所有せざる人々 アーシュラ・K・ル・グィン 早川書房

勢いをつけて始めたこのコーナーの最初に、とんでもない本をもってきてしまった感が否めない。 いや、勢い余ってというところか。ル・グィンの著作、ことにこの本を語ろうなどと、僭越もはなはだしい。
私の持っている数少ないハードカバーである。奥付けには昭和56年6月再版とある。無慮数十回は読み返しているだろうか。
分類はSF。ル・グィンのハイニッシュ・ユニバース<Vリーズの初期に属する物語である。
たぶん、シリーズ中でもSF臭は薄く、異世界が舞台であるにも関わらずSF読みでない人にも読みやすい物語だろう。
題名のごとく、所有する事を拒んだオドー主義(原始共産制をふたひねり、いや、みひねりくらいしてるかな?)と所有する人々 (資本主義っていうのかなぁ)を背景にオドー主義社会で成長する一人の知的青年(知的には巨人かも)の物語なのだけれど・・・

翻訳者の解説にあるように、ル・グィンの作品に関する論評は数多い。ことにアメリカでは多いらしいが、 通常そういう類を読まない私も、昔あるSF雑誌で日本人による本書の論評を目にした事がある。
内容的には、「こんな理想主義社会は成立し得ない」といったものだったような記憶があるが、当時でさえ笑ってしまった。
SFを読むときに「こんなことは有り得ない」という論評がいかに的外れなものか。SFにとどまらない。小説を読んで、「荒唐無稽」 と評するのはアタマの悪いヤツである。すべて小説は肯定的な意味での荒唐無稽をめざしているのである。でなければ、「事実は小説よりも奇なり」 などといった成句は流通しなかっただろう。

SFにある、「思考実験」という面が薄れて久しい、と思うのはある種、老いの繰り言に近いだろうか。
当節SFといえば派手やかな映画やアニメが全盛だけれども、視覚に訴える派手さばかりが目立って、SFたる必然はどこへ行ったのだろう。
SFならではの視覚効果なのだから、SFなのだという主張ももちろんできるだろうけれど、思考実験という観点から見れば、すべての 小説はSFである、と高らかに謳い上げたかつての面影はどこにもない。

話がそれてしまったけれど、この地味な小説、いかに理想主義社会であろうとも人間が存在し、万全な教育はありえないことを 語るこの小説は、何度読んでも古びない。
個人主義と実利主義の葛藤として読む事もできれば、知的活動が人間にとって何を意味するのか?という問いとして読む事もできる。
もっと単純に、人は何故生きているのか?でも良い。
物語の最後のほうで交わされるハイン人の若者ケソーと主人公シェヴェックの会話は印象深い。

  「わたしの種族は非常に古い種族です」ケソーがいった。
  「文明を有するようになって一千千年期経っていますし、
   歴史も何百千年期に及びます。その間に、アナーキズムを
   はじめとして、われわれはあらゆるものを試みました。し
   かし、わたしはまだ試みていません。彼らは、どの太陽の
   もとにも、新しいものはなに一つないといいます。しかし、
   一人一人の生命が、個々の生命が新しくないのなら、何故
   にわれわれは生まれてくるのです?」
  「われわれは時の子供だ」シェヴェックはプラヴ語でいった。

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さよならダイノザウルス ロバート・J・ソウヤー 早川書房

この本を選んだのは、なんてことはない。今日2度目の読み返しをしたからである。
ごく最近の本である。作者もわたしと同年代かなぁひょっとしたらもっと若いかも。
可愛らしいとも思える題名に反して(もっとも原題はEND OF AN ERAだけれど)プロローグは主人公が癌で死に瀕した父親に面会する 場面からはじまる。奥さんと離婚していることも語られる。そして死に瀕した父親をおいて、人類初の時間旅行へでかけること、 2名の乗員のうち、相棒は奥さんを寝取った親友だったりする。では重ったるい話なのかと思えばぜんぜんそうじゃない。
父親が古い時代のTV番組「アイ・ラヴ・ルーシー」を見ていたり、タイムマシンが「宇宙家族ロビンソン」の乗り物ジュピター2号に似ていたり、 それよりもっとハンバーガーに似ていたり、出てくる小道具(パソコンやビデオカメラetc.)は実在する日本製・・・はっきり言って、この作者、SFのすれっからしである。
なにも、すれっからしが悪いとは言わない。テンポは良いし、あきれるほど使い古しのSFのお約束事(恐竜、時間旅行、タイムパラドックス、火星人、重力制御、ゼリー状生物、 第二の月、火星と木星の間にある惑星・・・あはは)がこれでもかと出てくる。
しかし、ドンデン返しと思いがけない結末がぁ!すれっからしの作者による、すれっからしの読者ためのSFだぁ!

そう、これだけの仕掛けを使いまくって300頁強で読ませるためには、作者と読者の間に、共通の「お約束事」がなければならない。
そんな意味では甘ったれた(狭い市場向けの)作品だろう。二つの時間線をちょっとダブらせて奥行きらしきものも出してみせるが、 これとても使い古された手法でしかない。寝取られ男と、寝取った男とのコンビだって、たいした奥行きは出ていない。
ただし、そういうもろもろの背景を書き込まないと、現代のSFらしくないだけである。
このストーリーは一昔前なら、タイムマシンを発明した天才青年科学者が親友と出掛けて行って、地球の未来を救ったっていいのである。
けれど、すれっからしになった今の読者はそんなことでは納得しない。そんな意味ではエンターテイメントとしての評価はできる。
だって、面白いもの。(^^;

もう一つ評価したいのは、近年SFはシリーズ物が主流になった。シリーズと銘打っていなくとも、先にあげたル・グィンのハイニッシュ・ユニバース&ィや、 ラリイ・ニーヴンのノウン・スペース≠ネどのように背景となる文明に同一性があって年代記が作れるようなものが喜ばれる。作者にとってもライフワークなどと目される。
そういった風潮の中で、単発ものの長編が、いかに少なくなったことか!
一冊読み切りのSF小説がヒットすることは希になってしまった。
そんな中で気を吐いているのが、好感が持てるところだろうか。(これ、続き物が出たら怒るぜ(^^;)

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