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 白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり 

紀貫之





 朝晩、ぐっと冷えこむようになって、水仕事もなかなかやっかいに

感じられるこの頃だが、有能家政婦むぎは、そんなことでは怯まない。

 今日もランドリールームでお洗濯だ。

 歌など口ずさみながら、むぎが洗濯していると、羽倉麻生が顔を出した。

 彼は蛇口から流す水で洗濯物をすすぐ彼女に気付いて口出ししてきた。

「なぁ、今お前が洗ってるの俺が洗濯頼んだシャツだろ。水で手洗い

なんかしてんのか? お湯使えばいーじゃん。そっちのが楽だろ」

「だって怪我して血がついちゃったんでしょ。血液はお湯使ったら

落ちないんだよ」

「マジ?」

「うん。たんぱく質だもん。卵と同じだからさ」

「そっか……わりぃ」

「麻生くんが、あやまることないよ。あたしのお仕事なんだから!」

「だって、お前、手、真っ赤じゃん」

 洗い桶につかっているむぎの手は冷たい水のせいか、まるで紅葉のようだ。

 何を思ったのか、麻生はいきなり水の中にあったむぎの手を取り、大きな

手でくるむようにして彼の胸に引き寄せた。たらいの水がぱしゃりとはねる。

 冷えた手が突然ぬくもりに包まれて、呆気にとられたむぎは、目の前の

麻生を見上げて我に返る。

「ねえ、濡れちゃうよ!」

「かまわねぇ。こんなに冷たくしやがって」

 麻生は目を閉じてうつむいたまま、むぎの手をさすっている。

「だって……手が……あ……っ」

 胸に押しつけられるようにしてきゅっと握られた手が、じんじんと熱を

持ち始めるのを、むぎは意識する。

「麻生くん! 麻生くんってば!」

 大きな声でむぎが名を呼ぶと、ようやく麻生は顔を上げ、二人の目が

真正面からもろに合う。

「あ──」

「むぎ……俺……」

 濡れた手を握り合い、見つめ合い、あと一押しで何かが起きそうな──。

 その時、むぎのポケットで携帯電話が鳴った。

「あ、麻生くん。手、離して……っ」

「え? あ、うわ、すまねー。俺、そ、その、変なつもりじゃ!」

 麻生の顔が、みるみる内に赤くなる。

 それを見ているむぎもつられて頬が熱くなる。

 ふたりとも上から下まで全身一気に色づいた紅葉みたいになって、

あわてて離れても熱は引かない、初めての季節。







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