憬文堂
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 不可解な関係 

仲秋 憬





「おい、頼む」


 学校から帰宅して、早速リビングの掃除をしていた御堂家の家政婦、鈴原むぎの前に、

ダークスーツ姿の家主、御堂一哉が現れた。

 着替えたばかりなのだろう美しくプレスされているシャツの襟元は、まだノーネクタイ

で、一哉の手にはブルーのタイ。

 ようするに彼女にネクタイを結べと言ってるわけだ。


「あ、一哉くん、これからお仕事? 大変だね」

 むぎも慣れたもので、やりかけの片付けをあっさり中断し、一旦、手を洗いにキッチン

へ引っ込んだ後、羽倉麻生がいたダイニングを素通りして、リビングに突っ立って待って

いる一哉に、ぱたぱたとかけ寄っていく。


「これ、やわらかいシルクだね。じゃあウィンザーノットかな」

 むぎは渡されたネクタイを見て即座に判断すると、するりと襟ぐりにタイをかけまわす。

 少女の器用な白い指先がネクタイをしめる。二人の間は、息がかかるくらいの、ひどく

近い距離だ。

 襟元のネクタイに集中しているむぎは、一哉がどんな顔をして、むぎを見下ろしている

か気づいていない。

「一哉くんはきっちり正式っぽくした方が似合うね」

 彼女は真剣そのものだ。


 麻生はそんな二人を横目でながめつつ、ダイニングテーブルで掃除の前にむぎについで

もらった野菜ジュースを飲んでいた。

 御堂邸の広々としたリビングとダイニングはつながっているが、同じ部屋に人がいると

いう感覚は薄い。


「あのさ……前から不思議だったんだけどさ」

 ネクタイをしめつつ、むぎが一哉に話しかける。

「何が?」

「あたしが来る前だってネクタイしめて会社に行ってたはずでしょ? どうしてたの?」


 誰でも疑問に思いそうなことだ。

 そして、少し勘が働けば、すぐさま答えに思い当たるだろうに、むぎは鈍い。鈍すぎる。


「あ! もしかして麻生くんに結んでもらってたとか!」


 聞いた途端、ぶっ!とジュースを噴く麻生。むぎの発想は無茶苦茶だ。


「そんなわけあるか、馬鹿。なんで羽倉に」

 御堂一哉の呆れ声。

「えー、だって麻生くんは制服で毎日ネクタイだからさ……」

「羽倉になんか、わざわざ頼むかよ。……自分でしてた」

「なんだ、一哉くん自分でもできるんじゃない! だったら」

「時間がないとかえって手間取るから、お前ができるなら頼んだ方が早い」

「ふーん……」

「嫌なのか」

「え!? そんなことないよ!」


 ぶんぶんと首を振るむぎに、かすかに満足そうな一哉の表情が、なぜか麻生をムカつかせる。


「今日は帰りは?」

「夜中になると思うから夕食はいい」

「お夜食もいらない?」

「……軽くあれば助かる」

「わかった。じゃあ用意しておくね」

「寝てていいぞ」

「起きてるよ」


 どこの夫婦の会話だ、と突っ込みたい気もしたが、面倒なので麻生は黙っていた。

 こんな時、調子のいい一宮瀬伊あたりなら見逃しはしないのだろうが。


「はい、できた!」

「ご苦労」


 一哉は、ごく軽くむぎの肩を抱き寄せた手で、ぽんと肩を叩きつつ、彼女の耳元でねぎらい

を告げた。

 その様子は、麻生の位置からみると、ほとんど耳元にキスしているように見えた。

 ったく、イチャイチャしてんじゃねーよ。目のやり場に困るだろ。

 そう叫びたいが我慢する。


「行ってらっしゃい」

「しっかり掃除洗濯しておけよ」

「わかってるって!」


 むぎが、ぷうっとふくれる。本当に彼女は見ていて飽きないと思う。

 麻生だけでなく、一哉も、瀬伊も、依織も……この御堂邸で暮らす男は、おそらく全員そう

思っているはず。


 麻生は唐突に、むぎの意識を自分の方へ向けさせたくなった。

 まだ学生なのに御堂グループの六つの会社を経営する社長業に忙しい一哉は、今日は下校後

のこんな時間に出勤らしい。

 もう出かけるしかないだろう。さっさと行け行け、どこへでも。


「なあ、鈴原。あのネクタイの結び方、いつも俺がしてるのとは違うみてぇだったけど、結構

イイな。どうやってんだ?」

 麻生が声をかけると、むぎは素直にダイニングへやってくる。

「今、一哉くんにしたの? うーんとね、ウィンザーノットって言ってね。両側にひっかけて

……あ、やってみる?」

「お前、女なのに詳しいのな」

「うん、あたし前の制服がネクタイだったの。その時、最初にお父さんに教わってね〜。で、

練習したんだよ。お父さんが背広着て行く時しめたりして……何度も…………」


 むぎの瞳が、少し遠くを見る目になり、麻生は一瞬、息をのむ。

 すでにこの世にいない、むぎの両親。


「むぎ!」


 その時、出かける前の一哉が廊下への扉に手をかけたまま、大きな声で、むぎを呼んだ。

 途端に、我に返ったかのように、びくんと背筋を伸ばす、むぎ。


「な、何? 今、麻生くんに」

「こっちへ来い」

「え?」

「いいから来いよ。命令だ!」


 玄関へ向かう一哉に一方的に呼ばれて、むぎは小さく「ごめんね」と麻生に声をかけると、

一哉の側へ行ってしまった。


 開けっ放しにされたドアの向こうの玄関先あたりから、旦那が出勤前の新婚夫婦の如き二人

のやりとりが切れ切れに聞こえる。



 麻生は大きく溜息をついた。


 むぎが過去に囚われそうになった正にその瞬間、絶妙のタイミングで引っ張り上げた一哉に。

 それは一哉の独占欲から来る嫉妬であったのかもしれなかったが──。

 偶然なのか。

 意図したものなのか。

 常に冷静沈着で感情を表に出さないあの一哉に、意図しない偶然がそうあるとも思えないが、

ことは天然純粋培養の奇跡みたいなむぎ相手である。

 彼女相手では、さすがの御堂一哉も勝手が違うらしいのを麻生は知っている。

 むぎに出会って明らかに一哉は変わった。


 一哉だけじゃない。

 遊びと割り切った女関係の派手さで人後に落ちない松川依織も一宮瀬伊も、気まぐれに付き

合っていた女性関係を次々に整理して、夜の外出をほとんどやめてしまい、極力、この家で食

事をするようになっている。


 男四人、女一人の他人ばかりが暮らしている、この御堂家の不可解な同居関係を、どう説明

すればいい?


 そして女嫌いであるはずの羽倉麻生自身も──。


 幸い、他の同居人は、まだ帰宅していない。

 一哉が出かけてしまえば、この家に残るのは麻生とむぎだけだ。

 たぶん、ほんのしばらくの間だろうが。


「ったく、やってらんねーな!」


 一人つぶやきつつも、あきらめずチャンスをうかがうつもりでいる自分に呆れて、麻生は、

すっかりぬるくなったジュースを一気にあおると、一哉を見送ったむぎが玄関から戻ってきた

ら、まず何を頼もうか考え始めた。 






      


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