄は依織の父と同世代のいいライバルであり親しい共演者で、ひとかどの役者だが、

その妹だった母は歌舞伎の家で、物心つく前から疎外感を抱いて成長したとは考えられな

いか。

 そんな娘が、どうしてまた歌舞伎役者に嫁いだのか……依織は詳しい経緯を知ろうとし

たこともないが、互いに望んだ恋愛からの結婚ではなかったのは察しがつく。


 それでも彼女は、依織と皇、男の子を二人も産んだのだ。


 もう十分だと思ったのだろうか。

 もし依織や皇が女だったら、今頃どうなっていただろう。


 依織がまだ十七の頃、本気の恋に破れ、愛した女性に裏切られて、ひどく傷つき、一

度は歌舞伎を捨てた時にも、頼ろうともしなければ思い出しもしなかった母のことを、

今更ながら初めて依織は強く意識した。


「依織くん?」

 むぎの呼び声に、依織はまともに返事をすることもできなかった。

 二十歳を過ぎて尚、依織は自分がまだ何一つ至らない子供であることを思い知る。

 役者としても、男としても、恐ろしいほどひよっこ同然だ。

 依織がむぎを幸せにしてみせるなどと人に告げるのは、思い上がりも甚だしい。

 いつだって依織の方が彼女に甘えて幸福を与えてもらっているのに。

 依織はぞくりと冷たいものを感じて、目の前の小さくてあたたかな存在を抱きしめた。

 突然の抱擁に彼女は驚いたようだが、腕に力をこめると大人しく抱かれたままでいる。

 
 どんなことがあろうとも、決してむぎに依織の母と同じ道を辿らせはしない。

 跡継ぎを産む道具にも、マネージャーや番頭役をさせるつもりもない。

 息子などいなくて構わない。松川の後継ぎなら皇もいる。将来の皇の子でも、皇が駄目

なら、才能ある弟子の中から能力のある者を芸養子に取ったっていいのだ。芸は血だけで

つながるものではないから、どうとでもなる。

 依織は純粋に、むぎと二人、支え合って一生を共に過ごしたいと願っているだけだ。

 それが可能かどうかは、日々の依織の生き方次第であるはずで、彼にその力を与えてく

れるのが、むぎなのだ。


 人は一人では生まれてこない。たった一人では生きていけない。

 依織にとって、母はすでに何をどう感じ考えている人かもわからない遠い人だが、それ

でも自分を産んでくれたという事実以上に有難いことがあるだろうか。

 むぎが、それを教えてくれた。

 そのむぎの誕生日に、むぎの母親にどれほど感謝したくても、彼女はもうこの世になく、

依織は天に祈ることしかできない。


「ありがとう」

「へっ?」

「君と恋をして結ばれたことは僕の自慢だ。誇りに思うよ」

「依織くん、急にどうしたの?」


 むぎは訳が分からないのだろう、きょとんとした表情で依織を見上げている。

 依織には、わかっている。彼女が最強だ。

 御堂の家で、仲の悪い他人同士の男四人をまとめて、懐かしい疑似家族にしてしまった

むぎ。

 これから先、松川の家でも、頑張りやの彼女が何をしでかしてくれるかと思うと、依織

は自然に心が浮き立つ。あの気むずかし屋の弟ですら、すでに彼女のペースに巻き込まれ、

厳しい祖父も、役者馬鹿な父も、会っていくらも立たない内に彼女を気に入り、すでに身

内扱いで、とけ込みつつある。

 ならば母に紹介しないで、どうするのだ。

 こんな風に何もかもに感謝したことはない。めまいを覚えるほどの幸福感で依織の笑み

も深くなる。


「久しぶりに母に舞台を観てもらおう。その後、会って一緒に食事でもできればいいかな」

「ホントに!? ありがとう、依織くん!」

 むぎの笑顔はまぶしくて、依織は目を細めた。

「僕も母に感謝しなければいけないね。大事なことを思い出させてくれて、ありがとう。

でも、その後は……」

 依織はゆっくりと彼女を抱き上げ、しっかりと両腕で自分の胸に閉じこめる。

 目に見えない幸せの形は、きっと彼女の姿をしている。

「……夜の君は、俺に独り占めさせてくれるね?」

 真っ赤になって、こくんとうなずくむぎの唇をそっとふさぐと、依織は心ゆくまで甘い

恋人の吐息を味わい、めぐり会えた幸せの輪郭を何度もなぞり確かめた。



      


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