中越・廃村に出かけて農家民宿に泊まろう(2)

中越・廃村に出かけて農家民宿に泊まろう(2) 新潟県十日町市越ヶ沢,大倉,
___________________________藤沢,霧谷,津南町樽田,横根


廃村 藤沢(ふじさわ)に建つ冬季分校跡の建物です。



2006/10/14〜15 十日町市(旧川西町)越ヶ沢,大倉,藤沢,霧谷,津南町樽田,横根

# 14-1
新潟・中越ツーリング2日目(10月14日(土))の廃校廃村の探訪エリアは,池谷からだと信濃川を渡った旧川西町と,旧中里村,津南町です。
旧川西町には,広くない町域に冬季分校があった廃校廃村が6つ(越ヶ沢,大倉,田代,藤沢,霧谷,平見)もありますが,規模と廃校時期を見て,比較的よく雰囲気が残っていると思われる越ヶ沢,大倉,藤沢,霧谷の4か所を目指すことになりました。
池谷の農家民宿「かくら」出発は朝8時55分。十日町市街には出ずに栄橋で信濃川を渡り,30分後に最初の廃村 越ヶ沢(Koshigasawa)に到着しました(池谷−越ヶ沢間は16km)。国道(R.252)の越ヶ沢トンネルを抜けるとバス停があり,私はバス停から坂を下りました。



# 14-2
旧川西町の廃村は標高200〜300mの丘陵にあり,十日町市の廃校廃村と同じく人気はありそうです。刈入れが終わった田んぼに地域の方(年配の男性、Kさん)が居たので,ご挨拶をして「冬季分校跡はどこですか」と尋ねると,「すぐそばだよ」といって,私を軽トラに乗せて案内してくれました。
中仙田小学校越ヶ沢冬季分校は,へき地等級1級,児童数19名(S.34),昭和49年閉校。越ヶ沢の閉村は昭和60年。隣りに萱葺きの廃屋がある分校跡には,ブランコを支える支柱が残っていました。一見穏やかな雰囲気の越ヶ沢ですが,冬の雪の深さは市街地とは比較にならないそうで,「俺の先祖は何を好んでこんな雪深いところに住んだのかね」というKさんの言葉が印象に残りました。


# 14-3
小1時間 越ヶ沢を探索した後,中仙田を経由して次の目標 大倉(Ookura)に到着したのは10時30分。大倉は戸数4戸(H.18)の高度過疎集落で,バス停があります(越ヶ沢−大倉間は約6km)。その後,大倉の戸数は2戸に減少しました(H.19)
かまぼこ型の雪除け屋根が付いた神社(十二社)の前にバイクを置いて,大倉集落を歩くと,家屋や5mぐらいの高さの柵に掛けられた稲穂(はざ掛け)が目に入りましたが,人気はありません。分校跡の場所は確認済なので道を探すと,それはバイクも入れない山道でした。
山道を上っていくと,つぶれた家屋,錆びた消火栓などが見つかり,やがて「道はここまで」という雰囲気の広がりにたどり着きました。

# 14-4
赤岩小学校大倉冬季分校は,へき地等級2級,児童数35名(S.34),昭和54年閉校。コンクリートの建物の土台や木の電柱が残っているので,この広がりが分校跡の敷地と考えてよさそうです。しかし草に覆われた敷地には,分校跡の雰囲気はあまり感じられませんでした。
3つ目の廃村 藤沢(Fujisawa)の集落跡は国道(R.404)の藤沢バス停から1.5kmほど入った場所にあり,昭和55年の住宅地図では18戸の家屋に加えて,冬季分校,神社,木工所,たばこ屋まで記されています。Web上には「棚田が美しい」という記事もあり,藤沢は訪ねる前から注目していた廃村でした。集落跡に着く前,途中の道から見上げた藤沢の棚田は休耕田でしたが,確かに見事なもので,バイクを停めて写真を撮りました。


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# 14-5
藤沢集落跡に到着したのは11時50分(大倉−藤沢間は8km)。神社(熊野神社)の前にバイクを置いて探索開始です。境内の真ん中にはコンクリートの祠が鎮座しており,その脇には「懐郷」と記された離村記念碑,背には2本の大きなスギ(ご神木)と,迫力があります。
藤沢の閉村は昭和59年。境内に腰を下しておにぎりを食べて,碑文を見たところ,「部落民の今後の幸せを祈り耕地を守ることを誓いながらそして集落の存在を後世に示すため記念碑を建立し今後の心の支えとする」と記されていました。「耕地を守る」は,新潟の農村らしい言葉です。棚田があり,あちこちに家屋(作業小屋)が残り,人気も感じられる藤沢は,とても存在感がある廃村といえます。

# 14-6
冬季分校跡は神社から100mほどの場所にあり,赤い屋根の二階建て木造校舎が手入れされた状態で残っていました。そばの家屋に私と同年代の男性(茂野さん)の姿が見えたので,挨拶をして「分校跡を訪ねて来ました」と話すと,「中も見て行ってください」と嬉しいお返事。
仙田小学校藤沢冬季分校は,へき地等級2級,児童数28名(S.34),昭和58年閉校。校舎の一階は体育館で,今は農機具の収納庫として使われています。入口のピンクの電話は使用可能で,「年配の方の連絡手段にはこれが一番」とのこと。壁にはバスケットボールの籠と,「ぼくたちわたしたちのめあて」という貼り紙がありました。二階は教室が2つと職員室。今は集会などに使われることがあるとのこと。

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# 14-7
木工所やたばこ屋の建物も残っていましたが,その外見は普通の民家と同じでした。「季節を改めてまた来よう」という気持ちになった藤沢の探索は,昼食休みを入れて1時間40分でした。
4つ目の廃村 霧谷(Kiridani)は,藤沢とは対照的に存在感の薄い廃村です。住宅地図にはその名前はありませんし,県道から霧谷に向かう道は不明瞭な上にダートで,「この道で大丈夫なのか」と思いました。霧谷集落跡に到着したのは午後1時55分(藤沢−霧谷間は5km)。作業小屋が3つほどあり,刈入れされた小さな棚田もありましたが,地図に記された神社らしき場所には更地があるだけでした。


# 14-8
歩いて探索する気は起きないものの,「一通りは見ておこう」とバイクを走らせると,道の行止まりに作業小屋があり,年配のご夫婦とイヌが2匹居ました。「これはまずい」と急いでUターンしてバイクを置いた後,歩いて戻ってご挨拶。
仙田小学校霧谷冬季分校は,へき地等級2級,児童数19名(S.34),昭和46年閉校。霧谷の閉村は昭和47年です。
「冬季分校を目指して来たのですが,どこにあったのでしょうか」と尋ねると,棚田の下に続く藪のところと教えていただきました。湧き水を頂戴して,お礼を行ってその場所を目指すと,「ここなのかな」という藪はありましたが,風情は感じられませんでした。

# 14-9
霧谷の探索を終えた後は,昨日から巡り始めた廃村の数が増えてきたこともあり,当初予定していた旧中里村の阿寺(Atera)行きはやめにして,景色が良さそうな渋海川沿いを走り,旧松代町,旧松之山町経由で,津南町の冬季無人集落 樽田(Taruda)を目指しました。
樽田は,これまで巡った農村集落とは異なり,亜炭鉱で栄えた歴史を持つため,藤沢とともに訪ねる前から注目していた廃村でした。
「津南町史」によると昭和16年に味の素が炭鉱を事業化し,最盛期には50戸ほどの家があったとのこと。しかし,昭和42年に炭鉱が閉山し,炭鉱ができる前からの農家も高度成長の波により離村。現在は作業小屋や別荘があるものの,冬季に除雪はされません。

# 14-10
この日走った地域の国道・県道の多くは,広々としている上に交通量はわずかで爽快です。松之山からは峠を越えるとすぐ樽田に着くR.405を選んだのですが,先日の豪雨とため通行止となっており,樽田まで数kmのところからR.353まで戻るというロスが生じてしまいました。
この日最後の廃村(冬季無人集落)樽田に到着したのは,日がすっかり傾いた午後4時10分。霧谷−樽田間はロスの距離を含めると50kmありました。
樽田の標高は500m(津南市街は230m)。バイクを下りて周囲を見渡すと,数戸の家屋と畑があり,人気も感じられましたが,夕方ということで時間は限られています。まず,国道(R.405)沿いの作業小屋にいた地域の方(年配の男性)にご挨拶をして,学校跡の場所を確認しました。

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# 14-11
外丸小学校樽田分校はへき地等級1級,児童数50名(S.34),昭和50年閉校。炭鉱閉山後の児童数は緩やかに減少し,閉校前(S.49)は1名でした。草に埋もれた敷地では門柱らしき折れた石柱,つる草が絡んだ電柱,遊具らしき錆びた鉄管しか見つかりませんでした。
狭い石段を上がった神社(十二神社)は,広めの境内にコンクリの祠があり,その右隣には「十二八天宮改築の碑」という昭和57年建立の石碑と,氏子名を記したプレートがありました。碑には「昭和56年には6メートルに達する豪雪に見舞われ,神社の社殿が半壊」とあり,冬の樽田の厳しい気候が想像されます。また,プレートには,昭和35年の樽田集落の様子が描かれており,戸数は43戸とありました。

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# 14-12
1時間の探索を終えて,蛍光色の外灯に見送られながら樽田を後にして,津南市街に着いたときには周囲はすっかり暗くなっていました。
この日の宿,農家民宿「もりあおがえる」は,津南からのローカルバスの終点百ノ木(Momonoki)にあり,到着は夜6時ちょうど。長く感じたこの日の走行距離は104kmでした。お母さん(中島さん)に話を伺うと,宿はこの夏に開業したばかりで,百ノ木の戸数は9戸とのこと。おばあさん,高校生のお子さんと食卓を囲むアットホームな宿は,昨日の「かぐら」と好対照です。
ご主人は夜9時頃に十日町でのイベントに参加されたというお客さんを2人連れて帰って来られ,賑やかな夜に芋焼酎もはかどりました。


# 14-13
翌15日(日)の起床は朝5時。まだ薄暗い中,地図で見る分には宿から6〜8kmほどの横根(Yokone)という廃村を目指しました。
津南町には,魚沼産コシヒカリ,豪雪,河岸段丘という三大名物がありますが,河岸段丘は日本一の規模を誇るといわれます。百ノ木は志久見川の谷底平野,横根は志久見川と中津川に挟まれた段丘面にあり,地形図の等高線も特異的です。
バスが通らない道を上り,下日出山(百ノ木から3km)は通過し,横根に向かう道がある上日出山(百ノ木から4km)を目指しましたが,分岐道を見出せず,秋山郷の方向にオーバーランしてしまい,「ちょっと気軽に」という雰囲気ではなくなってきました。

# 14-14
何とか段丘面まで上がると,そこは広々とした牧場でした。道は区画整理された様子で,古い地形図の道をたどることができません。
秋成小学校横根分校はへき地等級3級,児童数35名(S.34),昭和45年閉校。谷底の上日出山,下日出山も校区に入っていました。文マークのあたりでは狭いダートにも入ったのですが,学校跡の痕跡を見つけることはできませんでした。
横根の集落跡は文マークから約1km北側,標高730mにあり,続いてこれを目指しましたが,大谷内という方角が違う集落を経由するなど,ここでもずいぶん回り道をしました。ようやく横根集落跡に到着したのは朝7時過ぎ,百ノ木からは20km走っていました。

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# 14-15
横根ではお地蔵さん,弘法大師手形石,閉ざされた家屋,つぶれた廃屋などが見られましたが,人の気配はありませんでした。帰り道,横根の河岸段丘の縁から見下ろす下日出山は霞んでいて,上日出山に向かう下り道は1km近くまっすぐでした。「日本一の規模」に納得です。
上日出山(戸数6戸)には萱葺き屋根の家屋があり,おじいさんの姿が見えたので,「おはようございます」と挨拶をしてお話を伺ったところ,ふだん集落に居るのはおじいさんの家族の方だけで,11月中旬には津南市街に下りるため,冬は無人になるとのこと。
下日出山(戸数7戸)ではおばあさんに出会えたので,挨拶をしてかつてあった冬季分校の所在を伺うと,集落の端っこにあるとのこと。

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# 14-16
秋成小学校横根分校下日出山冬季分校はへき地等級4級,児童数16名(S.34),閉校は昭和40年。このように3つ学校名が並ぶ分校は孫分校とも呼ばれます。かつては新潟県,富山県などに30校ほどありましたが,現在は1校も残っていません。私も初めて見る孫分校跡の校舎は,グレーの屋根をもつ小さな二階建て木造校舎でした。校舎は集落の公民館として活用され,通年で暮らされる家は3戸とのことです。
「もりあおがえる」に戻ったのは8時15分。予定よりも遅い朝食を食べた後,庭に出ると池のほとりで中島さん夫婦とお客さん達がたき火を囲んで栗を焼いていました。朝のことを話すと,中島さんから「ちょっと変わった学者さん」という称号をいただくことになりました。

# 14-17
みなさんの見送りを受けて「もりあおがえる」を出発したのは9時55分。帰り道,お昼頃には長野県飯山市堀越,堂平,沓津に足を運び,夕方には群馬県嬬恋村小串にも足を運びました。南浦和到着は夜9時頃(百ノ木−南浦和は320km),3日間の走行距離は725kmとなりました。
2泊3日の新潟・中越ツーリングで訪ねた「廃校廃村」は,ほぼ当初予定した数の14か所(新潟県10か所,長野県3か所,群馬県1か所)。印象深かった池谷,百ノ木の農家民宿,大池の美術館,藤沢の冬季分校も,「「学校跡を有する廃村」リストを作成する」という構想がなかったら,見出せなかったことでしょう。従来の視点とは違う旅を楽しむためのツールとして「廃校廃村リスト,農家民宿は役に立つ」と実感できた旅でした。

(追記1) 下日出山冬季分校の閉校時期は,津南町教育委員会の方に教えていただきました。

(追記2) 藤沢には雪の季節(平成19年1月20日(土)),「もりあおがえる」の中島さん(ご主人),軍艦島つながりのはがねさんと一緒に再訪しました。




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