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 佐保山のははそのもみぢ散りぬべみ夜さへ見よと照らす月影 

読人しらず





 どんなに楽しい一日も終りが来る。

 むぎは松川依織に誘われて紅葉の山へドライブにやって来たけれど、

秋の日の短い午後はあっという間に日が暮れる。

「もう帰らなきゃ……みんな夕食、待ってるし……」

 山の景色が一望できる展望台で車を降りて、むぎの作ってきた

お弁当を食べ終わってから、もうずいぶん経っている。

「そう……? 有能な家政婦さんでも、休暇を楽しむ権利はあると

思うのだけれど」

「夜までに帰るって、言ってきちゃったもん」

「頑張りやの君を雇う我らの家主が憎いね」

「依織くんらしくないよ、そんなの」

 むぎが笑うと依織も微笑みを返す。

「らしくない……かな」

「ほら、暗くなっちゃえば、赤い紅葉も、よく見えなくなるし……」

「風が出てきたな……せっかくの照り葉も散ってしまうね」

「うん」

 ちょっとしたメランコリー。

 依織はやさしくむぎの肩を抱き、最後に大きく深呼吸してから、

ふたりは錦のパノラマに別れを告げた。

 むぎが車に乗り込む時、依織はお抱えの運転手よろしく、さっと

ドアを開ける。

 そんな姫君扱いの動作にまだ照れくささを隠せないむぎは、お礼を

言いつつも何となく恥ずかしくて彼から目をそらす。

 その時、車のサイドミラーが、かすかな光を返してきた。

「あ……お月さま……」

 光を追って天を仰げば、暗くなりかけた山の端に白い満月が顔を

見せていた。

 紅の山を月光が照らす。舞い散る紅葉も月影に輝く。

「すごくキレイ……。依織くんがこの間、出た歌舞伎の舞台みたい」

「それは最高の賛辞だな」

 依織は車に乗り込まず、ゆっくりとむぎに向き直った。

「この秋最後の散り際の紅葉をもっとゆっくり見たくはない? 

月も僕らの味方のようだよ」

 こんな誘惑にいったい誰が逆らえるだろうか。

「それじゃあ……ホントに、あとちょっとだけ」

「だったら時間なんて、わからなくしてしまおうか」

 甘いキスに溶かされて、恋人達の秋の夜は月影にまぎれた。







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