第2場 5・大切なもののために - 第3場 第4場

ユリウスはバイオンへの道を急いでいた。西の森の中のライシャの居場所は、以前と変わりなければ、バイオンの町から南西方向にある村から森に入るのが、一番近いはずだった。

(ディンカースだったかな、あの村……)

14年前、初めてライシャの所へ行ったとき、彼はバイオンから歩いて行った。だから、バイオンからの道順しか知らない。思うように勘の働かない今は、距離的には遠回りになるがバイオン経由で行くしかなかった。

バイオンまで後半分、ライゲンからの街道に合流する手前あたりで、ユリウスは馬を止め、近くの小川のほとりで休んだ。ここまでほとんど走りづめで、馬も自分も疲れていた。

(デューカはともかく、自分までこんなに疲れるとは……)

川で顔を洗いながら、ユリウスは自分を情けなく思った。

(体が重い、感覚が鈍い……。これでは思ったより、時間がかかるな)

一息つくと、彼は草の上に座り込んだ。デューカは少し離れた所で、おとなしく草をはんでいた。

「強がり言ってないで、ドーラに力を借りればよかったか……」

ため息をついて、彼はひとりごちた。闇の道ならば、もうとっくに西の森に着いている。ティアーナの身を案じるなら、そうすべきだったのかもしれない。だが、彼はこの問題は、自分の手で解決したいと思っていた。人の助けを借りたくはなかった。

(わたしが行くまで、ライシャはティアに危害を加えはしないはずだ)

そう思って、ドーラの申し出を断ったのだった。それなのに一方では、依然、根拠のない不安が彼に付きまとっていた。彼はポケットから、ティアーナの紐のちぎれたクリスタルを出して見た。

(無事でいてくれ、ティア……)

願いを込めて、それを握り締めると、もう一度ポケットにしまった。

ユリウスはあぐらをかいて座り直すと、遅い午後の日差しがきらめく小川の流れを、ぼんやりと眺めた。ちょろちょろと川の流れる音と、ときおり道を通り過ぎる荷馬車の音が聞こえるだけで、あたりは静かだった。

(闇が来ている……)

力が弱まっていても、それは感じられた。彼の内面はやがて、深い孤独の闇に包まれた。彼は目を閉じ、その感覚を静かに受け止めた。時々、彼はそうして不意にやってくる、内面を包み込む闇を感じていた。孤独の闇――それはおのれが、おのれの個としての存在を意識するが故に生まれる自己の闇だった。外に目を向ければ、世界は存在し、自分はその中の一部だ。大いなる気の流れの一部であり、世界を構成するものの一部だ。しかし、目を内に向ければ、自分は闇の中に浮かぶ、たった一つの存在だった。何ものも決して入り込むことのできない、自分だけしか存在しない闇……。

しかし、ユリウスは闇に浮かぶ自分に、異変が起きているのに気がついた。彼は胸の前で両腕を広げた。腕の中に暖かいぬくもりがあった。それは彼がこの3年間、親しくその腕に抱いていた、優しくて暖かくて柔らかいもののぬくもりだった。

(そうだ、これはティアのぬくもりだ……。3年の月日、東の森で共に生き、共に暮らしてきた彼女の……)

いつの間にか彼女は、彼にこんな暖かいぬくもりを、与えてくれていたのだった。

夫婦とは不思議なものだとユリウスは思った。夫婦の関係は常に一方通行ではありえない。互いに影響し合い、分かち合い、与え与えられるものだ。彼はいつも、彼女と言葉を交わすとき、ふと心が触れ合うとき、安らぎの中で睦み合うとき、互いの気が交じり合い、溶け合うのを感じていた。そして溶け合った気が分かれて、互いに戻っていくとき、彼は彼女の、彼女は彼の何かを与えられる。まさしく二人は共に互いを分かち合う存在だった。そのために、すでにユリウスはティアーナのことを、他人とは言いきれないほど近しい存在に感じていた。それはまるで体の一部のような、ごく自然に側にあって、慣れ親しんでいる――誰も自分の体の一部に、ことさら愛情を示したりはしないけれど、それを失えば例えようのないほどの喪失感に襲われる――もののようだった。

しかし、かと言って彼女が本当に、自己の一部になってしまったわけではない。彼女は彼女だ。すでに他者とは言えなくても、自己であるわけでもない。彼女は決して、彼の闇の中には入ってこれないのだ。だが確かに、彼女はぬくもりとして彼の腕の中に存在していた。他者でもなく、自己でもなく、自他の枠を越えて共にあるもの――この不思議な絆……。

(暖かいな……)

ユリウスは闇の中で独り微笑み、腕の中のぬくもりがもたらす、ティアーナの面影を思いやった。こうして共にあることの密やかな喜びをかみ締めた。不思議な絆で結ばれた彼女に対する想い――それをどうして一言で表現できよう?――彼にとって、その想いの前では、どんな一言も浅薄な、あるいは利己的な表現しかできないように思えた。

(では、彼女はどうなのだろう……)

ティアーナには気の交流はわからないかもしれない。しかし、それでも彼女は彼の何かを感じ得ているはずだ。だからこそ、彼女は苦しみ悩んだのかもしれない。彼女の感じ得たことは、彼女を苦しめるようなことだけだったのだろうか。それとも、ほんのわずかでも、彼の想い、彼のぬくもりを彼女は感じてくれていたのだろうか――

お気をつけあそばせ――エリーザの言葉がユリウスの脳裏によみがえった。

(問題は想いではなく、表現の方だったか……。エリーザの言った通りだったな)

それはドーラの言った言葉にもつながることだった。

(わたしが彼女に望むこと……)

不意にろうそくの火が揺れるように、腕の中のぬくもりがはかなげに揺れた。彼は慌ててぬくもりが消え去らないように、両腕の輪を縮めた。

(行くな……、行かないでくれ、まだわたしは……)

ユリウスは目を開けた。物思いにふけっている間に、ずいぶん時が過ぎたようだった。

(日没までに町を抜けなくては)

彼は鞍袋に入っていた皮の水筒に小川の水を詰め、デューカに乗ると、再びバイオンへの道を急いだ。


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