自治体規模で消えた村(2) その4

自治体規模で消えた村(2) その4 福井県旧西谷村上秋生,下秋生,____
________________________上笹又,下笹又,大野市上若生子,下若生子

上秋生の離村記念碑を裏側から。墓石ではありません。



2000/5/4 旧西谷村上秋生,下秋生,上笹又,下笹又,大野市上若生子,下若生子

# 7-29
伊勢峠から6kmほど下ったところに,上秋生(Kami-Akyu)の離村記念碑と廃屋となった作業小屋がありました。
上秋生,下秋生,小沢の三集落は,笹生川ダムの建設により,1957年(昭和32年)に離村しており,ダム湖に沈んだこともあって,往時の面影はまったくありません。小沢は完全にダムに沈み,行く道もなくなっているようです。
「西谷村史」によると,上秋生の1954年(昭和29年)の世帯数は27戸,154人。下秋生の世帯数は33戸,181人,小沢の世帯数は44戸,245人。上秋生の離村記念碑は,ほとんどお墓のような雰囲気でした。

# 7-30
上秋生から2kmほどで下秋生に到着。ここには巣原と同じ形の「大野市森林組合作業員宿泊所」という「赤い屋根」の建物と,朽ちて倒れた「下秋生集落跡」の立札があり,その少し下流には「萬霊碑」という離村記念碑がありました。
下秋生から4kmほどで笹生川ダムのサイトに到着しました。ここで声を掛けてきたおじさんのクルマは名古屋ナンバー。何でも江戸時代の末期に水戸天狗党という尊王攘夷派の集団が通った道をたどってドライブしているとのこと。天狗党は,水戸から根尾村,雪降る蝿帽子峠を越えて,旧西谷村を経て京都を目指したのですが,敦賀で力尽きて,353名もの処刑がなされたとのことです。


# 7-31
ダムサイトの少し下流にはなぜか廃トイレがあり,思わずバイクを止めて探検してしまいました。さらに下って,昨日見つけたお地蔵さんにVサインを出して本戸は通過。さらに黒当戸,中島を通過して,昨日は日暮れで通過した吉田さん出身の上笹又(Kami-Sasamata)の離村記念碑「ふるさとの碑」にたどり着きました。少し下った下笹又にも離村記念碑「萬霊之碑」があり,今日は離村記念碑めぐりです。
「西谷村史」によると,上笹又の1954年(昭和29年)の世帯数は37戸,221人,下笹又の世帯数は22戸,135人。下笹又の離村記念碑を見て,和泉村の碑はすべて道から湖沿い立っていて,旧西谷村の碑はすべて道より山沿いに立っていることに気が付きました。

# 7-32
下流の上若生子(Kami-Wakago),下若生子は西谷村には含まれないものの,真名川ダム(麻那姫湖)に沈んだ村としては同じまとまりです。
上若生子の離村記念碑は旧若生子小学校の跡に立っていて,私がこの旅で見つけた離村記念碑の中でいちばん堂々としたものでした。
下若生子の離村記念碑のすぐそば,湖沿いには,金色の麻那姫の像がありました。麻那姫はこの地方の伝説上のお姫さまで,「ひどい旱魃があったとき,うら若き乙女が川に身を投げて,その後乙女の死を悲しんだか雨が降り続き,村は生きかえった」とのこと。
麻那姫のいる公園は,休憩にはよいポイントであり,この日も一服して昼食をとりました。


# 7-33
午後の計画は立てていなかったのですが,昨日と同じく真名川ダムを通過して堀兼の集落まで下りた後は,水戸天狗党の話もあったということで,同じく天狗党が通った宝慶寺(Houkyouji)を経由して,池田町に抜ける道を進むことになりました。
宝慶寺や,池田町に入ってすぐの東青あたりはなかなか風光明媚で,福井県ローカルの,観光名所となっているようでした。
ともあれ,ずっと気になっていた旧西谷村の十一の集落跡のうち,十まで足を運び,いろいろな発見があったということで,十分な達成感を味わうことができました。



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