ウード弾きの少年 |
時はシャーバーン月からラマダーン月へと移り、今夕、ラマダーン明けの新月が夕空に姿を現した。合図の太鼓が打ち鳴らされ、その夜が明けると、断食明けの祭が始まった。
犠牲祭と同様、最も盛大なこの祭は、断食明けの祝福の言葉とたくさんのご馳走で賑やかに祝われる。ワジールの反乱はすでに片がついていて、盗賊のいなくなった街では、人々が安心して昼間から夜遅くまで街を行き交い、商店や屋台に群がっていた。
祭の初日の朝には、城砦からジャーミーへ向かうアミール軍のパレードがあった。きれいに飾りつけられた街の中を、いつにもまして勇壮で豪華なパレードが練り歩く様は、ディマシュクの栄華を織り込む一幅のタペストリーのようだった。
3日間に及ぶ祭の2日目の夜、ユースフは一人で、アフマドとハールーンの新しい部屋に向かった。二人は数日前に隠れ部屋を引き払い、新しく借りた部屋に移ったのだった。
部屋の近くに来ると、ウードの音が聞こえた。ハールーンもアフマドも長い間、街で商売をしていなかったので、ウードの音を聞くのは久し振りだった。
ドアを叩くと、アフマドが出てきた。
「おめでとう、じいさん。アッラーのお恵みがありますように」
型通りの挨拶を済ますと、ユースフは中に入った。バラの匂いがして、ユースフは鼻をひくつかせた。
「また、まじないをやってたのか……。よお、ハールーン、ウードの練習か?」
絨毯の上に敷いた布団に座り込んで、古ぼけたウードを弾いていたハールーンは、笑顔で答えた。
「まぁね。怪我もよくなったし、そろそろ商売を始めないとな」
「よかったな、おまえもじいさんも元気になって」
「あんたには本当に世話になった。ルートとマルヤムにも」
アフマドの言葉にユースフは苦笑した。
「あの二人、世話し足りないって残念がってたよ。親切過ぎるのが玉にきずでね」
それからユースフは金の入った袋を取り出して、アフマドに差し出した。
「今日はアミールの使いで来たんだ。これはアミールから祭の祝いの品だ。断食明けの祭には、アミールは貧しい人々への喜捨だけでなく、世話になった人や恩のある人にも贈り物をする。それであんたたちにもってことだ。受け取ってくれ」
「もう充分、謝礼をいただいているのに……」
アフマドは困った顔をして袋を眺めた。
「まあ、あんたたちもいろいろと入り用だろ?受け取っとけよ」
ユースフはアフマドの手に袋を押しつけた。
「それからハールーン、アミールが直々に礼を言いたいと言ってる。あさっての昼、館に来てほしいそうだ。その時、おまえのあのウードも渡すそうだよ」
「えーっ、おれ、行きたくないよ。ウードはあんたが届けてくれよ」
ハールーンはいかにも嫌そうな声で、ユースフに訴えた。
「それはできない相談だな。おれは口出しできる立場じゃない。格式張った場所が嫌だっていうんなら、それは気にすることないよ。殿は鷹揚な方だから、多少無礼な口きいたって機嫌を損ねるようなことはないし、もともとおれらトゥルク人は、礼儀知らずだなんて言われてるくらいだからな。ウードを取りに行くつもりで、気楽に行けばいいさ」
「でも……」
戸惑いながらハールーンはアフマドの顔色をうかがった。アフマドはハールーンの方を見ると、いかめしい顔をして首を横に振った。
「行かんほうがいい。あの日、おまえがアミールの前でしたことを、あれこれせんさくされたら困るだろう。あのウードはもう諦めろ」
ハールーンはうつむいた。アフマドの諭したことが二人の秘密に関係しているとユースフは気づいて、すぐにハールーンに代案を出した。
「ハールーン、ウードを諦める必要はないよ。殿にはおまえがその日に来れないことをうまく言っておく。おまえには殿が不在の日を教えてやるから、その時にウードだけ取りに来ればいい。そうだ、そうしよう」
ユースフは一人で納得して、ハールーンを見た。ハールーンは決まり悪そうにユースフを上目づかいで見てから、仕方ないという顔を作ってうなずいた。
「さてと、用事はそれだけなんだが……」
そう言って、ユースフはその後しばらく躊躇していた。彼はハールーンに言わなければならないことがあった。だが、なんとなく言い出せなくて、この日まで過ごしてしまっていたのだ。今日こそは言わなければと思って来たのに、まだぐずぐずためらっている自分をせきたてて、ようやくユースフはひどく緊張した声で言い出した。
「ハールーン、話がある」
ハールーンは怪訝な顔をした。
「なんだよ?あらたまって……」
ユースフは顔を上気させて、アフマドに「誰かに話を聞かれないように、外で見張っててくれないか」と頼んだ。アフマドは「大きな声は出すなよ」と言って、ドアの外に出た。
二人きりになると、ユースフはハールーンを意識してカチカチになり、話を切り出せなくなってしまった。硬直しているユースフを見かねて、ハールーンが先に口を開いた。
「そういう不自然な態度、人がいる前じゃ出すなよ。疑われるぞ」
「ウッ、そ、そうだな。すまん、気をつけるよ」
慌ててユースフは言った。それがきっかけで、彼は一気にしゃべった。
「あの時はすまなかった、ハールーン。とっさのこととはいえ、おれはおまえの……」
そこでまた、ユースフは口ごもった。うまい言葉が見つからないまま、彼はうつむいて、もう一度「すまん!!」と謝った。
「いいさ、おまえが助けてくれなかったら、おれはどうなってたかわからなかった。おまえはおれの命の恩人だ。おれのほうこそ礼を言わなきゃ」
ハールーンは静かに答えて、抱えていたウードを置いた。そしてユースフを見つめて「ありがとう、ユースフ」と言った。
ユースフは顔を上げ、泣きそうな顔になってハールーンを見つめ返した。その顔がおかしくて、ハールーンは笑い出した。
「アハハ、なんて顔だよ、ユースフ。大丈夫さ、責任取れなんて言わないよ」
「せ、責任……」
思わずユースフは顔を赤らめた。(その言葉の意味をわかって言ってるのだろうか?)と思いながら、彼は改めて笑っているハールーンの顔を見た。誰が見ても美少年と認める整った相好を崩し、白い歯を見せて笑っている顔はかわいらしい。だが髪を短く刈っているせいなのか、やはり少年の顔にしか見えない。一度貼ってしまったレッテルは、容易に外すことはできないようだった。
「とにかく!」
ユースフはハールーンの笑いを止めるように、声を強めた。
「おれはじいさんと約束した。おまえのことは誰にも言わないと。もし約束を破ったら……」
「ああ、じいちゃんから聞いてる」
ハールーンは遮るように言った。
「もし約束を破ったら、すぐさま、おまえを殺す。もっとも、それができるのは後わずかだけどね」
「え?」
ユースフはポカンとした。構わずハールーンは続けた。
「もうしばらくしたら、おれたちこの街を出るんだ。だからおまえとの付き合いもそれまでだ。おまえはおれたちのことを、きれいさっぱり忘れちまってくれ。それで終わりだ」
「そうか、行っちまうのか……」
がっかりしたユースフが肩を落としてつぶやいた。
「仕方ねーだろう。ひとつ所にいられねえんだから……。わかるだろう?」
困ったように口をとがらせてハールーンは言い、ユースフはそれに「ああ、そうだな」と寂しげな表情のまま答えた。
二人はしばらく沈黙した。ランプの炎が揺らめいている。黙ったままハールーンはまたウードを抱え、鳴らし始めた。ユースフは再び躊躇していた。彼にはまだ言いたいことがあったのだ。けれどもそれを言い出せずに、別のことを言い出した。
「……そういえばおまえ、自分の歳知らないなんて嘘言ったな。じいさんに聞いたぞ」
「ああ」
ハールーンは思い出してうなずいた。
「歳ね。いいじゃねーか、歳なんかどーだって。たいしたことじゃないさ」
「けどな、おまえ、おれと四つしか違わねえのに、おっさん扱いしたんだぞ」
憮然とした面持ちのユースフを、ハールーンは挑発するようないつもの生意気な様子でやり込めた。
「それはおまえがおっさん臭い顔してるからさ。変に真面目くさったおっさんそっくりだぜ。歳は関係ねーよ」
その言葉を真に受けたユースフは、怒るどころかショックを受けて「おれ、そんなにおっさん臭いかなぁ」と情けなくぼやいた。
「臭い臭い!気をつけたほうがいいぜ。ほんとのおっさんになる頃には、もうじいさんだぜ」
ハールーンは茶化して言い、また笑い出した。今度はユースフも笑った。笑ったおかげで気が楽になり、ユースフはようやく言いたいことを切り出した。
「おれは約束を守るよ。おまえが行っちまっても。ただ、その代わりと言っちゃなんだが、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「頼み?」
笑顔のまま、ハールーンは聞いた。
「おまえの本当の名前、教えてくれるか?その……、女の名前だ」
またたく間にハールーンの笑顔が消えた。次の瞬間、ハールーンは顔を赤らめ、困惑した表情になって、そっぽを向いた。
「本当の名前なんて、知らない」
「その顔は知らないって顔じゃないぞ。嘘言うなよ。いいじゃねえか、名前ぐらい教えてくれたって」
「嫌だ、言いたくない」
「どうして?」
「おまえこそ、どうしてそんなこと聞くんだよ?おれはハールーンだ。男だろうと、女だろうと。どうしてそれじゃいけないんだ?」
「だから、ちょっと聞いてみたかっただけだよ」
「やだ!絶対に言わない」
顔を赤くしたまま、ハールーンは頑固に言い張った。こんな態度を取るハールーンを、ユースフは初めて見た。
「わかったよ。じゃあ、無理にとは言わん。その代わりに別の頼みを聞いてくれ」
「なんだよー」
迷惑そうにハールーンは眉に皺を寄せた。ユースフはもうためらいを捨て去って、自分の望みを素直にハールーンにぶつけていた。
「おまえ、前に商人にもらった女の服、どうした?」
「ああ、なんかすぐ売っぱらっちまうのも気が引けて、まだそのまま持ってるけど……って、おまえ、まさか!?」
照れたような顔で、ユースフは頼み込んだ。
「一度でいいんだ。あれ、着て見せてくれないかな?」
ハールーンはまたもや、困惑の表情で抗議した。
「お、おまえなぁ!おまえは命の恩人で、おれが手出しできないからって、約束をたてにおれをゆするのか?」
「バカ!なんで女装がゆすりになるんだよ。そんな大層なことか?別に他意はねえよ。ただちょっと見てみたいだけなんだ。おまえの、その……、女としての本当の姿を」
「本当の姿なら、あの時見たじゃないか」
むくれた顔を背けて、ハールーンはつぶやいた。ユースフはそれを聞いてハッとし、うろたえ、それから肩を落とした。
「すまん。困らせるつもりはなかったんだ。ただ、おまえが女だっていう実感が欲しくて、つい……」
「ユースフ、おまえなぁ、約束守りたいんだったら、おれが女だってことは忘れたほうがいいんだぜ」
ハールーンはあきれて言った。けれどもユースフはまだ諦め切れずに尋ねた。
「わかってるよ。わかってるんだが……。なぁ、そんなに困ることなのか?」
「恥ずかしいんだよ」
ハールーンはむくれたまま答えた。
「女が女装するのがか?」
「おれにとっては、男が女装するのと同じくらい恥ずかしいんだよ!」
やけくそになって言うハールーンの言葉で、ようやくユースフは食い下がるのをやめた。
「わかったよ、ハールーン。悪かった。おれ、おまえの気持ちがよくわからなかったから……。嫌ならいいんだ。これできっぱり忘れることにするよ」
ハールーンは黙っていた。顔はむくれたままだったが、何かを考えるような目をしていた。
やがてハールーンはポツリと言い出した。
「いいよ。一度だけ女装するよ」
「無理しなくていいんだぜ、ハールーン」
なだめようとするユースフを、ハールーンは振り返ってまっすぐ見つめた。
「いいんだ。おれ、行きたい所があったから。ちょうどいいや……。今日の昼、ジャーミーへ礼拝に行く。おれの本来あるべき姿で。おまえはその時見ればいい」
「おまえ、ジャーミーへ行かなかったのは、女だから……?」
ハールーンはユースフから視線を外し、ランプの炎を、まるでそれがジャーミーの塔であるかのようにうっとり見つめた。
「ジャーミーへ行きたかったんだ、ずっと。美しいモザイクに囲まれた荘厳で神聖な場所、そこで礼拝すれば、アッラーの御許により近づけるという徳の高いその場所で、礼拝したかった。でも、どうしても行けなかったんだ。普段は男も女も関係ないと思ってるのに、あの場所ではだめなんだ。女としての自分を偽ってるって思い知らされて、どうしても入ることができなかった」
素直に自分の気持ちを打ち明けるハールーンの横顔を、ユースフはじっと見ていた。そこには、世慣れた生意気な少年の姿に隠された、純粋で真摯な少女の心が見えていた。淡々と語られた言葉の中に、少女の背負う重荷の重たさが感じられて、ユースフは胸が締めつけられるような切なさに襲われ、言葉少なに席を立った。