B'zが聞こえる天空の城ラピュタ 北海道美唄市我路,東美唄



廃村 東美唄の雪に埋もれた沼東小学校の円形校舎跡です。


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1/17/2003 美唄市我路,東美唄

# 16-1
年が明けて,雪の季節がやってきました。この季節になると,雪に埋もれた廃村・過疎集落へカンジキを履いて出かけたくなります。
平成15年は3年目,「どこに行こうか?」と考えると,すぐに「一連の廃村巡りでまだ出かけていない北海道に行こう!」と決まりました。そして,山深くに行くのは危険でかつ難しいので,人里からあまり離れていない場所を探すことになりました。
検討の結果,かつて炭鉱で栄えた美唄(Bibai)市の我路(Garo),東美唄と,なだらかな丘に囲まれた戦後の開拓集落跡の上富良野町の静修開拓(Seishuu-kaitaku)を選びました。ともにカンジキを履いて歩く距離の見積もりは片道1km未満です。

# 16-2
我路をはじめとする美唄市が炭鉱の街として栄えた頃の様子は,「故郷 美唄の思い出」(管理者oomiyaさん)など,いくつかのWebで紹介されています。我路,東美唄は三菱美唄炭鉱で栄えたのに対して,oomiyaさんの故郷の南美唄の炭鉱は三井美唄炭鉱です。
「美唄市百年史」をひも解くと,美唄の屯田兵による開基は明治23年(1890年)で,当時の自治体名は沼貝村。我路と東美唄は炭鉱の開発と鉄道(美唄鉄道)の開通にあわせて大正3年に生まれた街とのこと。その歴史の浅さは,ニューフロンティア 北海道ならではです。
二条通,三条通などの我路の各町には商店が多くあったのに対して,楓が丘,常盤台などの東美唄の各町は主に住宅(炭住)街でした。

# 16-3
沼貝村が町に昇格し,美唄町が成立した頃(大正15年)には,我路は雑貨屋,料理店,旅館から呉服店,劇場まで揃った活気のある市街地となり,我路,東美唄など三菱美唄関連の町の人口は,最盛期(昭和30年頃)には3万人を超えたとのこと。
しかし炭鉱の衰退とともに町は寂れ,炭鉱の閉山,鉄道の廃止はともに昭和47年,実質58年で我路,東美唄の賑わいの歴史は終わりました。
我路は643世帯,2698人(昭和35年,国勢調査)が42世帯67人(平成15年1月,住民基本台帳)に,東美唄に至っては4002世帯,18968人が無人となっています。集落の消失の規模としては,同じく北海道の夕張市北炭夕張,鹿島(三菱大夕張)とともに日本最大級です。

# 16-4
真冬の北海道・東北を訪ねる旅は4泊5日で,出発は1月17日金曜日。羽田から千歳までの飛行機は朝一番(6時30分発)のため午前3時30分起床と慌しかったものの,機内でまどろんでいるうちにあっけなく北海道に到着。8時16分には小樽行きの普通電車に乗っていました。
札幌には出ずに白石で旭川行き普通電車に乗り換え。札幌都市圏の賑わいは江別を過ぎると消え去り,のんびりペースの電車が美唄に到着したのは10時50分。真新しい美唄駅舎は平成14年にできたもので,まだ町になじんでいない様子です。
最盛期9万人を超えた美唄市の人口は現在約3万人。しかし炭鉱閉山は30年以上も前の話。美唄市街に特に寂れた印象はありませんでした。

# 16-5
美唄市街から我路まではおよそ9km,市民バスでおよそ25分。美唄市の公益事業として運行されているバスの料金は200円均一。まずまずの乗客があって,おばあちゃんが自宅の近くを指示しながら下りて行きます。
私は美唄鉄道の駅舎跡があり,往時走っていたSLが飾られているという東明(Toumei)で途中下車。東明駅跡はすぐに見つかりましたが,SLは保護用のビニールシートが巻かれており,見ることはできませんでした。
少し山手に歩くと,途中右手に黄色い壁が印象的な映画館跡がありました。覗いてみると,車庫などとして活用されている様子でした。

# 16-6
さらに歩くと,栄小学校跡を芸術文化施設として再利用したという「アルテピアッツァ美唄」がありました。市の施設で入場料は無料。体育館跡には安田侃さん(美唄出身の彫刻家)の作品が展示されています。また,木造の校舎跡は二階が施設の別館,一階が現役の市立幼稚園となっており,小さく聞こえる子供達の声が心を和ませます。
この施設がある落合も,往時は炭鉱関係の方がたくさん住まれていたそうですが,平野部の端となることから人口の流出は少なく,雪は積もっているものの,普通に見られる町の風情でした。

# 16-7
再びバスに乗って川沿いを山に向い,午後12時45分頃,過疎集落 我路に到着しました。インパクトのある看板の「やきとりガロ」には人気はなし。地元の方の話によると,注文があったら冷凍の焼鳥を焼くらしいです。
多くの往時の建物の廃墟が残るという我路ですが,積雪のためかあまり侘しさは感じられません。我路橋で美唄川を渡ると無人の東美唄。ほどなく「美唄国設スキー場」があり,ゲレンデにはちらほらとスキーヤーが見えます。「まずは腹ごしらえ」と沼東中学校の体育館跡を再利用したというレストハウスに入り鍋焼きうどんを食べました。東美唄で温かな昼食を食べることができるとはラッキーです。

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# 16-8
廃墟・心霊スポットとして有名な沼東小学校の円形校舎跡の所在地は,事前に調べていませんでした。しかし,現地の雰囲気に慣れてくるにしたがってその所在が気になってきました。場所を特定させなければいけません。
我路に戻り,訪ねた我路簡易郵便局は二階建てのレンガ作り(昭和5年建立)の趣のある建物で,中に入ると職員さんはふたり。地図をお見せして円形校舎跡のことを尋ねると,レストハウスの脇を川沿いに上がったところにあるとのこと。地形図で調べると700mほどです。
その他,我路で印象に残ったのは藤本商店というお店の昔栄えたことを示す広がりです。店のおじさんと話すと,創業は大正6年とのこと。

# 16-9
沼東小学校跡を目指して東美唄に戻りましたが,レストハウスからすぐの沼貝橋の横には道らしきものはなく,積雪は1m強。橋の近くには露天掘りの石炭の集積場があり,運転手さんの怪しげな視線が感じられます。
迷っていても仕方ないので,雪原にカンジキを履いて足を踏み入れたのは3時20分。パウダースノーのため,膝まで埋もれてしまいます。足先を雪に潜らせながら「どのくらい歩くかな・・・」と恐る恐る進んでいくと,10分ほどで視界が広がり,円形校舎跡が姿を現しました。モノトーンの景色の中の大きな廃墟は,さながらSFの世界です。


# 16-10
沼東小学校(沼貝村の東部の意)は三菱美唄炭鉱とともに歴史を重ね,炭鉱閉山の2年後の昭和49年に廃校となりました。鉄筋コンクリート造りで三階建ての円形校舎は昭和34年建立。往時は二棟続きのメガネ状で,華のある建物として有名だったそうです。
二階に近い階段の途中から中に入ると,中央部には廊下と螺旋階段。廊下に沿って6つの教室がありました。6×3階×2棟だから,36もの教室があったことになります。なお,我路,東美唄には4校の小学校があったとのこと。
一階は床が落ちて水没していたのですが,凍りついているため,歩いて一周することができました。

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# 16-11
円形校舎跡を出てもう少しだけ山に向かうと,骨組みだけになった体育館跡がありました。それでも屋根には雪が積もっており,床の部分は枯草が見えるぐらいしか雪は積もっていませんでした。
見つけた建物跡はこの二つでしたが,なぜ円形校舎は一つだけ残されて一つは取り壊されたのでしょうか。
探索中は,ずっとスキー場からの賑やかな音楽がかすかに聞こえていました。BGM付きの廃墟探索は珍しいことなのですが,雰囲気が乱されるというよりは,寂しさを紛らすというプラスの効果が大きかったです。


# 16-12
沼貝橋に戻ったのは4時20分。季節柄空はどんどん暗くなり,スキー場のゲレンデはライトで照らされていました。
「パウダースノーは濡れない」と思いきや,体温で溶けてジーンズは湿りしんしんと冷えてきました。我路の郵便局に併設された生活館には風呂があるのを確認していたので,これに入って暖を取りました。冷えた体にはいちばんの恵みです。
映画館の映写室の廃墟が目の前に残る我路バス停から美唄駅行きバスに乗ったのは5時30分。なぜか運転手さんは三度とも同じ方で,「我路に知り合いでもいるのかい?」との問いに「いいえ,いません」と答えると,不思議そうな顔をされていました。

# 16-13
美唄からは特急「オホーツク」で旭川に出て,「北海道の建物」Webの管理者の成瀬さんと一緒に「松尾ジンギスカン」に行きました。
この夜の旭川は−4℃。成瀬さん曰く「暖かい夜」だそうです。成瀬さんは旭川在住の大学生。近代建築のほか,炭鉱跡の廃墟などにも興味をお持ちで,お店では炭坑夫グッズを披露してくれました。しかし,雪中行の運動量のせいか,ビール2本と酎ハイで相当に回りました。
この日の宿は美瑛の民宿「ほおずき」で,到着は10時40分。ドアtoドアで16時間以上という長い一日でした。
円形校舎跡にはこだわらないつもりだったのですが,振り返ると円形校舎跡の持つ廃墟の魔力を強く感じる結果となりました。




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