憬文堂
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  告  解  

仲秋 憬






 松川依織は、物事をあきらめることに慣れている。

 それほど欲するものがなければ、失う痛みを感じずに済むと知っているので、何かを強く求め

ることがないように感情を適度に抑えて日々を過ごしていたつもりだった。


 男四人の殺伐とした暮らしを、ひとりの少女が変えてしまうまでは。




 2月18日。

 命を狙われても脅しに屈せず、グループ企業の危機を一身に背負う若きカリスマ、御堂一哉が、

今日、ようやく十八になる。

 御堂家の同居人として、祥慶学園の同級生として、奇妙なきっかけで彼とあさからぬ縁を持つ

ことになった松川依織も、一哉の誕生日をまるっきり無視することはないと思っていた。

 昨年の秋の終わりに狙われて引き起こされた交通事故で受けた傷が、まだ完治していない病身

でありながら、一哉は自宅で御堂グループを動かし支えるために働き続けている。

 この切迫した時に、おそらく大してなぐさめにもならない依織たちからの誕生祝いなど、本当

は無視してしまってもいいものだろう。


 しかし依織は、これをきっかけに一哉の本心を確かめたかった。

 もしかすると、今日、彼はすべてを休んで、彼が自分の横に据えてきた可愛い家政婦と、どこ

かへ出かけてしまうかもしれず、そうなればいっそありがたいと思っていたのに、結局ここ数日

の日々と全く変わらず、自室で仕事漬けの一日を送ったようだ。

 依織は大きくため息をつく。こんな一哉を見るために、依織が何より自分の手で大切に慈しみ

たかった少女を、胸が引き裂かれる思いで、無理矢理あきらめたわけではない。



 深夜に関わらず、一哉の部屋からは明かりが漏れ、キーボードを打っている気配がある。

 厚い扉をノックをして、返事を待たずに依織は一哉の部屋へ入ると、案の定、資料に埋もれた

マホガニーの机に向かい、パソコンのモニターをにらんでいる一哉がいた。

「一哉、少し時間をくれないか。できれば日付が変わる前に」

 時計は23時をまわったところだった。

「松川さん……」

「君に依頼された敵側のパーティ、調べてみても、僕の知る限りの芸能交友範囲では、どうにも

動きがないようだよ」

「…………まだ……なのか」

「残念ながらね」

 常に冷静で、自我をコントロールするように育てられてきたはずの一哉の、ほの見える焦りの

影に、依織は言い様のない感情をあぶり出された。しかし、ここは穏やかに切り出すべきだろう。


 依織は、ゆっくりと胸ポケットに用意してきたものを取り出して言った。

「それはともかく、……お誕生日おめでとう」

「…………は?」

 依織の祝いの言葉に、一瞬、呆然とする一哉の表情は、なかなかの見もので、依織は少しだけ

気分をよくした。

「君の誕生日、今日だったろう。大したものじゃないけれど、色々世話になっていることへの、

ほんの気持ちだから。これを選ぶのに麻生も便乗してるから、そのつもりで」

 もう一人の若い居候の名前と共に、依織は片手で持てる小さな青い包みを一哉の机の片隅に置

いた。

「それはどうも。……折角だから受け取らせていただく」

 一哉が彼にしては飾らない仕草でプレゼントの包みに手を伸ばした時、依織は、すっと箱を引

き上げた。

「松川さん?」

「これを渡す前に、ぜひ答えてほしいことがあるのだけれど」

 低くかすれた依織の声は、一哉に意志を伝えただろうか。

 ごまかしなど絶対に許すつもりはない。 

「……なにを?」

「とぼけないでもらおうか。わかっているだろう? ──むぎちゃんのことだよ」

 彼らの救いの女神を一方的にひどく傷つけた一哉を、依織はどうしてもこのまま黙って認めるこ

とができない。

「あいつのことは…………」

「僕には聞く権利があると思うね。僕が彼女に告白したのも気づいていて、尚、口をつぐみ、彼

女を手放す覚悟をしていたろう? だが結局それもせず、こうして誕生日にまで一人で仕事をし

ているからには、大人の事情だけで済まされないよ」


 一哉は依織の追求を無視するように目の前のモニターを見据えて黙っている。

 依織は、革張りの椅子に座っている一哉の横に、立ったままで尋ねた。

「中泉──花霞絢子は、そんなにいい女だったかい?」 

 その名を出した途端、一哉がきついまなざしで依織を見上げた。

「絢子がなんだって言うんだ? なにを馬鹿な……」

「馬鹿な話と切り捨てるつもりかい。勘違いしないでほしいね。馬鹿なのは、一哉、君の方だよ。

むぎちゃんが許したって、俺は許さない。君は御堂一哉の初恋相手と世間に噂された花霞絢子を、

あの子の目の前で平然と優先し続けて、ろくに説明もせず放置しているんだから」

「絢子を優先したつもりはない。昔も今も別に何もなかったし、俺が好きなのは、むぎだけだ」

「そんな言い訳が通用するとでも? 本当に馬鹿だね、君は。呆れるよ」

「……っ!」

 事故でも傷つかなかった一哉の右手首を片手でひねりあげ、強引に注意を向けさせる。

「病み上がりに、うかつに暴力をふるうわけにもいかないのが、もどかしいな」

「あんた……っ」

「答えてもらおう。君がむぎちゃんを裏切っていないと言うなら、ああも非常識な形で君を訪ね

てくる中泉絢子と何をそんなに話す必要があったのか。あの女が実際に現場で動いているわけで

もないのに、なぜ夜通し出かけて行動を共にしなければならなかったのか。あまつさえ朝帰りの

謝罪も気遣いもないのはおろか、何一つ説明せず、ただ信じろと言われて、誰がそれを鵜呑みに

するんだ。目の前で見せられた現実が、何より言葉を裏切っているよ。もし、むぎちゃんが君に

同じ態度を取った時、君は何も疑わずに、すべて受け入れ、信じることができるのかい? 賭け

てもいいが、君にそんな寛容さは無いね。まだあの子が誰のものでもなかった頃、君がどんな目

をして、あの子を見ていたか教えてあげようか」

「──俺は…………」

「公にある御堂一哉の立場は理解できるよ。上に立つ者が優先順位を間違えるわけにはいかない。

個よりも集団を。感情より理性を。大胆に。細密に。何ものにもとらわれず、常に冷静に物事を

受け止め、事態を把握し、最後はひとりで決断して責任を取る能力がなければ、世界的グループ

企業のトップの座は勤まらないんだろうね。……でも、そのやり方を恋人との付き合いにまで適

用する神経を疑うよ。むぎちゃんが選んだのでなければ誰が……。あの子は、優しい幸福感に包

まれて、いくらでも愛されたっていい存在なのに。いつも他人のためばかり懸命になって、傷つ

いて……、それでも、いつだって前を向いて笑おうとしてる。その彼女を安心させてやる一言く

らい、どうしてかけてやれないんだ。あの子は本当に頑張りやで強い子だけれど、限界がないわ

けじゃない」

 何を言っても、一向に言い返そうとしない一哉は、いっそう依織をいらだたせる。

「答えてくれないか。むぎちゃんをないがしろにし続けた理由を。中泉絢子の真実を。恋敵の僕

に納得がいかない、いいかげんな返事なら、たとえむぎちゃんが、どんなに一哉を好きであって

も、僕は彼女をここから連れ去る覚悟をしているから、そのつもりで」

 依織の動かし難い決意を聞いて、一哉はようやく依織の視線を正面から受けとめると、口を開

いた。

「……絢子とは、本当に何もなかった。むぎに対する想いとなんて比較の対象にもならないぜ。

あいつに会って俺のそれまでの恋愛感はまったく変わってしまったしな。俺はあんたと違って、

あいつに会うまで心底女に恋い焦がれたことも愛したこともない。そういう感情を抱いたのは、

むぎが初めてだ。あんただって思い当たるだろう、松川さん。でもそれを話したところでなんに

なるんだ。おぞましい汚れた男の欲望に嫌悪を抱かれるのが落ちじゃないのか。絢子だけなら問

題ないが、彼女との関係を掘り返す過程で簡単に出てくるだろう、これまで散漫に遊んでいた俺

の身勝手で一方的な道具扱いの女性関係の遍歴に、あいつが幻滅するのが怖かった。あいつは絶

対に……退廃した損得関係でしかないつきあいを嫌うだろうし、俺のあいつへの想いが、それと

は全く別なのだと分けて捉えることなど無理だ。まだ今はそれを信じさせるほど──」

「笑わせないでほしいな、一哉。そんな戯言では、うぶで無心なむぎちゃんはごまかせても、僕

には通用しない。そういった気持ちもあるのは事実だろうけれど、だからと言って、むぎちゃん

に一哉の理不尽な行動と態度を何も説明しないでいる理由になんかならないね。……わからない

な。なぜ隠すんだ?」

「隠すことなどないが」

「隠しているじゃないか。中泉絢子と何をしていたか、結局、君は明らかにしていない。嫌われ

たくないなら、なぜ何も言わないんだ。ただ話をしていただけだと言われて、誰がそんなことを

信じる? だったらプライベートな空間で誤解しろと言わんばかりにしてまで相談する必要があ

る、その内容はなんだ? 口外できない秘密なら見込みと状態だけでも前もって遠回しに一言、

伝えれば安心できるのに、なぜ、それを怠るのか理解できないよ。小さな疑惑が、取り返しのつ

かない大きな誤解の種になると、予測できない御堂一哉じゃないだろう? それとも、そんなに

絢子さんが大事だと思われたいのか」

「絢子は関係ない」

「関係ないわけないだろう!」


 依織はわき上がる怒りを押し殺すのに精一杯だった。

 冷静な一哉を前に激昂したところで逆効果であると、わかっているのに。


 依織の絶えていた情熱を目覚めさせ呼び覚ましたむぎを想う。

 どうしてむぎは一哉を好きになってしまったのだろう。


「俺の感情に絢子は一切関係がないという意味だ」

「……わけが分からないよ」

「中泉隆行の情報は、妻である絢子から直接収集するしかないから、徹底して彼女を利用した。

それだけだ」

「それが、どうして、むぎちゃんに何も説明できない理由になるんだ」


 逃げることは許さない。どうしても聞かずにはおかない。

 むぎに向けられたすべての想いを飛び越えて、一哉がむぎを得るというなら、絶対に。

 くせのない漆黒の髪が一哉の端正な色白の顔に濃い影を落としている。

 一哉は疲れ切った様子で目を閉じ、低いつぶやきのような、かすかな声でようやく言った。


「…………中泉絢子は……障害をかかえてる。それに加えて今度の事件で鬱病も併発してやっか

いな状態だ」

「障害?」

「それほど重度なものではないが、対人関係に問題がある。相手の気持ちを汲むとか、その場の

雰囲気を読むことができない。自分の行動で相手が不快に感じるかもしれないといった通常の人

間が想像できる客観性が欠落しているコミュニケーション不全だ。人好きで、偏見や差別は一切

なく、誰に対しても平等と言えば聞こえはいいが、立場や状況によって全く対応を変えられない

のは問題だ。皮肉や冗談は通じないし、嘘もつけなくて、騙されやすい。結果的に、どこまでも

繊細になるし、自分の思考しか見えていないから、予定外の事態に直面するとパニックを起こす

危険性が高い。記憶力は異常なほど突出していているんだが……高機能自閉症の一種だな」

「……そんな風には見えないな」

「そうか。俺は出会ってすぐに普通と違うと気付いたが」

 初恋の相手に対する物言いとは、とても思えない一哉の口調に、依織は、一瞬眉をひそめる。

 一哉は、すでに、いつもの冷静な調子を取り戻していた。

「昔、初対面から、御堂の御曹司相手にも態度をつくろわず、いつもおっとりした自分のペース

を守っているところが、ちょっといいかと思えたが、それは違った。そうしないと自分を保つの

が難しいんだ……あの人は。生きにくいことは確かだろうが、深刻な知的障害というわけじゃな

い。むしろ記憶力や、興味ある事項の分類力には長けているし、社会生活には適応してる」

「それがなんで…………」

「絢子が中泉隆行の妻でなければ、わざわざ会ったりしない。彼女は嘘がつけないから、混乱し

た彼女の会話であっても有益な情報をすくい上げるのは時間をかけて誘導さえしてやれば可能だ。

愛する夫の悪事を止めるために、その憎悪の対象である御堂に危険を冒して、わざわざ知らせに

来るくらいだ。しかしそれはこっちの情報だって隆行に漏れることを意味している。絢子は善意

しかない世間知らずのイノセントで、隆行は今も一緒に生活している夫なんだからな」

「それじゃあ……」

「絢子にむぎが俺の唯一の弱みだと……本当にあいつを失ったら俺がどうなるかわからないと気

付かせてはならなかった。むしろ、御堂一哉は手の届かない人妻になった昔の初恋相手の手助け

を強く求め、頼りにしている、くらいに思わせる必要がどうしてもあった……それも御堂のテリ

トリーで、だ。だから極力この家に上げ、俺の前で、ここは彼女が安心できる環境だと植え付け

ていた。外で会っていて帰れなかった時は、彼女にそれと気付かせず専門家を立ち会わせて誘導

する必要があったからだ。いくら俺でも精神科医のようにカウンセリングができるわけじゃない。

隆行の情報を、それと気付かせず話させるのにも苦労した。自分の興味ある話題にすぐループし

て戻ってしまう症状があるからな」

「そんな事情があるなら、どうして、それを始めに説明しておかないんだ」

「むぎに? 欲しくて欲しくて、やっと手に入れたあいつに、いついかなる時もこの家に絢子が

来たら俺とは何でもないふりをして放っておけって? 俺たちと違って、あいつに心を偽る演技

はできないさ。させたくもない。……俺だけの……っ」

「一哉…………」

「あんたに言われなくても、わかっていた。一番安全なのは、俺の手元で守ろうとせず、一刻も

早くむぎを御堂とは全く無関係な、どこか遠く離れた環境に置くことだ。俺が、あいつに本気で

呆れられ、二度と会いたくないと思うほど嫌われれば、話は早かった。それで一時、傷ついても、

あいつを愛する人間は、いくらでもいる。現に一筋縄ではいかないこの家の連中全員が惚れてる

くらいだからな。馬鹿で素直で、でも芯が強くて可愛い奴だから、誰にだって愛されて……幸せ

になれる。……俺はあいつしか愛せないが、あいつはそういうわけじゃない」


 つかんでいた一哉の手首の先に浮き上がる血管の震えに気付き、依織はゆっくりと手を離した。

 しかし一哉の強く握りしめられた白い拳は、青黒い血管を浮き上がらせたまま震え続けた。


「俺は嫌だ……生まれて初めて焦がれた相手が、ようやく俺の気持ちに答えてくれたところだっ

たのに、あきらめたくない……あいつを俺の方から手放すことには耐えられない。傲慢なのは、

わかっていたさ。本当に、ただ嫌だった。俺が確実に立ち回って中泉をたたきつぶしさえすれば、

すべては上手くいくはずだと……あいつは俺の女だと、ようやく言えるようになったばかりなの

に!」

 つぶやきが、いつのまにか、ほとばしる叫びになっても、一哉は止まらない。

「何を言ってやればいいのかわからなくなった。このまま離れた方がむぎのためなら、それもで

きるかと……泣き出しそうな無理に作った笑顔を前に、混乱して凍りついたさ。だが、ここまで

しても、むぎは狙撃された。……届いた脅迫状には絶望しかけたよ。俺がどんなに取り繕おうと

あがいたところで、鈴原むぎが御堂一哉の特別な存在であることは敵に筒抜けだったじゃないか。

絢子でさえ、ごまかせなかった。俺はあんた達がうらやましかった……。なんのしがらみもなく、

むぎを愛せるあんたらが。生まれて初めて人をうらやむことまでしたぜ。……ひどい気分だった。

松川さん、あいつがあんたを選んだら、俺は必ずそのままいさぎよく手放してやるつもりだった

のに、どうして……自分の命が危険だって言うのに…………馬鹿な女だ。あいつは。どうすれば

自ら手放せるんだ? できるわけがない。たとえ傷つけても、何があっても、俺の一番側に置き

たかった。ひとりで泣かせたいわけがない。傷つけたいはずがないだろう。大事にして! 守っ

て! めちゃめちゃに甘やかして俺のことしか考えられなくしてやりたかったさ。当たり前だ。

そんなことは。全部放り出してあいつだけ抱いて、どこかへ行ってしまいたいと俺が願ったこと

が一度もないとでも思うのか! あいつの命がかかっているのに──」

「それは……」

 口を挟もうとして、適切な言葉を思いつかず、依織は言いよどんだ。

「……それでも、むぎは俺から離れないと言ったんだ──それなら、もう絶対に離さない。すべ

ては俺が祥慶学園の前であいつに出会った時から始まっていたようなものだ。過ごしてきた過去

は変えられない。……俺の気持ちも──」


 一哉は、ゆっくりと息を吐いた。

 張りつめていた空気が、ようやくかすかにゆるんだ。


「──愛しているからだ。他に何の理由がある?」


 彼女を愛さずにはいられなかった。それは一哉も依織も麻生も瀬伊も、まったく変わることが

なかった。

 ただ、むぎが命をかけても離れないと選んだのが、一哉だっただけだ。


「…………本当に馬鹿だね。一哉」

 依織は静かに告げると、小さく笑った。一哉は依織の笑顔に虚をつかれた表情になった。

「口にして伝えなければわからないよ。そんなこと。表に現さなければ、他人にとって何もない

のと一緒だ。言葉だけでは足りないこともたくさんあるのに、言葉すらないなんて、あんまりだ。

現実主義者の君に、それが理解できないはずないだろうに」


 初めて彼らの年相応の……成人した男と十八になったばかりの弟のような関係にたどりついた

ことが、依織はおかしかった。

 この家の家長はまぎれもなく一哉であったし、以前、瀬伊がふざけて設定した役割では、一哉

が父親で依織が長男だった。自分は末っ子で麻生は飼い犬、むぎは自分の婚約者だと言って、彼

らの顰蹙を買った瀬伊を、突然、思い出して、依織は笑いが止まらなくなった。


「何が、そんなにおかしいんだ?」

 くすくすと笑い続ける依織をいぶかしんだ一哉が、けげんそうに尋ねてくる。

「ごめん。ちょっと思い出して……何でもないよ。何でも。君の誕生日にすまないね。こんな日

くらい彼女とゆったり過ごしても罰は当たらないよ。そういうことも大事だとは思えないかい? 

いくら事態が逼迫していても、ほんの少しの間でいいから。そういう余裕の無さが誤解を生むん

だよ」

「あいつは知らないんだろう。以前話したこともあったかもしれないが、この騒ぎで忘れでもし

たんじゃないか。……そんな事は、どうでもいい。俺の誕生日なんて、別に大した意味はない。

それに……欲しくてたまらないものは、すでに今ここにある。あいつが命の危険も省みず、俺の

側にいてくれることが、何よりのプレゼントだ。今はこの事件を一刻も早く解決して、安心して

あいつを抱きしめることだけを考えてる」

「そうか……さっきまで最愛の彼女に誕生日を忘れられた男に同情心がないでもなかったのだけ

れど、それじゃむしろ、こんな祝いの品を贈るのも何だか業腹だね。どうしようか」

「松川さん……あんた人が悪いな」

「フフ。冗談だよ。……らしくないかな。君が誕生日を気にしない人種なら、むぎちゃんの誕生

日は僕が祝うから任せてくれないか」

「あいつの誕生日は別だ。今度こそ俺が祝う。放っておいてもらおう」


 依織はどこか照れたような、一哉の横顔をながめて、またひっそりと笑った。

 長い告解の間、ずっと持っていた贈り物の青い箱を、ふたたびそっと一哉の目の前に置く。

「キーチェーンだよ。よかったら、むぎちゃんを乗せる新車の鍵にでも使ってほしいね」

「ありがとう。正直あんたに、こんなことをしてもらう日が来るとは思わなかったが」

「僕も麻生も瀬伊も思ってなかったよ。むぎちゃんのおかげだ」

「……感謝する。本当に。必ず事件は解決してみせるから、もう少しの間、力を貸して欲しい」

「わかったよ。協力は惜しまないから。……貴重な時間を取らせて悪かった。おやすみ、一哉」

 黙ってうなずく一哉に、軽く手を上げて、依織は一哉の部屋を出た。



 ずっと心の奥でよどんでいたしがらみが吹っ切れて、どこか清々しい気持ちで、自室に戻る。

 むぎの部屋の前を通るとき、まだ起きているかもしれない彼女の顔を見ていこうかと一瞬考え、

しかしそれはやめておいた。

 これでようやく本当にあきらめられる。

 一哉を選んだむぎの幸せを信じることもできそうだった。

 その夜は久しぶりにずいぶん優しい夢を見たように思う。 






 しかし翌日の2月19日を、むぎが一哉の誕生日だと間違って覚えていたとは知らなかった。

 事件の渦中、祥慶学園の理事長秘書の仕事をしていたむぎが、一気に解決への道筋をつけるこ

とになるIDカードを理事長から受け取って帰宅したその日、同居人達には知らせずに、彼女は

一哉の誕生日ケーキを焼いて、夜中に二人きりで祝ったらしい。

 それは翌年、むぎが一哉の誕生日に旧交を温めるべく、依織をはじめとする元同居人たちを、

御堂の御曹司らしからぬ、ささやかで心のこもった誕生祝いの会に招いたことで発覚した。

 一哉が依織相手に告解した翌日……むぎに与えられた誕生日で、一哉は生まれ変わったのかも

しれない。一哉はむぎに何も言わず、ただ喜んでその日を誕生日として受け入れた。



 結局、一哉の誕生日は、彼らが結婚して籍を入れるまで、ずっと2月19日だった。むぎは一

哉の誕生日に必ずケーキを焼いていたらしいが、戸籍上の正しい誕生日である2月18日に焼く

ようになるのに、それほど長い年月がかからなかったのは幸いだったと依織は思う。

 事実、それは今時の男女としては、かなり早い結婚だった。


 そうして、このいきさつは、毎年2月が来るたび彼らを知る仲間が思い出す、懐かしい笑い話

となったのである。



      


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