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 色芝居恋手鑑 

仲秋 憬





 今日もまた、あの女が来る。

 脳天気で、やたら騒がしく勘に障る、はねっかえり女が、俺と兄貴の楽屋に。


 今月の歌舞伎座で松川兄弟は同じ楽屋だ。それはよくあること。幹部の役者がそろう

大顔合わせの舞台なら親父だって同じ楽屋の時もあるが、今回の座組では兄弟ふたりで

ひとつの楽屋になった。家紋が染め抜かれた楽屋のれんも一種ですむ。


 一度は引退を宣言し、二年以上も歌舞伎から離れていた兄、松川依織が、因習降り積

む梨園に復帰する気になったのは、熱心なひいきが集まる後援会や、血を分けた弟の俺

が、復帰を執拗に促したせいではない。まったくもって腹立たしいが、あのうるさい女

のおかげだと奴は言う。


 歌舞伎をやめたのも女のせいなら、復帰する気になったのも女のせい。馬鹿馬鹿しい

のにも程がある。


 やめるきっかけになった雪音という女は、弟の目から見ても確かに上玉だったと思う。

 当時、十も年下の教え子だった依織を不倫相手にするのは教師としていただけないが、

そのことに気づかず恋愛に目がくらんでのめり込んでいた兄貴も、どうかしてるんだ。

 それが恋の情熱だって? 笑わせないで欲しい。

 中学一年で自分の担任だった教師が既婚か未婚かも知らず男女交際の対象にできる方

が馬鹿だろう。

 俺はそれを、はっきりさせてやっただけ。悪いことをしたなんて思ってない。役者は

親が死んでも笑って舞台に立ってるものなんだ。

 たとえ雪音という女が正式な婚約者でも、事故に合おうが誘拐されて脅迫されようが、

兄貴が警察にでも通報して舞台を優先させていたら、襲名公演すっぽかしなんてことに

はならなかった。

 芸の前に、恋愛沙汰で芝居を捨てられるなら、そこまでの者でしかないのであって、

役者をやる資格なんかないんだ。


 なのに舞台は、いつまでたっても歌舞伎をやめた兄貴を忘れない。

 口では絶対に許さないと言いながら、親父ですらも兄貴を惜しんでいるのはわかって

いた。俺に稽古をつけている親父に、無意識に依織と呼ばれた事が、いったい何度あっ

たかしれない。そのたびに、俺は何事もなかったように、素知らぬふりで稽古を続ける。

 どうせ襲名したら名前はごっちゃになるんだ。本名の松川皇に、俺は存在意義を感じ

ていない。依織でも皇でもかまわない。

 今の芸名、三代目左京の名を汚さず、できれば父の名の秀之介を継いで、最後には祖

父の名前でもあり父が継いでいる代々伝わる松川家の大名跡を襲名して、大きな役者に

なることだけが俺の夢。依織がいないなら、それは俺の役目だった。


 それなのに。


 俺は結局、役者としては致命的な、すべてをさらけ出して馬鹿になり切れない半端者

なんだろう。

 どんなに稽古して、名演と言われる演技をなぞろうとしても、うまくいかない。

「お前の芝居は、うわっつらだけで腹がない」

 何度も、そう責められた。

 どうして舞台を捨てた、もういない依織ばかりが望まれるんだ?!

 恋に溺れたあげくその恋を失っただけで松川の家を飛び出し、何代も続く伝統を足蹴

にした依織ばかりが、なぜ?

 けれど結果を思うように出せない俺の叫びは呑み込むしかない。


 アメリカに二年。その後ようやく日本に戻ってきても松川の家には寄りつかず、松川

秀之介後援会の名誉会長である御堂の御大の跡継ぎが祥慶学園の同級生だという縁で、

その御曹司の家で、安穏とダブって遅れた高校生活を送る兄の依織を、俺は幾度、尋ね

ただろう。

 自分を罠にかけた弟の話など聞く耳もたなかった依織の態度が少しずつ変わってきた

のは、いつだったか。

 確か暑い夏が終わって秋に入った頃。

 それは、依織が御堂家で家政婦をしていたあの女とつきあいだした頃だったのだと、

後で知った。


「本当に家政婦だったのか……前から気になってたが、お前、年いくつだ」

「十六だけど」

「……なんで十六で、家政婦なんかしてたんだ?」

「んー、いろいろ訳があったんだよ」

 年上の教師の次は、年下の家政婦かよ。勘弁してくれ。

「そんな顔しないでよ。皇くんたちなんか初舞台が三つか四つで、今じゃ、いっぱしの

歌舞伎役者じゃない。それに比べたら家政婦なんて楽なもんだよ」

 それとこれとは話が別だろう。

「それ以上は内緒だよ、皇」

 兄貴は得意そうに、後ろからそいつを抱きしめた。

「依織くんっ!」

 あたふたとあわてる自分の女を、とろけそうな笑顔で見下ろす兄貴の顔なんて見られ

たものじゃない。



 松川依織は歌舞伎に復帰し、成功した。二年のブランクでかなり体型ががっしりして、

背ものびた依織は立役(たちやく)をやるようになり、女形の俺と役柄でかぶることは

なくなった。

 復帰の舞台になった兄弟共演は話題になり、兄貴が復帰したらやめるつもりだった俺

も、結局、歌舞伎をやめなかった。やめられなかった。

 わびを入れて戻った依織は猛稽古に励み、その鬼気迫る演技に、親父も折れた。

「戻ってきた松川の坊ちゃん変わったな。いい芝居するようになったねぇ」

「一時歌舞伎を離れたことが必ずしも悪いばかりじゃなかったんだろうよ。松川の兄さ

んも跡取りがそろって一安心だ」

 周囲の声は好意的で、それまで不調だった弟の俺の方は、別段何もなく黙殺された。


 復帰公演そのものは、依織に引っ張られるようにして信じられないほどうまくいった。

 それまでスランプに陥っていた俺も、依織を相手にした芝居で、それまでの厚い壁を

破れたような、そんな舞台。

 誰もが依織を絶賛した中で、あいつだけが、まっすぐに俺を見て、声をかけてきた。

 初めて楽屋見舞いに来て、あらためて依織に紹介された後、たまたま奴が席を外した

その時に。

「でも皇くんはさ……えらかったね。逃げなかったんだもんね。尊敬するよ」

 そう言って、俺の頭をなでた女。

 人を子ども扱いするんじゃない。お前といくつ違うと思ってるんだ。


「あたしが、まだ歌舞伎のことも何も知らなかった頃ね、依織くんが、ずっと大事そう

にしまっていた舞台写真を見たことがあるの。依織くんと皇くんが共演してるやつ。

……綺麗だったぁ。依織くんは美女って感じだったけど、皇くんのカワイイ娘役の方が、

ぱっと目に入ったよ。こんな美少女が出てくるお芝居ってどんなかなあ、見たいなあっ

て思って。どうして歌舞伎やめちゃったの?って何度も依織くんに聞いて、煙たがられ

たこともあったんだ」

 あっけらかんと言う女。

「その時、依織くん飽きたからやめたって言ったの。だけど、それは嘘だなってすぐに

わかった」

「どうして?」

「だって……本当に飽きてやめたなら、それまでの舞台写真を大事にしまっておいたり

しないもの」

 笑って言われて、はっとした。

「歌舞伎って特別な世界じゃない? やりたくてもやれない人たくさんいるでしょ? 

女だったら駄目だし、歌舞伎の家に生まれなければ、まず主役をやることもないんだよ

ね。なら他にもっとやりたいことがあるとか、どうしても嫌いだって言うんじゃなけれ

ば、それを許された立場に生まれた幸運を逃がしちゃいけないんじゃないかな……。

そりゃ人に言えない苦労もとっても多いと思うけど、それ以上に一生かけてもやり甲斐

のあることだろうなって。うらやましいよ。伝統ってそういうものだよね」

「……幸運か」

「とびきりすっごい幸運だよ! 依織くんも復帰できて皇くんと舞台に立てて、本当に

よかった」

 こぼれそうなほど大きな目をきらきらさせ、両手で握り拳を作って奴は言う。

「そんな中で逃げずに頑張ってるんだもん。皇くんすごいよねえ」

 こいつは紛れもなく本気で言っている。

「だから今そういうふたりの共演を特等席で見られて、あたしもすごく幸せ! でもっ

て、こうして楽屋に差し入れもできちゃうんだから、こんな贅沢ってないよ」


「──俺、これ嫌い」

 差し出された重箱から苦手な野菜をひょいっと箸でよけると、面白いようにムっと顔

をしかめた。

「だめだよ! 体にいいんだよ。千秋楽まで体壊さないように、しっかり食べなきゃ」

「すず、放っておいて。僕がいただくよ」

 後ろから依織が声をかける。

「依織くんのはこっち。これは皇くんの!」

 依織の伸ばす手から俺に差し出した重箱を守る依織の女。

 なんで、いちいち俺までかまうんだよ。お節介で、うざったい奴。

 料理の腕は……認めないでもないけど。



 翌日の楽屋見舞いの弁当に、俺が嫌いなものは、ひとつも入っていなかった。

 正直ちょっと…………かなり驚いた。

 鈴原むぎというのは、そういう女で、だから依織も変わったんだろう。

 にこにこ笑って勝手にどんどん人の心に入ってくる。こんな女は初めてだ。



 だからと言って、許容範囲に限度はある。

 ああ、もうたくさんだ!

 おいおい、人の目の前でディープキスなんかしてるなよ。

 俺があんたたちに背を向けて鏡台の前で、次の役の顔をしているからって、あんたらの

イチャつきぶりは、こっちの鏡に丸映りなんだ!!

 依織のやつ、わざと見せつけてやがるな。

 怒りに手が震えて紅がずれたじゃないか。どうしてくれる!

 ここをどこだと思ってるんだ。連れ込み旅館なんかじゃない。楽屋だぞ?

 兄貴の出番は終わったろうが、俺は、まだ最後の一幕が残ってるんだよ。

 弟子たちが遠慮して遠巻きにしてるのに、気づいてないわけじゃないだろうが。

 なんだ、あのぐだぐだにゆるんだ顔。見ちゃいられない!

 よそでやれ! よそでっ!


 心中ものだの、色悪だので、復帰後、立役の新境地を開いたとか言われてる松川依織の、

これが真実。

 しょっちゅう相手役をつとめる俺に、わからないと思うのか? 舞台の上での演技は、

兄貴の現実の恋心の再現だ。信じられないことに奴は芝居中の恋人役に、似ても似つかぬ

あの女を重ねて演技をしてる。

 今や、恋の道行なんざ、お手の物だ。


 夏に演じて絶賛を博した舞台を思い出す。

 鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を通し上演で、親父がお岩。兄貴は色悪の民谷伊右衛門。

伊右衛門に岡惚れしてお岩から横取りする娘のお梅が俺の役だった。

 悔しいが、あの伊右衛門もすこぶるつきだった。立ってるだけで女が振り返る色男の具

現化だ。あんな男が愛をささやけば、どんな女も迷うだろう。

 俺はこの先、真女形で通すつもりだから、今更、張り合っても仕方ないが、確かに松川

依織は変わったと思う。認めなければならない。


 本気の恋を知ってる演技が役者の幅になったと、他人は勝手なことを言う。

 恋も役者の修業だと。

 だったら俺も、本気になるべきなのか? もう我慢できない!

 あの女、いったい何なんだよ! 俺まで引っかきまわすんじゃない。


 なんだよ、まだやってるのか。もう何分、舌からませてるんだ。窒息するだろ。

 兄貴もいいかげんにしとけってんだ。

 そいつ顔真っ赤にして離れようとしてるじゃないか。

 いくら歌舞伎の幕間が長いったって、そろそろ戻らないと取ってやった桟敷が泣くぞ。


 半泣きになってる女を抱いて、人目もはばからず、むさぼり続ける男のいやらしさ。

 せいぜい覚えておくさ。今度の芝居の肝になるかもしれない。


 ああ、もう、どこにでも行ってくれ!

 …………できれば俺の舞台がはねたその後に。





      


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